小中英之 ――その1


 小中英之の第一歌集『わが からんどりえ』は一九七九年に刊行された。小中英之、四十一歳初春のことである。角川書店の<新鋭歌人叢書>全八巻の掉尾を飾るに相応しい充実した一巻であった。参考までに全巻のラインナップを掲げておこう。

 1 小野興二郎『てのひらの闇』     2 杜沢光一郎『黙唱』 
 3 小中英之『わが からんどりえ』   4 玉井清弘『久露』 
 5 辺見じゅん『雪の座』         6 高野公彦『汽水の光』 
 7 成瀬有『游べ、櫻の園へ』      8 下村光男『少年伝』

壮観である。第一歌集のみでこれだけのラインナップを組めたのは本叢書にとって僥倖であったというべきだろう。だが、最終巻となった小中の歌集のみ、刊行がはなはだしく遅延した。その間の事情を安東次男が巻末の解説で書いている。「歌の編集・印字も終り、あとは私の解説を待つばかりとなってから、二年半が経つ」。安東は、小中が「うちの先生」と師事し、安東もまた「私にとっては家族の一員同様の、云うなればたった一人の内弟子である」と認める師弟である。当の歌集の標題も安東の詩集『CALENDRIER』から採られたものだ。その師が、なぜ、弟子の記念すべき第一歌集の刊行を二年半も延引するに到ったか。安東は続けてこう記す。


 「『わが からんどりえ』は小中英之の最初の歌集とはいうけれど、じつは昭和四十六年夏から同五十年冬にかけての四年間の作品であって、その前に英之には約十年の云うなれば習作時代がある。一方、ちょうどこの歌集の編集を終ったころから、英之の歌には多少の変化が見える。人あるいは、だからこそ第一歌集を作るのだと言うかもしれないが、私の考は少し違う。英之にも、もう一、二年先を区切にしたらどうか、と私は言ったのだ。歌にとってやや重要な自覚が、ちょうどそのころ現れはじめたように見受られたからだ」


そして安東は雑誌「短歌」昭和五十一年九月号に発表された小中の歌から四首を掲出する。そこには、のちに小中の第二歌集『翼鏡』に収録されて小中の代表作と目されるに到った、


 螢田てふ駅に降りたち一分の間(かん)にみたざる虹とあひたり


も含まれている。まさに「ちょうどこの歌集の編集を終ったころ」の歌である。


 ここで、小中英之の「習作時代」の歌を瞥見しておこう。
 二〇〇四年に刊行された現代短歌文庫『小中英之歌集』(砂子屋書房)には、『わが からんどりえ』『翼鏡』の完本に加え、『初期歌篇』(佐藤通雅編)として一九六一年から一九七〇年に至る十年の「習作」が収録されている。これは、小中の所属した短歌結社「短歌人」に発表された五六六首から二六二首を抽出したのものである旨、編者の注記がある。ここではこの『初期歌篇』に収録されていない小中の「習作」を、福島泰樹の「みな行った茂樹も君も――小野茂樹、小中英之」(『葬送の歌』所収、河出書房新社)より引くと、


 はつなつのこころ割くべし海燕まひる矢のごと海よりきたり
 がそりんのにおいなどする海辺にておおはるかなる北の渚よ
 欲望はみどりの投網あかつきのかなたの海のきみにぞ至れ
 焼けつつもふたりそろいの双頭の鷲のしるしの海水パンツ


 現代短歌文庫の「小中英之年譜」(天草季紅編)によれば、これらは冨士田元彦編『律68――短歌と歌論』に新人作品として発表された「反恋歌」二十三首より抜粋されたものである。福島泰樹の一文には『律88――短歌と歌論』とあるが誤記。ついでに言えば福島の「私が小中英之の名を知ったのは、一九七七年の冬であった」は一九六七年のことだろう。福島の第一歌集『バリケード・一九六六年二月』に収録されることになる作品もまた、六七年の暮に刊行されたこの『律68――短歌と歌論』に小中の歌とともに発表の機会を与えられたのであった。
 「反恋歌」は、同じ頃に「短歌人」に発表された歌とは毛色の異なる「禁色の恋をテーマにした」(福島前掲書)歌であるのが興味深い。この『律68――短歌と歌論』は、塚本邦雄岡井隆寺山修司らが拠ったアンソロジーであり、これらの歌は小中もまたいわゆる前衛短歌運動と無縁でなかったことの証左であるといえよう。


 こうした十年に及ぶ初期歌篇を潔く捨てて編んだ第一歌集に対し、安東はさらに「もう一、二年先」にせよと小中に告げたという。その「歌にとってやや重要な自覚」とは何か。安東はこう書いている。


「たまたまそのころ吾家に現れた英之に、私は、何のために歌を作るのかと問うてみた。答は、鎮魂のため、季節のため、それから面白い言葉や地名の一つにもせめて出会いたいためだ、と即座に返ってきた。言や良し、これはたいそう私の気に入った」


そして「螢田」以下四首の「歌の佳さは」と続ける。


「虚実相鬩ぐ感覚の迫間に、ときに荒くときに穏かな呼吸の自然にのせて、粘りのある調べを作り出したところにある。そこに、英之の言う季節のうつろいや片々たる物の名が深く関っている」


この「螢田」の歌に比べれば本歌集に収載された、


 天沼のあたりあまねく枯れそめてひとつなぞへの土くへ赤し


など「餅と絵に描いた餅ほど違う」と斬って捨てる。さらに集中の歌を「手当たり次第に」抜いて、俳句に作り替えて見せる。たとえば、


 蟷螂のぎりぎり荒む一瞬の美しければわが日々を恥づ
 飲食といへど夏の日とがりたる氷ばかりに舌の荒れたり

を、

 蟷螂のぎりぎり荒むうつくしさ
 とがりたる氷ばかりに舌の荒


といった具合に。そして「作り替えてもそれなりに読める。いや、たぶん句の方がよいだろう。(略)歌にも句にも成る表現があってよいものか。そういうことは断じてあるまい」と断言する。師の苦言はまだまだ続くのだが、この辺でいいだろう。

 これほど辛辣な「解説」は前代未聞だろう。しかも苦言は一々的を射ている。小中はこの解説文を貰って落涙したにちがいない。これこそまことの師であり、これほど慈愛に溢れた文はまたとあるまい。私はこの解説を読んで安東次男に痺れた。
 小中は歌集の「追い書き」に「これからもわが師の言葉に深くそいながら、生きて、歌っていくだけである」と記している。
                       (この項つづく、敬称略)


小中英之歌集 (現代短歌文庫 (56))

小中英之歌集 (現代短歌文庫 (56))