ブルームの日

 「長篇小説は何で出来てゐるか」と藪から棒の問ひかけで著者は論を始める。筋と登場人物でできてゐる、言葉でできてゐる、時間と空間でできてゐる、始まりと半ばと終りとでできてゐる、といろんな説を紹介し、では十九世紀の標準的な長篇小説はどんなふうに終つてゐただらうかと『ジェイン・エア』を例に取り、「これはハピー・エンディングの模範ともいふべきもの」で、多くの作家に濫用されたあげく読者に飽きられてしまつたと結論づける。かうした結末の附け方が楽天的な嘘に見えたとき、「小説が文学と娯楽の二つに分れ、大衆小説といふ新しい概念が生れた」と著者はいふ。
 その、娯楽でない文学のはう、「アンハピー・エンディング(これは和製英語かもしれない)の代表」として著者はハーディの『テス』を挙げ、テスの酷い末路にもかかはらず読者がこの小説を愉しんだのは、死後の世界を信じることができたからであつて、十九世紀半ばから二十世紀初頭にかけて「神」が死に、死後の世界が信じられなくなると、小説家はアンハピー・エンディングが書きにくくなり、またアンハピー・エンディングもまたハピー・エンディングと同様濫用されたあげく読者に飽きられ、その結果、小説家は「エンディング以前に筋を打切る手」を思ひついた、と論じる。
 これは一つの仮説であつて、反証を数へ挙げるのはさう難しくはなささうだけれども、著者の得意とするいささか大風呂敷気味のこの西欧小説論は、完結しないエンディングの代表としてジョイスの『ユリシーズ』を召喚するために著者のでつち上げた前置き、いはば落語の枕のやうなものであつて、『ユリシーズ』が『オデュッセイア』の敷き写しであるといふのも細部での喰ひ違ひのあるきはめてゆるやかな対応であるのと同じやうに(これを著者は「見立てホメロス」と呼ぶ)、「見立てといふ文学的冗談は、あまり窮屈に詮索するのでは肝心のおもしろさが失せてしまふだらう」。
 さうして徐に本論に取掛るのだけれども、この「神話とスキャンダル」と題したエッセイ(試論)は初出では「性と政治と『ユリシーズ』」と題されてゐたやうに、著者はまづブルームとモリーの夫婦関係に着目し、この夫婦のあひだには十年来、「中絶性交、69、膣外射精その他がおこなはれてゐる模様である」が、「完全な性交」「正常な肉体関係」がない、といふ。たしかに第十七挿話イタケでブルームは「女性具有の器官内に射精される完全な肉体交渉が最後におこなわれたのは(略)、その後十年五か月十八日のあいだ肉体的交渉は不完全で、女性具有の器官内に射精はおこなわれなかった」と意識のうちで独白するのだけれど、むろんブルームの(といふべきかジョイスのといふべきか)意識には完全な性交といふ当時の規範が内面化されてゐたのだらう。ジョイスが生れてから百年後に書かれた本論の著者が当時の性規範をそのまま受け入れてゐるらしいのは奇妙といふべきであるが、まあ、それはここでの問題ではない(昨今のフェミニズム批評なら著者をヘテロセクシストと批判するでせう。そしてブルームを「完全な性交」といふオブセッションにとらはれた人物として論じるかもしれない)。要するに夫との「正常な肉体関係」がなく、「経済的にも困つてゐたせゐもあつて、彼女はさまざまな男と関係し、一種の娼婦のやうな状態だつたのではないか」といふあるジョイス学者の説を援用して、ブルームは「コキュ」の意識を持つてゐたのだらう、と著者はいふ。
 そこで著者は「アイルランド史で最も有名な、そして最もスキャンダラスな三角関係」について語り始めるのだけれども、この調子でこのエッセイの後を追つてゐると話は終らないので大幅に端折つて結論をいへば、アイルランド国民党の指導者であるパーネルと国民党のオシー代議士、そしてその妻オシー夫人の三角関係が『ユリシーズ』に影を落としてゐる、といふことである。『オデュッセイア』との対応でいへば、ブルームがオデュッセウスモリーがペネロペイア、スティーヴンがテレマーカスに当たるのだけれども、この「浮世ばなれした神話を小説といふ俗な藝術の枠のなかに取込むためには、中間項として俗な神話が必要」であり、それがこの姦通事件であつた、というわけである。ブルームがオシー、モリーがオシー夫人、そしてパーネルはスティーヴンもしくはボイラン(これには諸説ある)といふことになるが、この見立てについては、第十六挿話エウマイオスでブルームがパーネルの姦通事件を思ひ出す場面を頂点に至る所でパーネルへの言及があるし(「効果的な主題の提示」)、ジョイスの蔵書目録にオシー夫人の回想録があり、ジョイスがこの本についての読後感を読書ノートに書きつけてゐること、さらにジョイス自身も妻ノラの姦通の噂に「コキュとしての自分といふ観念にとり憑かれ」てゐた、といつた傍証を挙げる。
 ジョイスが妻の不貞を聞かされて動顚して認めた手紙をリチャード・エルマンは大部の『ジェイムズ・ジョイス伝』で引用してゐる。


 「ノラ、ぼくたちの関係はすべて終ったのだろうか。
  ノラ、ぼくの死せる愛のために手紙を書いてくれ。思い出にぼくは苦しむ。
  ノラ、書いておくれ。ぼくは君だけを愛したのだ。それなのに君はぼくの信頼を裏切った。
  ノラ、ぼくは不幸だ。哀れな不幸な愛のためにぼくは泣いている。
  手紙を書いてくれ、ノラ。
                                         ジム 」


 ジョイスがこのコキュとしての体験(事実ではなかつたとエルマンはいふ)をブルームに重ねたといふなら話は単純であるが、そして『ユリシーズ』はたんにそれだけの小説にすぎないといふことになつてしまふが、主人公ブルームの抱く悲しみは、あたかもハムレットの憂愁がデンマーク全体の悩みを一身に引き受けたがためであるやうに、「イギリス帝国の専制に苦労してゐる」アイルランド人のそれにほかならないと著者はいふ。「われわれはブルームを愛惜するやうにアイルランド人を愛惜する」。そしてそのブルームが純粋のアイルランド人でなくユダヤ系であることによつて、さらに奥行きが増す。すなはち「アイルランド人の政治的な苦しみを、権力に抑圧され、侮辱され、政治の圧迫にあへぐ全人類の悲しみへと拡大する身構へを示してゐるからである。これこそは非政治的人間の書く政治小説としての『ユリシーズ』の、あるいは『ユリシーズ』の政治小説的な局面の、究極の主題であつた」と著者は論を閉じる。
 著者らしい大きな構へのエッセイで、かうした要約ではこの面白さが充分伝はらないかも知れないが、読み返して感銘を新たにした。著者はこの本『6月16日の花火』のあとがきで「毎年この日の夜はにぎやかに酒を飲むことにしてゐる」と書いてゐる。酒を嗜まない私は、この日はジョイスの、あるいはジョイスに関連する本を読むことにしてゐる。もつとも気がつくと16日を過ぎてしまつてゐることも多いのだけれども。


 *引用は丸谷才一『6月16日の花火』岩波書店、一九八六年/ジェイムズ・ジョイスユリシーズ 3』丸谷才一、永川玲二、高松雄一訳、集英社、一九九七年/リチャード・エルマン『ジェイムズ・ジョイス伝 1』宮田恭子訳、みすず書房、一九九六年より。