ちょっと待ってくれ、僕は小津のことを話してるんだ

 

 

 白洲正子についてはよく知らない。随筆集を何冊か文庫本で読んだだけだ。いずれ腰を据えてじっくり読んでみたいと思っていたが、いずれなどと悠長なことを言っていられる時間の余裕はなくなってしまった。小林秀雄青山二郎らとの交遊についての随筆はそれなりにおもしろく読んだけれども、白洲正子の「真髄」にはまだ触れていないという思いだけがいまも残っている。

 白洲正子が亡くなったのは1998年12月26日。昨年は没後20周年にあたり、12月20日と21日の二夜にわたって「白洲正子が愛した日本」という番組がNHKBSプレミアムで放送された。2006年に放送されたものの再放送で、元気なころの車谷長吉や、中畑貴志、水原紫苑ら、白洲正子と交遊のあったゲストたちが白洲正子について語り合ったのだが、なかでも興をおぼえたのは「型」をめぐる対話だった。

 近江の葛川明王院で太鼓回しという伝統行事が営まれるが、白洲正子はこの行事に「型」を見ていた、と車谷はいう。「型」すなわち伝統であると。中畑貴志はそれを受けて、表現というものには流行りすたりがあるけれど、「型」として残っていれば時代時代にそこにあらたな息吹が吹き込まれるのだという。感情や空気感のようなものは消えてゆくが「型」は残る。「型」がすべてを語る、と中畑貴志はいう。車谷は「型は文体である」といい、白洲正子は鍛え上げた自分の文体をもっていたという。だが、わたしはそうではないと思う。「型」は文学でいえば作家個々の文体ではなく、短歌や俳句などの「定型」に相当するのだろう。万葉の時代から連綿とつづく「定型」は、中畑貴志のいう時代時代にあらたに息吹が吹き込まれる伝統のうつわそのものである。

 水原紫苑は、「型」といえば能で、「梅若実聞書」にあったと思うが、と前置きして次のように語った。たとえば、能で「月を見る型」というのは、演者が月を見る気持ちになってはだめで、頭をすこし上方に向けるだけでいい。月を見る気持ちになると、それはもう「型」ではなくなるのだ、と。水原紫苑は自らも能を舞う人である。

 白洲正子が梅若流二代目・梅若実について能を習い始めたのは四歳のとき。十四歳で女人禁制の能楽堂の舞台に女性としてはじめて立ち、「土蜘蛛」を舞ったという。『梅若実聞書』は1951年、白洲正子四十一歳のときに刊行されたもので、『お能・老木の花』(講談社文芸文庫)で読むことができる。同書に収録された『梅若実聞書』をざっと読んでみたが、水原紫苑のいう「月を見る型」の話は出てこなかった。この話は『梅若実聞書』ではなく、じつは同書の『お能』のなかに出てくるものだ。『お能』は、白洲正子が三十歳のころ、二週間で書き上げたもので、三年後の1943年、志賀直哉柳宗悦らの勧めで刊行されたという*1白洲正子が語る「月を見る型」について、その概要をしるしてみよう。

 

 白洲正子が「花筐」という能の稽古をしていたときのこと。舞のなかに「月を見る型」をする個所があり、自分も上手な能役者のように演じてみたいと正子は思った。真夜中、あたりに冷え冷えとした秋の夜気がただよい、月は中天にかかり皎々と照っている。草の一つひとつにまで月の影が宿っている。そういう景色を心にうかべ、面をハス上にもってゆく「上を見る型」をやってみた。心のなかに「幽玄とか、余情が上下左右を問わず、まわりにただようこと」を思い浮べながら。すると、師に「なっていない」と叱責された。わけを訊ねると「これではどうか?という気持がありありと見える」と師はいう。正子はさらに問いかけた。

 「先生がこの型をなさる時はいかにも美しい月があらわれるようにみえます。あれは、ああいい月だ、と思って上を見あげるのですか? すくなくとも月を見ようという気持はおもちになりませんか? 私は今いっしょうけんめいその気持をもったつもりなのですが」

 師はこう応えた。「上を見る型をするだけです。ほかのことは何も思いません」。正子はその応えに背負投げをくわされたような思いがした。

 それから二、三ヶ月後のこと。別の能の稽古をしていた正子に、「あなたはまだなにか考えながらお能をしていますね」と師はいった。「まだなにかにこだわっているようにみえる」。それさえなければもっと上手にできるのに、という師のことばに正子は憤慨した。何も考えるなといわれたので、努めて考えまいとしているのに。師は破顔一笑していった。「あなたが『考えまいとおもうこと』がたたっているのですよ」

 白洲正子は、能役者にはこれだけのことがいえる人がいる、それは知識で得たものではなく体験によるもので、それは能の伝統の力だという。能では、演者は演じる役の気持ちになってはならない。その気持ち、「心の動き」は見る者が感じるもので、演者自身がそれらしく振舞おうとする意識がはたらくと、見物につたわらない。そのものになりきるには徹底的に自分を無にするよりほかの手段はない、という。

 能には「型ツケ」というものがある。謡の一つひとつに詳細に「型」を書き入れたものだ。演者はこの「型ツケ」のとおりに能を舞う。たとえば次のようなものである。

 「サシ、右足一足、左足カケ、三ノ松ヲ見、扇オロシ、面ニテ正下ヲ見、正ヘ二足フミ込ミ、胸ザシヒラキ、左拍子ヒトツ、三足目カケ、角ヘユキ、角トリ、左廻リ、大小前ニテ正ヘ向、左袖見、二足ツメ、正ヘサシ、右ヘマハリ、……」

 最初は人の動作に似せてそれを写し取っていたものが、室町から現代にいたる何百年もの時をかけて鍛え上げられていくうちに出来上がったのが能の「型」である。「二足前へ出、三足めをかけ角へ行き、とまれ!」という「型」の「三足めの足をかけようと五足めをかけようとたいした違いはなさそうですが、「三足めをかけること」に、じつは何百年の月日がかかっているのです」と白洲正子はいう。能という一つの絵画を描くための、「型」はその部分であり模様なのだという。そうであるためにはすこしの狂いもない正確な模様でなければならない。

 「お能のたましいは美しい「幽玄」のなかにも「花」のなかにもあるものではなく、こんな殺風景な「技法」のなかに見出せます」

 

 なるほど、という思いと同時に「そういうものか」という思いもいだいた。白洲正子のこの能にかんする言説の当否を判断する材料はわたしにない。だが、きわめておもしろい解説だと思った。これを読んで思い浮べたのは小津安二郎の演技指導である。よく知られているように、小津は役者の動作に細かい注文をつけた。それはほとんど能の「型」のような、「二足前へ出、三足めをかけ角へ行き、とまれ!」といったような指示だった。それは役者がそのとおり正確にできるまで、何度も何度もテストが繰り返されたという。

