わが人生の喪服

 

 

『かもめ』を見た。2018年製作のアメリカ映画で、チェーホフの戯曲をほぼ原作通りに映画化したものだ。監督はブロードウェイミュージカルでトニー賞を受賞したことのある演出家マイケル・メイヤー。日本では劇場未公開、アマゾンプライムビデオで配信された。

 アネット・ベニングのアルカージナ、シアーシャ・ローナンのニーナという配役に惹かれて見た。アネット・ベニングは女優の老残の華やぎをみごとに演じたし、シアーシャ・ローナンは溌剌とした「夢見る乙女」と零落して「失意にある女優」の対比をみごとに表現してみせた。主演俳優ふたりの好演にもかかわらず、映画の出来はそれほど感心できるものではなかった。ウィキペディアのこの映画に関する評価には「ニューヨーク・タイムズ」の以下のような批評が引用されている。

映画評論家のA・O・スコットはニューヨーク・タイムズ紙における評論において本作のキャストはそれぞれの役柄に適した人選であるが、映画全体としては期待外れであるとし、「ベニング氏、モス氏、そしてローナン氏は、おそらく言うまでもないだろうが、特に素晴らしい。チェーホフが不思議な同情心と狡猾な胆力をもって女性キャラクターに与えた個性をそれぞれが見出している。キャストは素晴らしい。演技も素晴らしい。しかし本作は駄作である。なぜなら、どうあるべきかという明確で一貫したアイデアがないからである。」と述べている。

「モス氏」は、アルカージナの息子トレープレフに思いを寄せるマーシャを演じたエリザベス・モス。たしかにスコット氏のいうように「キャストは素晴らしい。演技も素晴らしい」、しかし「駄作」とまではいわないけれど、出来としてはイマイチだった。なぜか。「どうあるべきかという明確で一貫したアイデアがない」とはどういう意味かよくわからないけれど、おもうに「演出」に問題があるということではないか。フランス語でいうデクパージュ。蓮實重彦なら簡潔に「ショット」というだろう。すこし前に見たセバスティアン・レリオ監督の傑作『聖なる証』(2022年)の緊密なショットのつらなりに比べれば優劣はおのずと明らかだ。

 本来なら映画『かもめ』について触れなければならないところだが、ここではちょっと別のことについて書いてみたい。

 チェーホフの戯曲『かもめ』第一幕は、マーシャと彼女に思いを寄せる教師メドヴェージェンコとの会話で始まる。戯曲のなかの有名な科白トップテンを挙げれば必ず入る会話だ。岩田宏はエッセイ集『渡り歩き』のなかの一篇「そんなに優雅に!」で、この冒頭の会話の邦訳を三つ掲げて比較している。

(A)

メド どうしてあなたはいつも黒い服ばかり着ていらっしゃるんですか。

マーシャ これはわたしの生に対する喪服ですわ。わたしは不幸な女なんですもの。

(B)

メド あなたは、いつ見ても黒い服ですね。どういうわけです?

マーシャ わが人生の喪服なの。あたし、不仕合せな女ですもの。

(C)

メド どうしてあなたはいつも黒い服を着ていらっしゃるんです?

マーシャ これ、あたしの人生の喪服なの。あたしは、不幸なんです。

(A)→(C)は古い順で、1920年代から50年代にかけての邦訳だという。岩田宏は、差し障りがあるからと翻訳者の名は挙げていないが、(A)から順に中村白葉、神西清、倉橋健のものだ*1。岩田はこの三つにとくに優劣や変遷はないと断りながらこう述べる。

メドヴェージェンコの科白はBが一番すっきりしているようだが、マーシャの科白はどんぐりの背比べだ。Bはさすがに「生の喪服」といった言葉のぎこちなさを意識して、「わが人生の喪服」などと故意に芝居がかった、照れ隠しのようなセリフをマーシャに喋らせるが、その結果は新たなわざとらしさと厭味の発生だ。

 岩田宏の批評は辛辣だが、「人生の喪服」という訳語は動かないだろう。最近の翻訳からいくつか挙げてみると、

・これは人生を弔う喪服なの。私、ふしあわせな女だから。(小田島雄志訳/白水uブックス、英訳からの重訳)

・これはあたしの人生の喪服なの。あたし不幸なんですもの。(浦雅春訳/岩波文庫

・これ、人生の喪服。私、幸せじゃないから。(堀江新二訳/群像社

・人生の喪服。私不幸だから。(内田健介訳/論創社

 いずれも「人生の喪服」で、これは決めぜりふというべきだ。そしてマーシャの黒い衣裳は、そのすぐ後で催されるトレープレフの芝居に登場するニーナがまとう真っ白な衣裳と対照的だ(ふたりの女性はトレープレフをめぐって対称の位置にあり、性格も陰と陽、対照的だ)。

