「群像」10月号を読んでみる(てか、目次をつらつら眺めてみる)

 

「群像」という雑誌があります。このブログをたまにご覧になるような方なら当然御存知でしょうが、あの「群像」です、文芸誌の。

 ふつう、日常会話のなかでグンゾーといっても通じません。「グンゾー?」と訝しげに訊かれて「いや、あの、ほらノーベルショーを取るとか取らないとか噂になってる小説家の村上春樹がシンジンショーを取った雑誌の…」とかなんとかゴニョゴニョいって問題を複雑にするのがおちです。今月号の「群像」に出ていたナントカの小説が、とかいって通じるのはきわめて狭い世界のはなしです。ま、それはともかく。

 最近、といっても、いつごろからか定かではないけれども、「群像」が分厚くなりました(どうやらリニューアル以降らしい)。手元にある10月号(今年の)なんてほぼ600頁ある。1頁に400字・約3枚入るとして、1冊1800枚! ゆうに単行本3冊分はあります。ちなみに文芸誌御三家の「新潮」10月号が約430頁、「文學界」10月号が約330頁であるのに比べると、ダントツに厚い。念のために書いておくと、この3冊はすべて図書館から借り出したもので、発刊後ひと月経つと借りることができるので、とりあえず借り出すことにしています。

 で、その「群像」10月号は創刊75周年記念号と銘打たれています。終戦の翌年に創刊されたんですね。河出の「文藝」なんて歴史はもうすこし古いけれど、倒産で休刊したり判型を変えたり満身創痍でなんとかつづいて、いまは季刊でやってます。頑張ってね。その創刊75周年記念号の巻頭が高橋源一郎の「オオカミの」という、これは短篇小説なんでしょうか。「デビュー作『さようなら、ギャングたち』から四十年」と惹句にあります。もう40年なんだ。ちなみに源ちゃんはわたしと生年月日がちょうどひと月ちがい。「さようなら、ギャングたち」は81年の掲載ですが、その2年前に村上春樹が「風の歌を聴け」で「群像」からデビューしたのでした。感慨深いです。

 目次をもうすこし辿ってみると、「小特集・多和田葉子」として多和田葉子の長篇小説「太陽諸島」の第1回目と池澤夏樹野崎歓の批評。「批評・エッセイ」というくくりで、柄谷行人「霊と反復」、蓮實重彦「窮することで見えてくるもの――大江健三郎『水死』論」があり、これが今号のわたしの「お目当て」です(40年前と変わりませんね)。あと、「創作」コーナーには瀬戸内寂聴大先生の掌編小説「その日まで」なんてのもあります。ほかのページより文字を大きくして、ここだけ1段組です。6頁ですが、通常の文字組なら3頁で終っちゃいます。だから文字が大きくて、余白も大きい。「玉稿」ですね。

 ちなみに、わたしもおよそ40年前に同じことをやりました。澁澤龍彦に映画評を書いてもらったときに、フォントを大きくして一段組。笑われましたけど。『ブリキの太鼓』の映画評で、今は亡きフランス映画社川喜多和子さんに「澁澤さんが書いてもいいって」といわれて、ありがたく原稿をいただいたのでした。それはさておき。

「女性蔑視はどうつくられるか」というシンポジウムが載っています。これは、

【報告】連続討論会——ラファエル・リオジエ 『男性性の探究』をめぐって | ブログ | 東アジア藝文書院 | 東京大学 (u-tokyo.ac.jp)

のオンライン・シンポジウムを「抄録」したもの。リオジエさんには『男性性の探究』という著書があり、なぜその本を書いたかというと、自分はフェミニストだと自称しているが、「目に見えないミソジニー(女性蔑視)に私自身が構造的に侵されている」と気づいたからだと仰っています。社会全体に女性蔑視・差別の構造があり、気づかぬうちにそれを内面化していたというわけです。

 で、ぱらぱらと頁をめくっていると、「言葉の展望台」という連載のなかの、

(自分はトランスジェンダーだが、LGBTを差別する人たちと)同じ程度には差別的な思想を身につけていた。そしてその思想に導かれるままに、自分自身の存在さえ拒絶し続けているのだった