 たとえば『東京物語』で、倒れて床についている東山千栄子香川京子がうちわで扇いでやる場面。うちわを下ろして時計を見て「じゃあ、行ってきます」という一連の動作を、うちわを三回動かしたら手を下ろして時計を見て、というように小津は指導したと香川京子は語る*2。これに類する話は、ほかの俳優たちも異口同音に語っているけれども*3香川京子は、笠智衆の『俳優になろうか』という著書に「小津監督は画面の構成がきちっと決まっていて、そこに俳優をはめ込むという演出のなさり方だったんじゃないか」と書いてあるのを読んで、ああそうかと納得したと語っている。つまり、画面の構成もしくは映画の全体を一幅の絵画だとすれば、その部分であり模様であるはずの役者の動作はすこしの狂いもない正確なものでなければならない、というふうに能の「型」のアナロジーでとらえることもできるだろう。すなわち、役者は演じる役の気持ちになってはならない! これは途方もないことのように思えるけれども、監督の澤井信一郎香川京子の発言に関連してこう述べている*4

 「詰まるところは余計なことをしなくても、シナリオがきちんとできていれば、感情などという不確かなものに基づいた演技をしなくても、小津さんのリズム、小津さんのテンポ、小津さんの指定する強弱、それをやれば、描こうとする感情は観客のなかにきちんと醸し出されるものだと、小津さんは言っているのだと思います」

 『東京物語』のラスト、東山千栄子が亡くなったときに、夫である笠智衆は「きれいな夜明けだった。今日も暑うなるで」と淡々とした調子でいう。澤井信一郎はこの笠智衆の演技を、あたかも映画のトップシーン(妻の東山千栄子が健在であったころ)と同じであるかのような芝居でありながら「深い悲しみを内包している笠さんの気持ちが伝わってくる」という。「小津さんの映画が私たちのなかに醸し出す感動というのは、なるべく芝居をさせない、なるべく起伏を持たせない、少なく演じて多くを伝えるというところから来ている」と澤井信一郎はいう。

 小津安二郎のこうした演技指導が、能の「型」に由来するものなのかどうかは詳らかにしない。だが、先に掲げた、「演者は演じる役の気持ちになってはならない。その気持ち、「心の動き」は見る者が感じるもので、演者自身がそれらしく振舞おうとする意識がはたらくと、見物につたわらない。そのものになりきるには徹底的に自分を無にするよりほかの手段はない」という白洲正子のことばは、小津の演出法を言い当てているような気がしないでもない。

 自分を「無」にすること。

 そういえば、北鎌倉の円覚寺にある小津安二郎の墓には「無」の一字が刻まれている。1998年12月12日は、小津の生誕115年、没後55年にあたる。

 

 

お能・老木の花 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

お能・老木の花 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

 

 

 

 

*1:お能・老木の花』(講談社文芸文庫、1993)所収の森孝一作成年譜による。

*2:『国際シンポジウム 小津安二郎朝日新聞社、2004

*3:岩下志麻は小津の遺作となった『秋刀魚の味』の失恋する場面で、指に巻き尺をまく動作を百回以上繰り返したがOKが出ず、撮影は翌日に持ち越されたという。岩下志麻はのちに「きっと悲しい顔をつくろうとしていたんでしょうね」と語った。小津は「人間というのは悲しい時に悲しい顔をするもんじゃないよ」と語っている。

*4:『国際シンポジウム 小津安二郎朝日新聞社、2004

憧憬と嫉妬と、少しばかりの軽蔑と――『トニオ・クレーガー』の新訳を読む



 トーマス・マンの『トニオ・クレーガー』の新訳が出た。浅井晶子訳、光文社古典新訳文庫大西巨人の『神聖喜劇』の関連で『トニオ』を再読したのが4年前だった*1。久しぶりに新訳で読んでみたが、行き届いた清新な訳文のせいもあずかってか、前回読んだときよりもこの小説をより理解できたような気がしないでもない。あらたに気づいたことも少なからずあった。
 小説の冒頭近く、トニオが友人のハンスにシラーの戯曲『ドン・カルロス』を「君にも読んでほしい」と勧める場面がある。ハンスは戯曲には興味を示さず、逆に馬の本で見た写真のことを昂奮気味に話す。「すごい図解が入ってるんだ。今度うちに来たら、見せてやるよ。瞬間撮影っていうやつで、速足や駆足や跳躍のときの馬の姿勢が全部見られるんだ」。以前読んだときには読み過ごしていたが、これはエドワード・マイブリッジの連続写真のことだろう。マイブリッジの連続写真にインスパイアされたエジソンはキネトスコープを発明し、映画が誕生する。マンが『トニオ・クレーガー』を発表する十年ほど前のことである。
 この連続写真は、小説の中ほどでもう一度出てくる。没落したクレーガー家をあとに故郷を出奔し、放埓な日々を過ごしたのち小説家として世に出たトニオが、女友達で画家のリザヴェータに長広舌をふるう場面である。芸術家と俗人、もしくは、芸術と人生との対立についてトニオが延々と自説を述べるくだり。「瞬間撮影の載った馬の本を読むほうがずっといいなんていう人たちを、詩のほうへ誘い込んだりしちゃだめなんだ!」とトニオはいう。夢見る少年だった十四歳のトニオは、すでに三十歳を過ぎている。だがトニオのこころのなかには、まだハンスのおもかげが生々しく息づいているのだ。かつて「ハンスには、僕のようにはなってほしくない。いまのままでいてほしい。明るく、強く、誰もが愛する、そして誰よりも僕が一番愛するハンスのままで!」と祈ったハンスのおもかげが。小説の語り手は十四歳のトニオをさして「この当時、トニオの心は生きていた」という。「そこには憧憬があり、憂鬱な嫉妬と、少しばかりの軽蔑と、純真そのものの幸福があった」と。
 リザヴェータは、長広舌をふるうトニオにむかってこう言い放つ。あなたはただの俗人なのよ(浅井晶子訳では俗人は「一般人」と訳されている)。「あなたはね、道を誤った一般人なのよ」。本来は俗人なのに、道を誤って芸術家になってしまったのだとリザヴェータはいう。この言葉は、トニオをしたたかに打つ。リザヴェータにいとまを告げて故郷へと向かい、さらに北の国デンマークを訪れたトニオは、そこである出来事に遭遇して一種の回心を得る。
 その出来事のあと、小説の最後で、トニオは北の国から「南の楽園で暮らす」リザヴェータに手紙をしたためる。「あの言葉がどれほど的を射ていたか、君にはわかっていたでしょうか。僕の一般人気質と「人生」への愛とが、どれほど分かちがたいものであるかを」と。
「平凡なもののもたらす喜びへの憧憬以上に甘く、価値のある憧憬などない――そう感じてしまうほどに深い、運命によって否応なく定められた芸術家としてのあり方も存在するのだということを」
 平凡なものへの憧憬を抱きつつ、芸術家としての道を歩む、そういう人間もいるのだ。俗人でない芸術家、「誇り高く冷徹な」芸術家に感嘆の念を抱きはするけれど、けっして僕は羨みはしない、とトニオはいう。「人間的なもの、生き生きとしたもの、平凡なもの」に対する俗物的な愛情こそが、自分を自分(という芸術家)たらしめているものにほかならないのだ、と。
 リザヴェータへの手紙の結びの部分は、みごとな訳文とあいまって美しく感動的だ。