 面白いのは、前二者に比べ、後の二者のマーシャの科白がジェンダーレス表現になっていることで、よく言われることだが邦訳では性別を表すために女性には「女性言葉」がよく使われる。一人称の「あたし」もそうだが、とくに語尾。「~なの」「~なのよ」「~なのね」「~だわ」などがそうで、これはいまでも変わらない。さすがに「~ですもの」とか「~してもよくって?」といった訳文は古めかしくて最近では見かけなくなった。ちなみに老人の一人称「わし」や語尾の「~じゃ」はいまでも見かけるけれど、実際にこんな言葉遣いをしている老人はあまり見たことがない。ニュートラルな言葉で老人らしさを伝えるのは難しいので仕方がないといえば仕方がないのだけれど。

 ところで、上記の後者の2つはジェンダーレスであるだけでなく、かなり切り詰めた表現となっており、そこには前者にみられる話し手のエモーションが希薄だ。前者では、一種の「女性性」が前景化されるが、後者ではニュートラルな表現になることで、いわゆる「女らしさ」といったものが剝奪される。ようするに、前者のマーシャと後者のマーシャとでは、読者の受ける印象がかなり違ってくるということだ。つまり、どう訳すかということはキャラクターをどう表現するかということにつながっているのである。

 上掲場面のマーシャの次の科白をみると、それがよくわかる。

蒸すわね。きっと夜はひと雨来るんだわ。あなたの話はいつだって小難しいか、お金のことばっかり。口を開けば、あなた、貧乏ほど不仕合せなことはないとおっしゃるけど、あたしに言わせりゃ、ボロをまとって物乞いに出たほうが千倍もましだわ……。こんなこと言ったって、あなたには通じないでしょうけれど……。  (浦雅春訳)

 

蒸し蒸しする。夜は荒れそう。あなたはいつも哲学をするかお金の話。あなたに言わせれば貧乏以上の不幸はないそうだけど、私に言わせればボロの服を着て物乞いをして歩く方が何千倍もまし――でも、あなたにはわからないか――。 (内田健介訳)

 後者のマーシャはいたってクールだ。2019年に玉川大学芸術学部パフォーミング・アーツ学科の公演に用いられた台本を元にした翻訳だという。舞台を見てみたかったとおもう。トレープレフの劇中芝居で生き物の名を列挙するニーナの科白も「ヒト、ライオン、ワシ、ライチョウ、シカ、ガチョウ…」と、ほかの翻訳に比して内田健介訳はリズミカルだ。

 さて、岩田宏のエッセイにもどれば、『かもめ』の新しい英訳を作った劇作家トム・ストッパードと、アメリカで上演した『かもめ』のテキストを手がけた劇作家テネシー・ウィリアムズが対比的に紹介される。このエッセイの眼目はそこにあるのだけれど、詳細は現物に当たられたい。

 岩田宏によれば、テネシー・ウィリアムズは大学時代にチェーホフ論を書き、劇作家になったあとも『かもめ』を演出するのが夢だったという。影響を受けた劇作家の名前を三人挙げてほしいといわれて「チェーホフ! チェーホフ! チェーホフ!」と答えたというほど心酔していた。

 テネシー・ウィリアムズ版『かもめ』では、「どうしていつも黒い服を?」というメドヴェージェンコの問いかけにも、マーシャは不愛想なふりをするだけで返事もしない。「野暮で平凡なあんたに『生の喪服』などと言ってみたところではじまらない、というわけだ」(岩田宏

 テネシー・ウィリアムズは原作を大胆に改変する。

 ラスト、トレープレフが自殺する銃声がとどろいたあと、医師ドールンは老女優アルカージナにかつての栄光を思い出させようと「カーテンコールに応えるお辞儀を見せてください」と頼む。アルカージナが立ち上がると、息子トレープレフの死体を乗せた担架がゆるゆると近づいてくる。アルカージナは叫びを押し殺して後退りする。

 観客に背を向けて後退りしていたアルカージナが、フットライトの手前でくるりと振り向き、観客と向かい合う。そして深々とお辞儀をする。

 その表情は悲劇的な別離そのものである。自分の職業との、人生との別れ、深く愛した息子、自分の犠牲になった息子との別れ。

「そんなに優雅に!」と、医師の感嘆の声が、薄れてゆく照明の中に残る……

 それは、「盛りを過ぎた女性=限りなく人間的な悲しみの怪物」をいとおしむテネシー・ウィリアムズ年来のテーマであり、「滅びに向かう世界のただなかで」彼は呼びかける。「この美を見よ!」と。

 見たかったな、この場面。

 

 

*1:ちなみに以下のサイトでは、この会話の18通りもの邦訳と英仏独伊ほかの各国語訳を掲げている。18種もの異なった翻訳がある国は日本だけではあるまいか。Антон Чехов - Чайка (2) The Seagull by Anton Pavlovich Chekhov (2) チェーホフ 『かもめ』 (2): tomokilog - うただひかるまだがすかる (tea-nifty.com)