2005-01-01から1年間の記事一覧

小中英之――その6

「この夜を境に、押し掛け兄貴の小中が、泣きの小中に転じるのである」 と福島泰樹は書いている*1。「この夜」とは、前回ふれた小野茂樹が不慮の死を遂げた夜のことである。 前回、私は「事故に遭う数時間前まで二人はいっしょに酒を飲んでいた」と書いたが…

小中英之――その5

岡井隆に『現代百人一首』という編著書がある。朝日新聞社より一九九五年に刊行された*1。この本を編集したのは朝日新聞社出版局の石井辰彦。岡井は本書のあとがきに「窓のない会議室風のところで、石井氏のワープロに向って口述し、打ち出された原稿に手を…

小中英之――その4

さて、永田和宏の後任として書評紙Nの短歌時評を担当することになった小中英之は、当時、まもなく不惑を迎える頃だったろうか。永田や福島泰樹ら、まだ青年の面影を宿す若手歌人たちの兄貴分といったところで、かれらを「カズヒロ、ヤスキ」と名前で呼ぶの…

小中英之 ――その3

手元に「アルカディア 現代短歌+評論」と題された歌誌がある。小池光、滝耕作、藤森益弘、松平修文、以上四名の歌人が編集委員を務める季刊商業誌である。奥付に、昭和54年12月15日発行とある創刊号*1。 創刊号では、評論、座談会、歌人へのアンケー…

小中英之――その2

前回、小中英之について書き始めたら、思いがけなく安東次男に筆を費やすことになった。安東に傾きすぎることを懼れて筆の及ばなかった点を若干補足しておく。 安東が小中に歌集の刊行を「もう一、二年先を区切にしたらどうか」と示唆したのは、「歌にとって…

小中英之 ――その1

小中英之の第一歌集『わが からんどりえ』は一九七九年に刊行された。小中英之、四十一歳初春のことである。角川書店の<新鋭歌人叢書>全八巻の掉尾を飾るに相応しい充実した一巻であった。参考までに全巻のラインナップを掲げておこう。 1 小野興二郎『て…

永田和宏

Nという書評紙では、文藝時評のほかに短歌、現代詩、同人誌の時評も月に一度掲載していた。掲載は五面の文学欄でなく出版情報を扱う二面だったが、原稿は文学欄の編集者が担当することになっていた。私が文学欄を担当することになったときに短歌時評を執筆…

林達夫

あれはベルクソン『笑い』の改版が出た年だったから一九七六年の暮れということになる。 前年の秋、大学を出て就職した会社を半年で辞めてぶらぶらしていた私は、お誂え向きに編集者を募集していたNという書評新聞に職を得て、翌年、つまり一九七六年の一月…

〔Book Review〕ベン・カッチャー/柴田元幸 訳『ジュリアス・クニップル、街を行く』

本書は、「NYプレス」などの新聞に連載されてカルト的な人気を博したコミックス「ジュリアス・クニップル」シリーズの一冊を翻訳したものである*1。 クニップル氏は一昔前のニューヨークを思わせる都会で、クライアントに依頼されて店舗などを撮影するカメ…

〔Book Review〕『伊丹十三の本』

伊丹十三とは一度だけ言葉を交わしたことがある。あれは伊丹さんが森田芳光監督の『家族ゲーム』に出演したときだから、もう二十年以上前のことになる。 電話でインタビューを申し込み、実は近所に住んでいるのだと告げると、「じゃあ今からいらっしゃいませ…

〔Book Review〕鴨下信一『日本語の呼吸』

日本テレビの「エンタの神様」のエンディングは、はなわのガッツ石松伝説に定着したようだが、この元ネタを記憶している人も多いだろう。かつて、ビートたけしのラジオ番組から広まった村田英雄伝説である。 本書にも村田英雄の傑作なエピソードが紹介されて…

荘周が委蛻

むかし、あるところに周といふ者があつた。周は唐で仙術を修し怪力乱心を操る術に秀でてゐるとの専らの噂だつた。周が白紙に描いた鯉を池に浮かべてやると、鯉は紙から抜けだしすいすいと泳ぎ始めたといふ。あるとき、周を訪ねた客人があつた。談論風発数刻…

〔Book Review〕絲山秋子『海の仙人』

本書は、二〇〇四年二月に刊行された『イッツ・オンリー・トーク』につづく絲山秋子の二冊目の単行本、前回の芥川賞候補になった中篇小説である。 主人公の河野勝男は宝くじで大金を手にし、会社を辞めて敦賀で一人暮らしをしている。海沿いの古い家の床に砂…

夢の種子

1 「夢か……」 睡りからさめたたけしは、言いようのない哀しみにとらわれた。 夢中で遊んでいる最中に、いつか遊びにも終わりがくると考えたときの切なさに、それは少し似ていた。夢のつづきを見ようと目をつぶったけれど、もう睡りはおとずれてくれなかった…

〔Book Review〕レベッカ・ブラウン/柴田元幸訳『若かった日々』

『体の贈り物』『私たちがやったこと』などで、若い女性たちを中心に多くの読者に熱い共感と感動をもって迎えられたレベッカ・ブラウンの最新短篇集。 一人の女性の思春期の頃の家族の思い出、性のめざめなどが、この作家特有の繊細で喚起力に満ちた文章で綴…