という言葉と出遭います。筆者は三木那由他さん。276頁へだてて、リオジエさんと三木さんとが照応する現場に読者は立ち会うことになります。

 社会における差別を論じる「現代思想」の特集や単行本の論集でなく、1冊の文芸誌のなかではからずも遭遇する。そこに雑誌の醍醐味があります。ちなみに三木さんがこの文章で紹介しているメアリー・ケイト・マクゴーワンの『たかが言葉――発話と隠れた害について』(オックスフォード大学出版局、2019)は翻訳が待たれる本です。

 はからずも遭遇するといえば、こんな遭遇もありました。「群像」のデザインを担当している川名潤さんの連載「極私的雑誌デザイン考」(第21回)で、〈「WIRED日本版」「とサイゾー」〉と題されています。

 川名さんが20代の頃、愛読していたのが「WIRED日本版」で、

90年代後半から00年代はじめにかけて、日本の雑誌制作環境は、写植からDTPへと移行したが、その先達となったのがこの雑誌だ。日本でのフルDTPによる雑誌最初の一冊

と書かれています。

 「WIRED日本版」が1994年に創刊するすこし前に、わたしはその版元である出版社に入社したのでした。フルDTPなのは雑誌だけでなく単行本もそうで、それまでDTPで本を作ったことなどなかったわたしはえらく戸惑ったものです。編集部には「WIRED日本版」を立ち上げるスタッフもまだ一緒に働いていました(まもなくWIRED編集部として独立する)。

 そして川名さんが、「(「WIRED日本版」編集長の)小林弘人が「こばへんの編集モンキー」という名前で公開していたウェブ日記」で告知した新雑誌のデザイナー募集を見て応募したのが「私が憧れ、アルバイトで参考にしてきた雑誌「WIRED」残党による後継誌「サイゾー」のデザイン部」だったというわけです。

「WIRED日本版」は休刊し、編集長をはじめとする編集部の何人かがあたらしく会社を起して創刊したのが「サイゾー」で、できあがった創刊号見本を手にした川名さんは、クールな「WIRED」からかけ離れた「どこか昭和のカストリ雑誌」のような「サイゾー」の誌面に愕然とすることになります。わたしも「サイゾー」創刊号を見たときには「なんだか「アサ芸」みたいだなあ。小林くんが作りたかったのはこういう雑誌なの?」と拍子抜けしたものでした。

 だが、川名さんがADに「どういう雑誌をめざすのか」と訊ねると「お爺ちゃんがやってる印刷所が版下からひとりでなんとかして作った感じ」と答えたそうだから、その「昭和のカストリ雑誌」ふうスタイルは「確信犯」だったわけです。〈「WIRED日本版」「とサイゾー」〉は末尾に(以下次号、かも)とあるので、いま発売中の11月号を立ち読みしてこよう。

 この連載をふくめて、連載が30本ちかくあるというじつに盛りだくさんな内容で、これ1冊すべて読もうとしたらひと月はかかりますね。読みませんけど。

 

 

 

 

奇才須永朝彦の二著

 

 ユリイカ臨時増刊号『総特集 須永朝彦 1946-2021』が刊行された。今年5月に長逝した歌人・作家須永朝彦の全300頁余を費やしての追悼号である。須永朝彦の名を知る読者がどれほどいるのかわからないが、超の名がつくマイナーポエットには違いないだろう。ほぼ同時に山尾悠子編で『須永朝彦小説選』(ちくま文庫)も出た。山尾悠子が「ユリイカ」で書いているように「生前元気なうちに実現していれば」須永がどんなに喜んだろうと思うが詮方ない。晩年なにかと逼迫していたと聞くだけになおさらそう思う。二冊ともに江湖の喝采を博すことを冀う。