「僕が成し遂げたことなど、なにもありません。ほとんど無に等しいわずかなものです。リザヴェータ、これからはもっと善きものを創り出します。――これは約束です。これを書いているいまも、海の轟きがここまで響いてきます。僕は目を閉じます。すると、いまだ生まれぬ茫洋とした世界が、秩序と形式を与えられるのを待っているのが見えます。うごめく人間たちの影が、呪縛を解いて救いだしてほしいと僕に手を振るのが見えます。悲劇的な人物、滑稽な人物、または悲劇的かつ滑稽な人物たち。彼らに、僕は大きな愛情を抱いています。けれど、僕の最も深く、最もひそやかな愛は、金髪で青い目の人間たちに向けられているのです。明るく生き生きとした、幸せで、愛すべき、凡庸な人たちに。
 リザヴェータ、どうかこの愛を非難しないでください。これは善き愛、実り多き愛です。そこには憧憬があり、憂鬱な嫉妬と、少しばかりの軽蔑と、純真そのものの幸福があるのです」


「金髪で青い目の人間たち」とトニオが書くとき、トニオの脳裡にあったのは、少年のころに愛したハンスとインゲだった。トニオは、北の国デンマークの滞在先で、成長したハンスとインゲに思いがけず遭遇する。この出来事がトニオに回心をもたらし、トニオはいわば「再生」の道を歩みだす。リザヴェータへの手紙はその決意をしたためたものである。
 小説の語り手は、トニオの出遭いの衝撃を読者もまた分かち合えるようにと、この男女を「ハンスとインゲ」の名で呼ぶ。だが、出遭いからしばらくあとのダンスパーティの場面では、このふたりが「ハンスとインゲ」であるのは、特徴や服装が似ているからというより、同じタイプに属する人間であるからであり、「インゲはハンスの妹なのかもしれない」という。目の前でカドリーユを踊るインゲに、トニオは十六歳のころ、おなじくカドリーユを踊るインゲを目にして想起したシュトルムの詩の一節「僕は眠りたい、けれど君は踊らずにいられない」(「ヒヤシンス」)をまたなつかしく思い出す。君は踊ればいい、だが僕のいる場所はそこではないのだ、と孤独に思った日のことを。憧憬と、憂鬱な嫉妬と、少しばかりの軽蔑と――あの日の感情がよみがえる。「あのときと同じように、トニオは幸せだった。なぜなら、トニオの心は生きていたからだ」。
 浅井晶子の訳文は、従来の翻訳よりも、ここで一歩踏み込んだものになっている(「この文章には私の解釈が多分に入っている」)。ダンスパーティの場面で、トニオはかつて恋い焦がれたふたりに熱いまなざしを送る。
「いま目の前にいるふたりがハンスとインゲボルクそのものに見えるのは、個々の特徴や、服装が似ているからというよりは、むしろ彼らが人間として同じタイプ、いわば同じ人種に属するせいだった」
 従来の翻訳、たとえば実吉捷郎訳(岩波文庫)では「その二人がハンスとインゲボルグだというのは」であり、高橋義孝訳(新潮文庫)では「この二人がともに彼を悩ませたのは」であり、比較的新しい平野卿子訳(河出文庫)では「このふたりがインゲボルクとハンスだというのは」となっている。
 浅井晶子は「訳者あとがき」で、この箇所の原文を直訳すると「彼らがそれ(es)なのは……個々の特徴や服装の類似のためというよりは……」であり、esをどう解釈するかによって訳文は変ってくるけれども、論理的にいえば目の前のふたりがハンスとインゲに似ているのはと解釈すべきだろうと述べている。平野卿子も「訳者あとがき」で、「実際にハンスとインゲに再会すると思っていた人が多いことにあらためて気づいた」と書いている。ドイツ人に尋ねても再会したと思っていたという返事がいくつか返ってきたそうだから、必ずしも翻訳のせいとはいえないが、高橋義孝訳は実際に再会したと解しており、「このふたりはたぶん兄妹なのだろう」(平野卿子訳)という箇所を、「ハンスは自分の妹らしい若い女の横に腰を下ろしていた」というふうに、インゲのほかに「若い女」を登場させて辻褄を合わせている。新潮文庫で読んだ読者は、トニオはハンスとインゲに再会したと思ったにちがいない(ちなみに、浅井晶子も平野卿子も「兄妹なのかもしれない」という箇所をトニオの内心の声としていわゆる「自由間接話法(体験話法)」と解しているが、実吉捷郎、高橋義孝はともに語り手の声としている)。


 ここで、訳文を離れて小説のプロットとして考えてみるとどうだろう。ハンスとインゲが恋人同士、あるいは夫婦としてトニオの前に現れたとしたら……。おそらく、ふたりを見るトニオの目もまた違ってきただろう。かつて愛したふたりが目の前で仲睦まじくしている。かつての「憂鬱な嫉妬」は、別種の嫉妬にとってかわり、「あのときと同じような幸せ」は感じられなかったかもしれない。小説の構成、力点のバランスも微妙にかわってきただろう。「ハンスとインゲ」に思いがけず遭遇したトニオは、おそらくすぐにかれらが別人だとわかったにちがいない。きわめて似ているけれど、別人であるからこそかつて愛したハンスとインゲのおもかげを重ね合わせて、当時の真情――「憧憬があり、憂鬱な嫉妬と、少しばかりの軽蔑と、純真そのものの幸福があった」――がありありとよみがえるのだ。 
「言葉によるソナタともいわれるこの作品には、ライトモチーフ(ある人物や状況について一定の表現をくり返す手法)や対句的な表現が数多く使われているが、それはごく細かなところにまで及んでいる」と平野卿子が指摘する反復はいたるところで目についた。インゲに思いを寄せるトニオを遠くから見つめる女の子マクダレーナは、のちのダンスパーティの場面で、トニオに視線をそそぐ少女として反復される。ふたりはともに黒い瞳をもち、ダンスの最中に転ぶのである。

