2006-01-01から1年間の記事一覧

瞋る人――結城信一と会津八一(その3)

1 「會津八一ほどエピソードの多い人間は珍しいのではないか」と、工藤美代子は『野の人 會津八一』のあとがきに書いている。このひと月ほど、八一の本、八一に関連する本を十数冊、机上に置いてあれこれと拾い読みをしてきたけれども、多彩な挿話が何人も…

『石榴抄』小感――結城信一と会津八一(その2)

1 「私のこの小文の究極は、八朔先生と、きい子との結縁(けちえん)に就いて語ることである」と、冒頭近くで述べているように、結城信一の『石榴抄』は、八一が絶唱「山鳩」に詠った養女きい子と暮した日々を描いたものである。 曾宮一念が随筆「落合秋草…

結城信一と会津八一

結城信一は高等学院で会津八一に英語を教わった、と前回書きしるした。結城信一が早稲田高等学院に入学したのは昭和九年(1934)で、この頃、秋艸道人会津八一は早稲田大学文学部の教授であった。高等学院にも出講していたのだろう。『作家のいろいろ』…

岩本素白と結城信一

以前書いた「「槻の木」の人々――岩本素白素描」(2006-03-12)が偶々来嶋靖生さんの目にとまり、「槻の木」11月号の「その後の「素白先生」」という文章で来嶋さんが引用してくださった。素白が随筆の発表の舞台とした「槻の木」に拙文が掲載されるとは畏…

おとぎ話の中で観客はモンスターとなる(その2)

(承前) 一方、ホラー映画における映像的な特徴は、なによりも被害者の背後からスニークする(忍び寄る)カメラの動きにある。 ブライアン・デ・パルマは『殺しのドレス』で、美術館の中を逃げまどう女性をステディ・カムを用いた流麗なカメラワークでとら…

おとぎ話の中で観客はモンスターとなる(その1)

古雑誌を整理していたら、昔、原稿を書いた雑誌が出てきた。「エスクァイア日本版」2000年3月号、<恐怖の館へ、ご招待>と題したホラー映画特集。 しばらく休刊していた映画雑誌が復刊されることになり、私は勤めていた出版社を辞め丸二年住んだ京都を離れ…

ロリータ、ロリータ!――ナボコフ再訪(3)

『ロリータ』が文庫になった。若島正の手になる新訳単行本が刊行されたのが昨年の十一月だから、カポーティの新訳『冷血』と同じく一年たらずで文庫になったわけで、これには聊か驚いた。今回の新潮文庫版では訳文に斧鉞が加えられたのみならず、新たに四十…

時のきざはし、あるいは棒の如きもの

1 川崎長太郎の条でふれた平出隆の「遊歩のグラフィスム」、今回は「日記的瞬間」と題して森鴎外の日記と河原温の美術作品とを接続し、それを詩の問題に引きつけて考察して読みごたえがある(「図書」十月号)。 日記は私的な断章であるがゆえに統一的な脈…

フィアルタの春――ナボコフ再訪(2)

1 前回とりあげた『小説のストラテジー』で佐藤亜紀は「作品」とは何かと問いかけ、絵画の場合は「一定の面積の上に配置された、色彩とマチエールを持つ線と面の集まりだ」と定義したうえで(「かなり旧弊な定義だ」と断りつつ)、受け手にとって「今日、問…

世の中にまじらぬとにはあらねども

「ファッション誌の人たちは、ジーンズと言わない」と、林真理子が週刊誌の連載エッセイ「夜ふけのなわとび」で、最近の言葉遣いについて書いている(「週刊文春」10月19日号)。ファッション誌の人とは、林が寄稿するファッション雑誌の編集者の謂だろ…

鶴   à Céori

鶴は止まり木にちょこんと坐っていた。 スツールにのせた尻が安定しないのか、時折り、滑り落ちないように尻をもぞもぞと動かせている。その様子がおかしくて、僕はしばらく横目でちらちらと盗み見していたが、とうとう辛抱できなくなって話しかけた。 「あ…

みそっかす

以前、ある映画の試写に招かれたときのことである。試写といっても、評論家や新聞記者・雑誌編集者のために映画会社の試写室で行なうものや、一般客に見せるホール試写ではない。ごく内輪のスタッフやキャストに仕上りを見せるための、編集や、科白・効果音…

横たわる子規――詞書寸感

1 正岡子規は『墨汁一滴』の明治三十四年四月二十八日の条でこう記す*1。 「夕餉したゝめ了りて仰向に寝ながら左の方を見れば机の上に藤を活けたるいとよく水をあげて花は今を盛りの有様なり。艶にもうつくしきかなとひとりごちつゝそゞろに物語の昔などし…

けふといふ日――魚眠洞余聞

1 昭和三十年四月十九日の午前十時頃、久保忠夫は馬込の室生犀星宅を初めて訪れた。犀星から届いた前月二十三日附けの草木屋製の葉書に「御出京の折はお立ちより下さい、午前なら必ず居ります」と書かれていたからである。東北大学文学部国文科の大学院に学…

〔Book Review〕『断片からの世界 美術稿集成』――種村季弘三回忌に

種村季弘の文章をはじめて読んだのは、おそらく「ユリイカ」に連載されていた「アナクロニズム」ではなかったかと思う。わたしが「ユリイカ」を購読し始めたのは大学へ入った一九七〇年からで、「アナクロニズム」の連載はそれ以前から続いていたので、まと…