 寄稿している方々の多くが須永朝彦をいつ見知ったかと筆を起しているので、わたしもそうしよう。わたしが須永朝彦と出会ったのは、三一書房刊の『現代短歌大系』の第11巻「現代新鋭集」、もしくは「季刊俳句」創刊号のなかでだったと思う。いずれも1973年の刊行。「季刊俳句」創刊号には連載小説「聖家族」の第一回目が掲載されており、同誌が四号で休刊したため連載も四回で中断したが、このたび『須永朝彦小説選』に初めて収録された。山尾悠子によれば、最晩年の須永は「聖家族」を単行本として上梓したいと漏らしていたそうで、雑誌掲載時と収載された文庫版を比べてみると字句に若干の異同が見られるのは、著者自身が刊行を念頭に推敲していたためか。ともあれ、雑誌掲載からおよそ五十年ぶりに日の目を見たのは喜ばしい。

 『現代短歌大系』の「現代新鋭集」は、平井弘や村木道彦、浜田康敬、福島泰樹ら、まさに新鋭と呼ぶべき気鋭の新進歌人らをピックアップしたもので、そこに掲出された須永朝彦の歌だけが解説で完膚なきまでに批判されているのは異様な眺めだった。須永の歌を一刀両断のもとに切り捨てたのは竹内健。『現代短歌大系』は書棚の奥深くに隠れているので、吉村明彦が「ユリイカ」に寄稿した「須永朝彦との三九年」から孫引きしよう。

竹内健は須永の

 水衣に映ゆる面の喝食を水に問ふわが山吹の性

なる歌を取り上げ、

須永自身は神遊びの境にいるのかも知れない。だが「わが山吹の性」とは一体何事であるのか。こういうのを私は彼の分別と解釈する。彼の歌から私が連想するのは、テレビの子供出演者、いわゆるジャリ・タレである。

と批判した。さらに、

 みづからを殺むるきはにまことわが星の座に咲く菫なりけり

について、

「わが山吹の性」に発した須永の長い詠嘆風の歌は右の一首で終る。この歌を最期に須永が此世から去ったとすれば、「星菫」も「咎なくて死す」も詩となるであろう。しからざれば、この歌は嫌味である。誰に対しての嫌味なのか。読者に無縁である以上、須永自身に対して嫌味であろう。この歌人は、死を詠んで死と無縁であり、スペイン、ポルトガルを詠んでイベリア魂と無縁である。されば、歌を詠んで歌と無縁にあらざる事を祈る。

と筆致は秋霜烈日である。

 吉村明彦はこの竹内健の解説文を引用し、「真摯な批評であるが、そこまで酷評するなら採りあげる必要があったのか、と思う」と述べているけれども、竹内にしても批評するに値しないと思えば無視したろう。ここまで書かせるなにものかを須永のうちに認めていたからこその「酷評」だったにちがいない。塚本邦雄を通して現代短歌に目覚めたばかりであったわたしは、いささか厳しすぎるとはいえ、竹内健の批評に首肯するものがあった。須永の歌は技巧的ではあったが、どこか造花を思わせる人工的な煌びやかさで、なにより、塚本邦雄や春日井建らの歌にふれたときのような感動を彼の歌に味わうことがなかった。

 生身の須永朝彦に会ったのは一度だけ、たしか1976年だったと思う。書評紙の編集者になったばかりのことだ。当の書評紙は全8頁で、4~6面がそれぞれノンフィクション、文学、学術・思想の書評欄で、わたしは最初、学術・思想欄を、次いで文学欄に移り、最後は8面の映画・演劇・美術欄を担当した。7面は企画頁で、時々のトピックを担当者が取り上げて紙面を作っていたが、ときに営業部からのリクエストで記事広告というか全面タイアップ記事とすることもあった。