     ***
はてなダイアリー」が来年終了するそうなので、いずれ「はてなブログ」へ移転しようかと思う。このところ更新が間遠になっているけれども、いましばらくは気がむいた時に雑文を書く場所を確保しておくつもり。「はてなブログ」へは「はてなダイアリー」からリダイレクトされるようなので、新居へは迷わずお越しいただけると思う。


トニオ・クレーガー (光文社古典新訳文庫)

トニオ・クレーガー (光文社古典新訳文庫)

トーニオ・クレーガー 他一篇 (河出文庫)

トーニオ・クレーガー 他一篇 (河出文庫)

*1:id:qfwfq:20140614

ぼくの叔父さん、伊丹十三



 鉛筆キャップってあるでしょう? アルミニウムでできてて、キャップっていってもけっこう長いのね。そうねえ、鉛筆全長の3分の2ぐらいはあるかな、長さが。鉛筆って、ちびるでしょ。使ってると、だんだん。で、3センチぐらいになると、持てなくなるわけよ。いや、持つことは持てるんだけどさ、字を書きにくくなるわけね。そうすると、出番になるわけです。鉛筆キャップの。譬えていうならね、いつ出番が来てもいいように、ベンチの裏で素振りを欠かさない代打専門の選手みたいなわけよ。7回裏ぐらいになると、さあそろそろだ、と素振りにも熱がはいる、と。そこでお呼びがかかるわけね、鉛筆キャップに。で、おもむろに、ちびた鉛筆の後ろに差し込むと、あら不思議。ちびた鉛筆が元の長い鉛筆に早変わり。べつに不思議でもなんでもないんだけどね。
 要するに、ここにわれわれ日本人の思想が集約的に表現されているわけだね。ちびた鉛筆は使えない。だけど、捨てるにはしのびない、と。ね? まだ工夫すれば使えるはずだ、と。ほら、歯磨きチューブもね、最後、まだ中身が残ってるのに絞れなくて、捨てるに捨てられないでしょ。昔はね、歯磨きチューブ絞り器というのが発明されて、それを歯磨きチューブにつけて最後の一滴まで絞り出したものです。え?いまでもあるの、歯磨きチューブ絞り器。ほう、それはそれは。
 つまり、この倹約の思想というものが、江戸時代から連綿と庶民のあいだに生き続けてきたわけね。石田梅岩という人がいて、カレがこの倹約の思想というものを説いたわけです。まあ、当時は鉛筆も歯磨きチューブもなかったからね、障子紙を新しく貼り換えたら、古い障子紙はトイレットペーパーにしなさい、とか、まあそんなような教えです、ひと言でいうと。『齋家論』という本に書いたら受けてベストセラーになったんだね、これが。それが江戸時代から明治大正昭和と、親から子へと伝わってきた、と。ものを大事にしないとバチがあたるぞ、と。親は子どもをオドすわけね。だから、お弁当を食べるときも、まず、弁当箱の蓋の裏にこびりついた御飯粒をお箸でこそぎ落して食べる、と。それから、おもむろに本体にとりかかるわけね。ひとつの米粒のなかには7人の侍、じゃなくて神様がいる、と。どれだけ小さい神様なんだか。
 それから、買ったばかりの新しいマーガリンというのも悩ましいものでね。蓋を取ると、マーガリンの上にアルミホイルのようなものが貼ってあったりするでしょう。そのアルミホイルを剝がすと、アルミホイルの裏に微量のマーガリンが附着していたりするわけね。で、スプーンでそのマーガリンをこそぎ落とす、と。マーガリンのついたアルミホイルをそのまま捨てたりすると、バチがあたる、と。なんともイジマシイと思わなくもないけれど、それが習い性になっているわけですね、われわれ日本人の。
 この日本人の精神の奥深く、ほとんど無意識のレベルにまで浸透した倹約の思想というものをですね、佐多稲子さんがみごとに描いています。「水」という短篇小説です*1。一度お読みになるといい。いやあ、しかし、あるんですか、いまでも。歯磨きチューブ絞り器。ふーん。

 
 伊丹十三の「没後20年の単行本未収録エッセイ集」が刊行された。もう20年になるのですね。光陰矢の如し。つらつら読んでいると、わたしの精神の奥深くに眠っていた伊丹十三がむくむくと起き出してバイブレーションを始めた。それが上の文章です。早い話が文体模写ですけど。本のタイトルは『ぼくの伯父さん』。伊丹さんが編集した雑誌のタイトル「モノンクル」ですね。2005年に出た『伊丹十三の本』*2の帯には《「ぼくの叔父さん」は、こういう人だった――。」》というキャッチコピーがある。「伯父さん」か「叔父さん」か。なんでもよく知っていて、ちょっと遊び人風でもあり、悪い遊びも教えてくれたメンターといえば、父の兄ではなく弟でしょうね、やっぱり。


 写真は『ぼくの伯父さん』より、伊丹十三愛用の文房具。


ぼくの伯父さん 単行本未収録エッセイ集

ぼくの伯父さん 単行本未収録エッセイ集

*1:id:qfwfq:20090516

*2:id:qfwfq:20051030

なんだなんだそうだったのか、早く言えよ



「なんだなんだそうだったのか、早く言えよ」は、加藤典洋さんの本のタイトルだけど、わたしも時折りそうつい呟いてしまう出来事に遭遇することがある。知らぬは亭主ばかりなり。わたし以外には、周知のことなのかもしれないけれど、立て続けに遭遇したふたつの事柄について書いておきたい。
 先週のこと、新聞でジョン・ネイスンの『ニッポン放浪記』という新刊本の広告を見て、「ああ、やっと翻訳されたのか」と思った。ネイスンは、加藤さんの『小さな天体』という本に出てくるカリフォルニア大学サンタバーバラ校の「同僚」で、三島由紀夫の評伝*1の著者として知られる。『ニッポン放浪記』は、以前、ここで『小さな天体』についてふれた際に、翻訳されるといいなあと書いたことがあるネイスンの回想録Living Carelessly in Tokyo and Elsewhereである *2
 ちょうど都心に出かける用があったので、書店に立ち寄って購入した。ちなみにその日は、三島由紀夫自決の日の2日前だった。47年前か。あと3年で三島も著作権が切れるんだな、と感無量。
 『ニッポン放浪記』は、寝る前に1章ずつ読んでいる。「おお」と思ったのは第3章の『潮騒』について書かれた個所。ネイスンは「三島の書斎でこの小説の純粋さ、その無垢な素朴さにどれほど心動かされたか」について熱弁をふるった。すると、


 「三島は私に最後まで話をさせてから、笑ってこう言い放った。「あれは読者を騙したんだよ。こうやって書いたのさ」。三島は左手で目をおおい、右手を体の正面に出し、ペンを握ってサラサラと書くふりをした。私は無邪気さをむき出しにされ、呆然とした。この後でもう一度『潮騒』を読みなおしてみると、そのラブシーンは、プルーストとおなじように、同性愛の幻想をカモフラージュした場面なのだと強く感じられた。」