緋色の椅子もしくは物質的恍惚――来嶋靖生『現代短歌の午後』を読む

来嶋靖生さんの新しい評論集『現代短歌の午後』*1を読む。短歌誌、新聞などに発表された現代短歌および短歌史をめぐる評論、エッセイを収録したもの。私は短歌史についても現代短歌についても殆ど無知なので、裨益するところ大であった。さまざまに感想を抱…

カラスか光か――大江健三郎調書

もう十年ほど昔のことになるけれど、その頃勤めていた出版社の海外出張で一週間ほどフランクフルトのブックフェアへ行ったことがある。ついでに、これも仕事でパリからアムステルダムへと足を延ばした。こちらはいずれも一日、二日の短い滞在だったが、パリ…

雨降りしきる――中村昌義ふたたび

上坂高生の小説集『雨降りしきる』を読んだ。 上坂高生は私には懐かしい名前である。学生の頃、五木寛之のなにかのエッセイで上坂高生の『冬型気圧配置』という題名の小説集を知り、妙に心惹かれて手にしたことがある。いまはもう手もとにないけれども、小さ…

幸いなるかな滑稽なる者よ――大江健三郎と中野重治

いささか旧聞に属するというべきかもしれないが、先月、六月二十日の朝日新聞朝刊に掲載された大江健三郎のエッセイ「定義集」(月に一度の連載)に感ずるところがあったので書いておきたい。 1 「それが敗戦に向かう年から戦後数年にかけてだったことを不…

板倉鞆音の翻訳観――翻訳詩の問題再説

板倉鞆音の輪郭が徐々に明らかになってきた。このブログでも板倉鞆音の訳詩の素晴しさについて数度にわたって書いてきたが、それに呼応して板倉の詩や訳詩などを高遠弘美氏がブログ*1で精力的に紹介に努めてこられた。そして高遠氏の若い友人たちの尽力によ…

あなたは勝つものと思っていましたか――『目白雑録2』を読む

あなたは勝つものとおもつてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ むろんこれはW杯の日本対ブラジル戦の話ではなく、昭和二十一年に刊行された歌集『夏草』に収められた土岐善麿の高名な歌であるけれども、日本一次リーグ敗退と一面にカラー写真入りで報…

ブルームの日

「長篇小説は何で出来てゐるか」と藪から棒の問ひかけで著者は論を始める。筋と登場人物でできてゐる、言葉でできてゐる、時間と空間でできてゐる、始まりと半ばと終りとでできてゐる、といろんな説を紹介し、では十九世紀の標準的な長篇小説はどんなふうに…

夢にまぎれぬ――正徹管見

1 折にふれ正徹の『草根集』を繙いている。いつも懇切なコメントを寄せてくださるnagorinoyumeさまより恵与された翻刻本のコピーである。原本は、ノートルダム清心女子大学国文学研究室古典叢書刊行会が黒川文庫や正宗文庫の蔵本を翻刻した四巻本で、春夏秋…

文士の底意地――川崎長太郎

ナボコフの話題を続けるつもりでいたのだけれども、聊か重くなりそうなので、今回はいつものように読み散らかしている本から他愛のない感想文で一席おうかがいすることにしたい。 1 岩波書店のPR誌「図書」に平出隆が書いている「遊歩のグラフィスム」と…

翻訳者は裏切り者――ナボコフ再訪(1)

1 この間、翻訳詩について数回に亙って書き継いできたが、そのなかで小説の翻訳の問題にふれて『フィネガンズ・ウェイク』と『白鯨』の名を挙げたところ石井辰彦氏にコメントをいただき、はからずも『白鯨』の数種の翻訳を比較することになった。本棚の奥か…

ロバート・フロストを読む皇后

一九九八年にニューデリーで開催された第二十六回国際児童図書評議会(IBBY)において、美智子皇后が基調講演(ビデオテープによる)をなさったことは広く知られている。「子供の本を通しての平和――子供時代の読書の思い出」と題された講演内容は、宮内…

『細雪』を読む天皇

私がここに書くものはきわめて私的な回想と読書感想文のたぐいが殆どで、思い出話はともかく、感想文については記憶の中の本や偶々手元にある本から気儘に抜書きをして他愛ない感想を附しただけで、剰え格別珍しい本などそこに含まれてはいない。したがって…

陸橋からの眺め――中村昌義という小説家(その2)

1(承前) 「大通りから少し入った横丁に、雑居ビルというほどもない小さな飲み屋の集った建物があって、その一階に「おめんや」と小さな看板が出ていた。やきとりを主とする店のようだった。」(「別れの手続き」) そこが目的の店である。中に入ると、十…

静かな日――中村昌義という小説家(その1)

1 中村昌義という小説家がいる。いや、いたと言うべきか。一九八五年一月十三日、二冊の短篇小説集と一冊のエッセイ集を遺して中村はこの世を去った。享年五十三。死因は胆嚢癌の再発だった。 私はこの小説家とおそらく一度だけ声を交わしたことがある。 大…

キルヒベルクの鐘――翻訳詩の問題(5)

1 高橋睦郎の『言葉の王国へ』*1は、おもに年少の頃の書物との出合いを綴った一種の自伝的読書ノートとも呼ぶべきエッセー集で、高橋睦郎の著書のなかで私のもっとも愛読する本である。リルケとの出合いを回想した件で高橋は、中学の国語教師に「上智大学で…