 あるとき、全5段広告(75年から刊行が始まった国書刊行会の世界幻想文学大系あたりだったか)出稿のバーターで関連記事をつくってほしいという要請が営業担当者から7面の編集担当者にあり、彼に頼まれてわたしが紙面を構成したことがあった。吸血鬼をテーマにすることにし、吸血鬼関連のブックガイドをわたしが書き、吸血鬼に関するエッセイを須永朝彦に依頼した。この頃には、須永の吸血鬼小説も読んでいたのだろう。原稿が書き上がり、受け取りに行った。それは、江戸川橋のわたしの会社から歩いてすぐのところのマンションの一室だった。たしか表札には須永ともう一人の名前が掲げられてあり、だれかと同居している様子だった。そのとき、なにを話したのか、短歌の話などしたのかどうか、まるで記憶にない。ちなみに、この記事を見た富山太佳夫(当時まだ著書もない大学の助手で、時折同紙に執筆していた)が、吸血鬼ブックガイドなら自分が書きたかったと言ったと人づてに聞いた。

 ともあれ、この追悼号はわたしの知らない須永朝彦の「素面」をさまざまに教示してくれた。とりわけ興味をひかれたのは塚本邦雄の小説集『連弾』への須永の書評で、「週刊読書人」に掲載された切抜きを須永の遺品のなかから発掘したものだという。1973年の執筆で、須永が塚本に「破門」された後のことになる。大要は以下のとおり。

 塚本邦雄の小説で評価すべきは「月蝕」をはじめとする第一短篇集『紺青のわかれ』のみで、以降「完成度は下降の一途」をたどるばかり、『連弾』など「無惨でさえある」。「修辞に綺羅を尽せば尽すほど言葉は形象を結ぶことなく硬直し、説得力を失う」。そして「私はふと、このままでは散文作家としての塚本氏は、奇才のなしくずしに終ってしまうのではないかという懸念を抱いたのであった」と結ばれる。

 わたしも塚本の数多い小説集からこれ一冊ということになれば、『紺青のわかれ』に指を屈するものだが、『連弾』その他が須永のいうような「無惨」な出来であったかどうかは、半世紀ちかく前に読んだきりなので、にわかに判断はできない。だが『連弾』以降も塚本の小説は手に入る限りは入手して読んできたのだから、須永のいうような否定的な印象は受けなかったとおぼしい。それよりも、この書評の「修辞に綺羅を尽せば尽すほど」のくだりなど、須永の短歌にこそ当てはまるのではないか。須永の「懸念」は、奇才須永朝彦のその後のゆくたてを予見するものであったような気がわたしにはしないでもない。

 

 

 

 

 

百句繚乱

 

 

『百句燦燦』は、塚本邦雄が精選した、というよりも鍾愛する現代俳句百句を掲出し、鑑賞文を附した詞華集で、その講談社文芸文庫版の解説を橋本治はこう書き出している。

 「私が書店の棚にある『百句燦燦』を見たのは、二十六歳の秋だった。」

 二十六歳といえば一九七四年、「桃尻娘」で小説現代新人賞を受賞(佳作)する三年前のことだ。橋本治にとって、塚本邦雄は「畏敬」する存在であったが、「現代俳句への関心もなかったし、知識もなかった」ので買うのををためらった(高価でしたからね。当時の三千六百円の定価は、今ならだいたい一万円ぐらいの感じだろうか)。だが、「ここにはなにか、自分の分かりたいものがある」と思い購入した。

 巻頭の一句、石田波郷の「金雀枝や基督に抱かると思へ」には「いかにも塚本邦雄好みだな」と思ったが、第二句目の下村槐太「河べりに自転車の空北斎忌」にはびっくりした。文字の並びが、そのまま「絵」になって見えたからだ。

「私が見た「絵」は、朱紅の空を背景にして高くそそり立つ、暗い河原の土手である。その上に頑丈な荷台を持つ自転車が一台立っている。人の姿はなくて、向こうから差しつける光を受けた銀色のスポークが光っている。空が錆びた朱紅の色なのは、夕焼けではなくて、北斎の描いた赤富士が巨大化して、一面の空になってしまっているからである。だから、そこには一片の雲もない。ただ、朱紅の空だけがあって、銀色のスポークを光らせる暗い自転車の影だけがある。その壮大にして残酷な悲しみが、すごいと思った。」