 「なんだなんだそうだったのか、早く言えよ」。ネイスンの三島の評伝では、『潮騒』は「読者への冗談」であり、三島は「その冗談がうまくゆきすぎたにちがいないと痛恨の念を」示した、と仄めかされているだけである。そのくだりの前に「『潮騒』は、三島が書いた唯一の倒錯的でも諷刺的でもない恋愛小説である」とも書かれており、その「冗談」は「倒錯的でも諷刺的でもない」何かを意味するように読みとれる。
 わたしは同性愛を「倒錯的」と思わないが、三島が「痛恨の念」を示したというのなら、読者にその「寓意」を享受してほしいと願っていたのだろうか。『私の遍歴時代』で三島は、『潮騒』の「通俗的成功と、通俗的な受け入れられ方」に冷水を浴びせかけられたと述懐しているので、「ちぇっ、わかってねえな」といささか不満には思ったのかもしれないけれど。そのうちに『潮騒』を読み返してみよう。


 もうひとつは、先頃、刊行が始まった岩波文庫の『源氏物語』。校注のメンバーを見て、以前の文庫の改版ではないだろうとは思ったけれど、源氏なら「新潮日本古典文学集成」版を持ってるしなあ、と思って横目で通り過ぎていた。文庫版の原典よりも、このところ文庫版が出始めた林望の『謹訳 源氏物語』が「改訂新修」とも謳われているので、こちらを購入することにした。
 と、思っていたところ、「リポート笠間」*3の最新号が届いて、岩波文庫版源氏の書評が載っていた。評者は法政大学の加藤昌嘉氏。のっけから、これは岩波の新体系版全5巻を文庫化したものだが「大幅に加筆され修正されていて、別のテキストが誕生したと言ってよい」と書かれている。「なんだなんだそうだったのか、早く言えよ」。
 校注については、数ヵ所の「ユニークな注」が紹介されていて、たとえば「帚木」巻で、光源氏紀伊守邸を訪れた場面の「思ひ上がれるけしきに聞きおき給へるむすめなれば」の「むすめ」を、従来の注釈は「空蝉」と解していたが、本書では「のちに軒端荻と呼ばれる、紀伊守の妹。別解に伊予介の後妻である空蝉」としている。これは最新研究の「主張を容れたもの」だそうだ。ちなみに、「新潮日本古典文学集成」版では空蝉としている。評者の加藤昌嘉氏も「私も“空蝉のことを「娘」と言うのかしら?”と疑問視していたので、今回、スッキリしました」と賛同している。
 あるいは、「若紫」巻の、光源氏藤壺との密会場面について、光と藤壺の「性交渉」はこれが初手だっかたどうかの「諸説紛々」についての「独自の見解」とか、新体系版では「生硬で説明不足の観があった」という「末摘花」巻の注への「しかるべき加筆」であるとかの目を瞠る注を取り上げて、さすが研究者だけあって簡にして要を得た書評である。
 この書評を読まなければ、通り過ぎたままだったかもしれない。最新の角田光代訳はまだ見ていないけれど、林望訳とも併せて、この新注文庫版と照合してみるのも一興か、とも思う。


ニッポン放浪記――ジョン・ネイスン回想録

ニッポン放浪記――ジョン・ネイスン回想録


源氏物語(一)桐壺―末摘花 (岩波文庫)

源氏物語(一)桐壺―末摘花 (岩波文庫)


*1:三島由紀夫 ある評伝』野口武彦訳、新潮社、1976

*2:id:qfwfq:20120211

*3:笠間書院のPR誌。年2回刊行で、無料(送料も)で郵送してくれるのでありがたい。定期購読をお勧めしたい。

ちいさな本棚――(その1 詩集の棚)



 クラフト・エヴィング商會に『おかしな本棚』(2011年、朝日新聞出版)という本がある。『らくだこぶ書房21世紀古書目録』(2000年、筑摩書房)とともにわたしの大好きな本についての本。『らくだこぶ』については、ずいぶん昔になるけれどネットで書評を書いたことがある。いずれここに再掲しよう。『おかしな本棚』は「本棚の本、本棚をめぐる、本棚のあれこれを考える本」(まえがき)で、「金曜日の夜の本棚」だとか「美しく年老いた本棚」だとか「波打ち際の本棚」だとか「頭を真っ白にするための本棚」だとか、テーマごとに十数冊の本が美しいカラー写真(背と表紙が少々)とエッセイで掲載されている。「旅する本棚」は、なんとなく想像がつきそうだけれど(実際は想像したのと少し違っていた)、「蜂の巣のある本棚」なんて「なにそれ?」って猛烈に興味がわく。こういう本を読む(見る)と真似をしてみたくなるのがわたしの悪い癖で、ちょっとためしにやってみた。
「ちいさな本棚」。今回は貧しい書架から詩集をあれこれ抜き出してみた。



 まず左端の化粧函入りの二冊のセット。『三好豊一郎詩集(1946〜1971)』。1975年2月15日発行、サンリオ刊。限定500部で、奥付に「番外七五」と朱書きされている。定価4000円。もちろん消費税なんてない頃の本。国立の古書店で定価よりいくらか高い値段で買った記憶がある。函の背に絵具の滴のような滲みが一面に付着している。前の持ち主がつけたものだろう。「美しく年老いた本棚」に「新しい本にはとうてい真似のできない(略)微妙な色あいを芽生えさせる」とあるように、味のある汚れ。琳派の絵の「たらし込み」を思わせなくもない。判型はけっこう大きい。天地は奥付の表記に従うと「10ポ七十八倍」。1ポ(ポイント)は約0.35ミリなので、3.5×78で273ミリになる。左右は133ミリ。造本 杉浦康平
 1は「囚人」「荒地詩集から」「小さな証し」を収める。2は二分冊になっており、「Spellbound」「トランペット」「未完詩集」が一冊(いずれもフランス装)、もう一冊は「詩画集《黙示》」で、右に城所祥のモノクロ版画、左に詩を印刷した厚紙を二つ折りにした折本が12葉、帙に収められている。極端に縦長の判型だが、詩は上部に印刷され、下3分の2は余白である。1、2にそれぞれ詩人たちが寄稿した栞が附く。いかにも杉浦康平らしい見事なオブジェ。なまなかな詩ではこの造本に負けてしまうだろう。