胡桃の中の夢

人間はすべて夢だけを信じて生きてゐるのである。人間に信ずる事が出来るのは夢だけだからだ。 ――小林秀雄 三月のある晴れた日の午後、私は三十年ぶりに母校の小学校の校門をくぐった。卒業して以来はじめて訪れる校舎はすっかり様変わりし昔日の面影をとど…

〔Book Review〕アリステア・マクラウド/中野恵津子訳『冬の犬』

冒頭におかれた十頁たらずの短篇「すべてのものに季節がある」が本書のキーノートとなっている。 少年の頃のクリスマスの回想。兄の帰省を待ちわびる家族の姿がたんたんと語られる。 サンタクロースの存在を信じている私に父はこう言う。 「人生の『よいこと…

カムバック

手のひらはじっとりと汗ばんでいた。膝の震えを止めようと手で押さえると躰全体がぶるぶると震えた。アルコール依存症は完治したはずだった。禁断症状じゃないとすれば極度の緊張のせいだろうか。 「まさか」男は声に出して言ってみた。「尻の青いガキじゃあ…

〔Book Review〕中条省平『名刀中条スパパパパン!!!』

――中条省平の新刊が出たよ。 ――あら。可愛いイラストね。 ――さすが名人・しりあがり寿だね。 ――名刀中条スパパパパンって、どういう意味? ――当たるを幸い薙ぎ倒す。高田馬場の堀部安兵衛か、中条省平か。 ――それってどこかの飲み屋? ――いや、まあ、『キル…

恋しくば

あの人は突然やってきた。 そんな印象があるけれど、たぶんそれは事実じゃないだろう。前もって父から話があったにちがいない。だけどぼくの記憶のなかでは、ある日突然、風のようにあの人はぼくの前にあらわれたのだった。 ぼくは、小学五年生だった。いつ…

〔Book Review〕マーティン・グリーン/塚本明子訳『リヒトホーフェン姉妹』

時は十九世紀後半、所は鉄血宰相ビスマルク治下のドイツ帝国。 プロイセン将校であったフォン・リヒトホーフェン男爵家に三人の娘が生まれる。ともにたぐいまれな美貌をうたわれたが、本書の主役をつとめるのはエルゼとフリーダの二人の姉妹。 姉のエルゼは…

瀆神の午後

風かよふ寝ざめの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢 俊成卿女 ふつと花の香がしたやうに思つた。花の香が薫子を夢から目覚めさせたのだつたが目覚めてみるとそれが何の花の香だつたかそれがどういふ夢だつたのかもはや薫子にはさだかでなかつた。花の香はあ…

〔Book Review〕久世光彦『飲食男女』

これは百物語である。 百物語とは、ご承知のように、何人かが集まって順繰りに怪談話をするというお遊びだが、怪談でなく男女の艶っぽい話をするとしたら、というのがこの本の趣向である。 そしてもう一つ、そこにはなにか食べものが絡んでいること。つまり…

ミランダ

雪はいっこうにやむ気配がなかった。 むしろいっそう激しく降りつのり、一フィート先すら霞んで見えた。 でも、もしこの吹雪がやんだとしても、何もかも見渡すかぎり雪におおわれて、きっと右も左もわからないでしょうけどね。ミランダは絶望的な気持ちでそ…

〔Book Review〕『永井陽子全歌集』

あはれしづかな東洋の春ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ 永井陽子の代表歌である。 「私たちは詩型の外郭のみにこだわり(略)肝心の“うた”の音楽性を忘れてしまっている。今、現代短歌から最も欠落しているのは、この音楽性であろう」*1と彼女自身が自注…

くじ

私がその男に出会ったのは、新しい生活を始めた最初の日だった。男は年の頃なら五十代半ば、若い頃放蕩のかぎりを尽くしたとでもいうような、どこか崩れた雰囲気をただよわせていた。あるいはもっと若く、もしかすると私と同年輩なのかもしれない。いずれに…

〔Book Review〕J・C・カリエール、G・ベシュテル編/高遠弘美訳『珍説愚説辞典』

世に「あまたある珍にして愚なる言説」を蒐集して、項目別に編纂したのが本書である。 澁澤龍彦が「世間には物好きな人間がいたもので、こんな人を食った、人間精神の愚かしさをまざまざと見せつけるような、笑いと毒にみちた辛辣な著作はあんまり例がないで…

〔Book Review〕ポール・オースター『ミスター・ヴァーティゴ』

オースターの『空腹の技法』に「サー・ウォルター・ローリーの死」というエッセイがある。サー・ウォルター・ローリーは、十六世紀のイギリスの探検家。ジェームズ一世を謀殺しようとしたかどで幽閉され、十三年間にわたる獄中生活をおくった。オースターは…

失われた書物

当時、わたしはブエノスアイレスの郊外に滞在していた。建築学の勉強のためにアルゼンチンの大学に留学していたのである。二年間の留学期間もあとわずかを残すばかりで、大学に提出する論文の執筆に日々追われていた。 ある日、わたしは市街電車に乗って同じ…