 橋本治は「この句が絵であってもいいのだな」と思い、そういえば、自分は短歌や俳句にいつも「絵」を見ていたのだ、と思った。わたしはこのくだりを読んで「そうかそうか、橋本治もそうだったのか」と思い、嬉しくなった。わたしもまた短歌や俳句に、絵を、イメージを読み取るのがつねだった。「河べりに」の句は、わたしなら映画『男はつらいよ』の冒頭に出てくるような土手に止めてある自転車を下方からあおり(仰角)で撮ったイメージで、空が青空なのは『男はつらいよ』に引き摺られているのかもしれないが、自転車は橋本治と同じくあくまで昔ながらの「頑丈な荷台を持つ自転車」でなければならない。塚本邦雄もこの句から受けるイメージを鑑賞文で仔細に描いているけれど、わたしの場合はそれほど詳細な絵ではなく、土手にとめられた自転車とどこまでも広がる青空だけの単純なものだ。

 ちなみに自転車といえば、塚本邦雄の短歌「医師は安楽死を語れども逆光の自転車屋の宙吊りの自転車」も、わたしが思い浮べるのは、自転車屋の店頭に吊り下げられた自転車がふりそそぐ陽光のなかに浮び上がっているという、ただそれだけの単純なイメージだが、自転車はなぜか逆さまに吊り下げられていて、医師も安楽死も登場しない。これらはどこにでもありそうなありふれた状景だが、それがなぜわたしに限りなく美的なものに思えるのか。俳句にせよ短歌にせよ、文字がイメージを喚起し、イメージが文字を喚起する。そのウロボロスに似た在り様にその秘密がありそうな気がするけれど、まだよくわからない。

 単純な状景といえば、赤尾兜子の句「「花は変」芒野つらぬく電話線」が喚起するイメージも、なにもないだだっ広いだけのススキ野に電話線がどこまでも続いているというもので、単純ではあるけれど現実にはありえない状景なので、シュールで不穏なイメージでもある。そこが「変(異変)」にもつながるのだろう。塚本邦雄は『百句燦燦』でこの句を掲出し、もっぱら上五句の「花は変」についてあれこれ考察を試みているが、塚本の鑑賞はイコン(イマージュ)よりもイデアの分析に傾いているようだ。

 このほど上梓された藤原龍一郎の労作『赤尾兜子の百句』では、この句について次のような鑑賞文が附されている。

カギカッコに入れられた「花は変」をどのように解釈すべきなのか? それは兜子の独特の直感なのかもしれない。花こそが変であるとは、類型的な花のイメージを壊すものである。九世紀の薬子の変や幕末の禁門の変といった歴史的な謀反事件をあらわす変なのか。

 それに配する芒野をつらぬく電話線は、凶報を伝えているのだろうか。映像を思い浮かべると、不吉な花のシンボルを塗りつぶす荒涼たるススキの野と電線。救いのない画面が浮かんでくる。」

 わたしのいう不穏なイメージと「救いのない画面」に、受け取り方の共通性があるように思われる。藤原氏はさらに一歩踏み込んで、電話線は凶報を伝えているのかもしれないという。なるほど。だとすれば、野原をつらぬいて延びるこの電話線は、禁門の変桜田門外の変といった凶事を現代に伝える時間機械のようなものであるのかもしれない。

赤尾兜子の百句』はふらんす堂の百句鑑賞シリーズの最新刊。兜子の句、百句を掲出し、短文を附したもので、兜子俳句の「誰にも似ていない異貌」をよく伝えている。「ささくれだつ消しゴムの夜で死にゆく鳥」や「音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢」といった代表句に見られる、前衛俳句のなかでもとりわけ屹立した異貌と、初期俳句の清新な抒情、晩年の古典的な均整、といった変幻する「多面体」がこのコンパクトな一冊に凝縮されている。

 藤原龍一郎歌人として知られるが、かつて兜子主宰の俳句結社「渦」に所属し、藤原月彦の名で審美的な俳句を詠んでいた。わたしが藤原月彦の名を初めて知ったのは「季刊俳句」第二号(中央書院・一九七四年一月刊)に投句された「王権神授説」三十句によってである。月彦二十一歳、句歴三カ月の大学生だった。その伝説的な句業の全貌は、二年前に上梓された『藤原月彦全句集』で見ることができる。