 その隣は『渡辺武信詩集 首都の休暇・抄』。1969年10月25日発行、思潮社刊。限定500部のうち155。定価2000円。周知のように52枚プラスJOKERの53枚のトランプに印刷された詩篇が2セット函に入っている。デザイン 高田修地、トランプ裏絵 石岡瑛子。JOKERにはそれぞれ「これらの詩篇を/凶区とそのプレイメイツに捧げる」「明日があるとおもえなければ/子供ら夜になっても遊びつづけろ! 堀川正美」と印刷されている。
「きみの掌の中でぬるくなったコーヒーの中に/融けきれず沈んでいる角砂糖みたいに/融けきれないぼくたちの欲望は ここからどこに向い/どこに到達するというのか」
 60年代だなあ、と思う。「世界はいつも少しひろすぎてさわやかに寒い」


 隣の薄い詩集は『北村太郎 書下し作品集』。1976年10月25日発行、矢立出版刊。定価500円。「星座」第2号とある。第1号は不明、裏袖に続刊として、石原吉郎井上光晴、会田綱雄、清水哲男、吉原幸子の名が挙がり、石原・井上は既刊とされている。わたしが持っているのはこの一冊のみ。装幀 司修。32頁に六篇の詩とエッセイ「少年時」を収める。
 「鳥が/悠々と空に舞いながら/ふっと静止するときがある/そのとき/鳥は/最も激しいことを考えているのだ」(「直喩のように」)
 この詩を読んだのは書評紙で文学欄を担当していたときだ。一読、感銘を受けた。詩人に書評を依頼したときの序でだったかに、感想を書いた手紙を添えた。謝辞の書状が届いたが、もう手元に残っていない。


 真ん中の正方形のような判型の詩集は荒川洋治の『娼婦論』。表紙中央に書名が7ポゴシックで入っている。1971年9月30日発行、檸檬屋刊。定価470円。表紙をめくると1頁目の同じ位置に書名が7ポか6ポの明朝体で入っている。3頁の同じ位置に「荒川洋治詩集」という文字が、そして5頁に「1970」という数字が、もうこれ以上小さくならないといったふうに5ポぐらいで入り、文字は判別も困難なほどかすれている。本文はタイプ印刷、28頁の平綴じ。グラシン紙掛けの薄い瀟洒な詩集。わたしにとって、詩集の姿は畢竟、これに尽きる。装丁者の記載はない。何部発行されたかは不明。おそらく150部程度ではないだろうか。大学2年のとき、三ノ宮の地下街にあったコーベブックスで買ったような朧げな記憶がある。あるいは、高架下のイカロス書房でだったか。いずれの書店もいまはない。
 『娼婦論』は刊行の翌年、早稲田大学文学部文芸科の卒業論文として提出され、平岡篤頼教授の推薦で小野梓芸術賞を受賞した。日本刀の鍛え肌をおもわせる繊細に研ぎ澄まされた言語感覚。現行の『娼婦論』は詩篇の順序を入れ替え、推敲が施され、「数理のしかばね」を「雅語心中」と改題している。


 その右は高祖保の『雪』。1942年5月4日発行、文藝汎論社刊。定価3円。限定150部。装丁者の記載はない。この詩集については、以前ここで触れたことがある*1。扉に蔵書印、裏の見返しに所蔵者に贈る「島を守りて玉と砕る」の墨書がある。元の持ち主は出征したのかもしれない。高祖保については、『高祖保書簡集 井上多喜三郎宛』(2008年)、評伝『念ふ鳥 詩人高祖保』(外村彰著、2009年)、『高祖保随筆集 庭柯のうぐひす』(2014年)と龜鳴屋が精力的に刊行を続けている。


 その隣は橋本真理『幽明婚』。1974年1月16日発行、深夜叢書社刊。定価1800円。限定500部のうち197。著者自装。表紙は金地にアールヌーボー風の細密なイラスト。扉にも数点の著者による銅版画を収める。この詩人の名を知ったのは73年10月に創刊された「季刊俳句」という雑誌でだった。ここに力の籠った「渡辺白泉論」を発表した未知の詩人にわたしは注目した。翌年に刊行された詩集をどこで買ったかは記憶にない。
 「季刊俳句」は堀井春一郎責任編集、中央書院発行、B5判より左右がやや短い変型の大判で表紙はつげ義春の絵。定価1000円という当時としては高価な雑誌だった。吉岡実の詩、葛原妙子の短歌、中井英夫のエッセイ、須永朝彦の小説、そして塚本邦雄五木寛之の対談といったふうに俳句にとどまらぬ内容は、編集協力に名が上がっている斎藤慎爾の差配によるものだろう。ちなみに第2号に石井辰彦の短歌「至誠の海」、藤原月彦の俳句「王権神授説」、第3号に長岡裕一郎の俳句「赤色鱗粉図」が掲載されている。わたしの手元にあるのは3号までだが、渡辺白泉論と、2号の西東三鬼論、3号の富澤赤黄男論(「虚空の聖餐」の題で連載された)を収録した橋本真理の評論集『螺旋と沈黙』(1978年、大和書房)には、「季刊俳句」掲載の評論はほかにないので、3号で途絶したのかもしれない。
 橋本真理の第2詩集『羞明(フォトフォビア)』(思潮社)は2005年に出た。わたしはその刊行を知らず、2008年に古書店で求めた。詩集にまつわる奇譚を「カエサルのものはカエサルへ」と題して、以前ここに書いた*2。橋本真理も「現代詩手帖」(2012年7月号)に「宛名のない葉書」と題して書いている。橋本真理さんとは以降、数年にわたって書簡をかわした。


 右端は井上詠『大和島根遙か』1981年2月28日発行、風人社刊。定価2800円。限定270部(特装本20部)のうち261。耳つきの手漉き和紙80頁に十篇の詩を正字正仮名で収める。詠は「ながむ」と訓む。英文学者井上義夫の別名である。D.H.ロレンスの研究はいうに及ばないが、『村上春樹と日本の「記憶」』(1999年、新潮社)は村上春樹論の白眉。先頃読んだ小島基洋村上春樹と《鎮魂の詩学》』(2017年、青土社)に同書を評して「本書は村上春樹研究史において、読みの確かさと叙述の美しさにおいて群を抜いている」(第三章注5)とあり、わが意を得た思いがした。この詩集は著者の「事実上の処女詩集」で、関川左木夫の厚情により出版されたと後記にある。折口信夫に通じる、古代の神話を物語るかのような散文詩


おかしな本棚

おかしな本棚

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「あっと思った」こと――二年半後の『太宰治の辞書』



 北村薫さんの『太宰治の辞書』が文庫本になった。単行本が刊行されたときに、「書物探索のつづれ織り」という感想文をここに書いたのがもう二年半前*1。単行本は新潮社から出たけれど、文庫は創元推理文庫です。《円紫さんと私》シリーズですからね、当然でしょう。
 嬉しいことに、文庫版には単行本の三篇の小説に加えて、ボーナストラックとして短篇小説「白い朝」と二つのエッセイが附いている。「白い朝」は、短篇集『紙魚家崩壊 九つの謎』に収録された作品だが、なぜあえてこの文庫版『太宰治の辞書』に再録されたのか。その「謎」は、本文庫の解説で米澤穂信氏が解き明かしている。「謎」の解明ということだけでなく見事な解説で、いたく感心した。
 さて、新たに収録された二つのエッセイのうち、ひとつは「一年後の『太宰治の辞書』」。
 これは、「小説新潮」2016年1月号に掲載されたもので、文中に北村さんの大学の、そしてワセダミステリクラブの後輩でもある「歌人藤原龍一郎(の短歌)」が登場する。わたしは、藤原さんから教えられて「小説新潮」を読んだ。題名のとおり、単行本『太宰治の辞書』が刊行された一年後の「後日譚」である。
 ちょうどその頃、わたしは長年勤めた会社を退社した。退社にあたって、社員にメールで届く電子版の「社内報」のようなものに一文を求められた。以下の文章がそれである。


     *****

   「あっと思った」こと。


  鎮まらぬこころのごとく夜もすがら風を集めて鳴る梢あり


 窓の外で小枝が風に吹かれて一晩中ひゅーひゅーと鳴っている、まるで騒立ちやまぬ私の心のように。眠れぬ夜に屈託を抱えてひとり耳を澄ませている作者の姿が目に浮かびます。大西民子さんの歌集『無数の耳』の一首です。
 昨年12月、お世話になった方から御食事に誘われ、さてなにか心ばかりの贈り物をと思案したすえに選んだのが、上記の歌を揮毫された大西民子さんの色紙でした。その方は若い頃にパリでピエール・カルダンのお弟子さんだった服飾デザイナーで、大西さん主宰の短歌誌に所属されて歌もよくなさった方です。たいそう喜んでくださりほっと安堵しました。色紙は、詩歌の古書を専門に扱っている石神井書林――「ひととき」でコラムを連載されている内堀弘さんのお店から購入したものです。内堀さんには、私も在籍中に『書痴半代記』という文庫の解説を書いていただいたことがあります。
 年が明けてついこの間、思いがけないところでこの『書痴半代記』に巡り合いました。北村薫さんの「一年後の『太宰治の辞書』」という短篇(昨年刊行された単行本『太宰治の辞書』の後日譚)のなかで、です。以下はその一節――。


 《「『書痴半代記』……」/覚えがある。/「ウェッジ文庫です」/あっと思った。/「それ……、うちにあるし、読んでます」》


 あっと思いました。それ、うちにあるし、読んでます。ていうか、私がつくりました……。
 その随筆風短篇小説によると、北村さんは『書痴半代記』の書評も書いてくださっていたとのこと。迂闊にも知りませんでした。
 ウェッジ文庫が小説に登場するのはきっとこれが最初で最後でしょう。「小説新潮」1月号に載っています。機会があれば御一読下さい。


     *****

 「太宰治の辞書」は、太宰治の辞書、すなわち『掌中新辞典』を主人公である「私」が探索する物語だが、作者である北村さんもその辞典を探索されていた。小説のなかでと同様、群馬県立図書館で北村さんが手にしたのは表紙のない辞典である。なんとかして、表紙を見たい。そう思っていると、編集担当者から現物が見つかったという電話がかかってきた。クラフト・エヴィング商會吉田篤弘氏が所持しているそうだ。吉田氏は、堀口大學が『掌中新辞典』を褒めているという文章を読んで興味を持ち、ネットで検索して入手したという。


 「堀口大學は、どういう文章で、どういう風に褒めてるんでしょうね」
 「さあ。何でも岩佐東一郎の『書痴半代記』という本に出て来るそうです」


というやりとりがあって、上記の
 「『書痴半代記』……」/覚えがある。」
に繋がる。
 わたしが「あっと思った」のには、すこし別の意味合いも含まれている。たとえば、
 《「『月下の一群』……」/覚えがある。/「講談社文芸文庫です」》
とはならないだろう。
 あるいは、川端康成の『掌の小説』なら「新潮文庫です」とはならないだろう、と思う。『書痴半代記』といったときに、「文庫版の……」ではなく、「ウェッジ文庫です」と返答されたところにいささかの感慨のようなものを覚えたのである。
 北村さんは、ウェッジ文庫版『書痴半代記』の書評も書かれたという(わたしは残念ながら未見だが)。当然、岩佐東一郎堀口大學に教えられて『掌中新辞典』を愛用していた、という個所は読んでいられたはずだ。北村さんは、 


 「本は、いつ読むかで、焦点の合う部分が違って来る。『太宰治の辞書』の探索を終えた後で『書痴半代記』を読んだら、
 「あっ!」
 と、声をあげたろう。しかし、順序が逆だった。このページを読んだ時には、無論、後に『掌中新辞典』を追いかけることになるとは知るよしもない。
 ――へええ、そういう辞典があったんだ。
 と、思っただけで、あと白波となりにけりだった。」


と、書いている。わたしもまた、『書痴半代記』は当然繰り返し読んでいる。しかし、『太宰治の辞書』を読んだときに「ああ、そういえば『掌中新辞典』って『書痴半代記』に出てきたな」とは、露ほども思わなかった。わたしの場合は、むろん、ただのボンヤリである。


 創元推理文庫版『太宰治の辞書』に新たに収録されたもう一篇のエッセイは、「二つの『現代日本小説体系』」。書下ろしである。わたしも時折り拝読している、はてなブログの「黌門客」(ウェッジ文庫への言及もある)に、北村薫著『六の宮の姫君』についての文章があり、同著に出てくる『現代日本小説体系』(河出書房刊)の巻数の齟齬が指摘されていた。北村さんが「黌門客」に「いずれ、エッセーなどの形で、読み手に届くような説明をしたいと思います」とコメントを寄せられている。その齟齬の「謎」をめぐるエッセイがこの文章である。ブログ「黌門客」*2とともに読まれたい。
 河出の『現代日本小説体系』はなかなか面白い全集で、全65巻だそうだが、わたしは二冊だけ持っている。『六の宮の姫君』に「第五巻など実に渋い」とあって、饗庭篁村以下八名の作家が列挙され「駅の売店に置いたら、さぞかし売れないことだろう」と結ばれる。
 わたしの所持する56、57巻も、じつに渋い。いずれも「昭和十年代」の小説だが、56巻は武田麟太郎に始まり、澁川驍、新田潤、寺崎浩、北原武夫、井上友一郎、矢田津世子、高木卓、富澤有為男、榊山潤、大鹿卓、保高徳蔵の十二名、57巻は浅見淵小田嶽夫、中村地平、岡田三郎、網野菊石塚友二永井龍男川崎長太郎、丸岡明、外村繁の十名。いずれも大半がわたしの好みの作家たちで、単行本で所持している作家も少なくない。
 浅見淵の本などは実際につくったこともあるけれど、駅の売店に置いても、案の定、売れなかったようだ。

われがもつとも惡むもの――高橋順子『夫・車谷長吉』を読む


 車谷長吉の小説を初めて読んだのは20年ほど前、たしか1996年前後だったかと思う。当時住んでいた京都市内の図書館の書架で見つけた『鹽壺の匙』(1992)を借り出したのが車谷の小説との最初の出遭いだったはずだ。『鹽壺の匙』は第一短篇集で、芸術選奨文部大臣新人賞と三島由紀夫賞を受賞しているからそれまでに名前ぐらいは目にしていたはずだがそのあたりの記憶は曖昧で、刊行後3〜4年経って出合い頭といった感じで手に取り、その独特の世界に惹かれて『贋世捨人』(2002)あたりまでは熱心に読んだ。『鹽壺の匙』を読んでみる気になったのは、塚本邦雄の短歌からタイトルが取られていたためだったろうか、それも定かではない。


 われがもつとも惡むものわれ、鹽壺の匙があぢさゐ色に腐れる (『日本人霊歌』)


 車谷の露悪的であけすけな私小説塚本邦雄の短歌の世界とはかなり径庭があるように思われたが、のちに物議を醸した「刑務所の裏」を掲載誌(「新潮」)で読み、車谷は学生時代に春日井建の『未青年』に心酔したと知ってなんとなく腑に落ちた。「刑務所の裏」は裁判沙汰となり、固有名詞を変えるなどしたうえ、別の短篇と合体して「密告」というタイトルで『飆風』(2005)に収録された。改作した「密告」では、春日井建の(『未青年』を含む)第二歌集『行け帰ることなく』の出版を企画した出版社の男が別人とされ、小説の末尾に、歌集はその出版社から出ずに深夜叢書社から上板された、と付け足しのように記されている。この程度のものならいっそ没にすればよかったと思わないでもないが、「刑務所の裏」を機に「私小説作家」の廃業宣言をしたから小説家として行き詰まっていたのかもしれない。
 短篇「漂流物」が1995年上半期の芥川賞候補となり(受賞したのは保坂和志の「この人の閾」で、車谷は保坂を忌み嫌い、芥川賞の選考委員たちの藁人形に丑の刻参りの五寸釘を打ったと小説に書いた)、96年に刊行された同作をタイトルにした第二短篇集『漂流物』が翌97年に平林たい子文学賞を受賞、長篇『赤目四十八瀧心中未遂』が98年の上半期の直木賞を受賞、そして単行本でいえば、98年の『業柱抱き』、99年の『金輪際』、2000年の『白痴群』、とこのあたりまでがピークで、書くべきものは書き尽したのだろう。


 車谷長吉とは一度すれ違ったことがある。高橋順子の『夫・車谷長吉』を読んでいて、古い記憶がよみがえってきた。車谷は大学を卒業した後、しばらく雑誌「現代の眼」(現代評論社)の編集部に勤めていたことがある。エッセイに総会屋の手下をしていたと露悪的に書いているが、版元の経営者が総会屋で内容は左翼論壇誌である(わたしは車谷が編集部にいた頃、「現代の眼」を毎号購読していた)。その後、会社を辞めて東京を離れ、関西の料理屋を転々と流浪する。その頃の体験が『赤目四十八瀧心中未遂』に生かされているのは周知のとおり。その後、ふたたび上京して、西武セゾングループに職を得る。『夫・車谷長吉』に「(96年4月27日)長吉の取材のため、セゾングループで面識を得た東大経済学部教授の橋本寿朗氏に氏の古里・埼玉県加須を案内していただく。この方は学生時代剣道部で、正眼の構えをもってしたが、車谷さんの小説は横にはらうヤクザ剣法だね、と言ったそうだ」の記述がある。わたしは当時勤めていた出版社の仕事で橋本寿朗を知り、2002年に55歳で急逝した橋本の葬儀に参列した。葬儀には車谷夫妻も参列しており、「ああ、車谷長吉がいる」と思った。車谷は冬場にいつも着ているという綿入れ半纏を着用し、場にそぐわない異様な雰囲気を醸していた。
 この本でもう一つ「ああ」と思ったのは、高橋順子の所属する詩誌「歴程」の例会が神田神保町の喫茶店「ペコパン」で行われていたという記述で、「(2000年)五月五日、長吉も気に入って時々訪れていた神田神保町の喫茶店「ペコパン」のマダム、山田祐子さんが乳癌のため亡くなった。まだ六十前だった。濃やかな気づかいをする人で、ビルの地下にあるお店を花でいっぱいにしていた」とも書かれている。
 わたしは二十代の終わり頃、神保町にある編集プロダクションで仕事をしていた。すずらん通りから少し横道に入ったところにあった「ペコパン」で、昼休みに時折り珈琲を飲んだ。静かで落ち着きのあるカフェで、壁にフランス映画の大きなポスターが貼ってあった。ある時、ウェイトレスが運んできた珈琲をわたしの膝にぶちまけた。マダムはいたく恐縮した。それを機に、というわけでもないけれど、すこし距離が縮まったような気がして、知り合いから託された映画の前売り券を厚かましくもマダムに預かってもらったりした。
 神保町での仕事が終わると足が自然に遠のいたが、十数年後に勤めた出版社の同僚の女性が、多摩美の学生時代に「ペコパン」でアルバイトをしていたと言った。彼女はわたしより二十も年下なので、わたしが通っていた頃よりずいぶん後のことになるけれど、奇遇に驚いた。映画のチケットを売ってもらったという話をしたら、「ママは映画評論家の山田宏一さんの奥さまなのよ」というのでさらに驚いた。その出版社に勤める前に携わっていた映画雑誌の編集でわたしは山田宏一さんと毎月のように会っていた。山田さんとの会話に「ペコパン」の名が出たことは一度もなかった。
 『赤目四十八瀧心中未遂』が直木賞を受賞したとき、なぜ直木賞かと不思議な思いをしたけれど、あらかじめ直木賞に照準を合わせ、「新潮」に預けていた原稿を取り戻して加筆の上、「文學界」に連載したそうだ。この小説を読んだとき、異様な迫力のある傑作と思ったが、それまでの車谷の私小説にくらべると筋立てがいささか作り物めいていると感じた記憶がある。直木賞を獲るためだったのかもしれない。車谷は「九十パーセント作り物だ」と高橋順子に語ったという。2010年、全3巻の『車谷長吉全集』が三浦雅士の斡旋で新書館より刊行される。車谷は「死ぬ準備」と語っていたそうだが、堅牢な函入りの全集は墓標のようにも見える。これ以降、小説に手を染めることはなかった。
 『夫・車谷長吉』の奥付の日付は、2017年5月17日、車谷長吉三回忌の当日である。享年六十九。


夫・車谷長吉

夫・車谷長吉