さみしいね。――鴨下信一さんのことなど

 

 

 脚本家の橋田壽賀子が四月四日に亡くなった。小沢信男さんより二歳年上の1925年生れ、享年九十五だった。新聞の一面に訃報記事が掲載されたのは、脚本家として初めて文化勲章を受章したという経歴によるものだろうか。そのすこし前、新聞記事の扱いは橋田壽賀子よりずっと小さかったが、三月二十四日には田中邦衛が亡くなった。五木寛之石原慎太郎と同年の1932年生れ、八十八歳だった。このところ、BSの日本映画専門チャンネルで配信中の『北の国から』を見ていたので感懐はひとしおだった。 

 四月四日に放送された『北の国から』第19回では、スナックのカウンターで、そこに勤める児島美ゆきと肩を寄せながら田中邦衛が語る場面に心ひかれた。

 沈み込んでいる田中邦衛児島美ゆきがからかう。奥さんに逃げられたの? 田中邦衛は胸のポケットから封筒を取り出してカウンターに差し出す。封筒には今日届いたという離婚届のコピーが入っていた。ごめんなさい、ひどいこと言って。中島みゆきの「髪」がバックで流れている。さみしいね。ああ、さみしい。

 田中邦衛がたずねる。あんたは東京に出てきたとき、スパゲティ・バジリコって知ってたかい? おれは聞いたこともなかった。交際していた妻にアパートの部屋でふるまわれた手づくりの料理がスパゲティ・バジリコで、富良野から上京してはじめて目に(耳に)したスパゲティ・バジリコに感動したと訥々と語る。スパゲティ・バジリコは一種の暗喩でもあるのだけれど、スパゲティといえばそれまで甘たるいケチャップまみれのナポリタンぐらいしか食べたことがなかったのだろう(そういうことを連想させる)。ふたりはカウンターで「銀座の恋の物語」をデュエットする。その歌は結婚式の披露宴で妻いしだあゆみとデュエットした歌だったと田中邦衛は回想し涙ぐむ。児島美ゆきがささやく。お店が終ったらうちに来ない? スパゲティ・バジリコつくったげるから。

 児島美ゆきの部屋の本棚をみて田中邦衛が感嘆していう。ずいぶんと本があるんだな。本読むのが趣味なの。かい・こう・けん、か。開高健にはまってるの、開高健高中正義高中正義って作家は知らないな。高中はミュージシャンよ。あなた、本読む? あんまり読まないな。最近、どんな本読んだ?(すこし考えて)じゃりン子チエかな。一瞬虚を突かれた児島美ゆきが、五郎ちゃん大好き!と、やおら田中邦衛に抱きつく。

 こういう朴訥なキャラクターを演じて田中邦衛の右に出る役者はいなかった。いなかったと過去形で語らなければならないのがさみしい。この黒板五郎という役柄は、いかにも田中邦衛自身を思わせるが、実際の田中邦衛は「とても頭の回転が速く、知的で、ユーモアに満ち溢れた方なのだ」と三谷幸喜朝日新聞の連載コラム「ありふれた生活」(四月八日掲載)に書いていた。

北の国から』は何度も再放送され、そのつどビデオテープやディスクに録画して繰り返し見たが、リアルタイムでは見ていない。同じ時間帯に『想い出づくり』が放送されていたからだ。山田太一脚本、演出は鴨下信一(がメイン。連続ドラマは何人かの演出家が担当する)で、当時どちらを見るか迷った末に『想い出づくり』を選んだ。その頃、鴨下さんと初めてお目にかかったのだった。あれからちょうど四十年になる。

   *  

 鴨下信一さんも今年の二月十日に八十五歳で亡くなられたが、メディアではあまり報じられることがなかった。このたびの橋田壽賀子の死に際しても、東芝日曜劇場で長年コンビを組んだ鴨下さんがひと足先に亡くなったことにふれた番組は見かけなかった。TBSでさえも。そのことにすこしの憤りとさみしい思いをした。

 鴨下信一さんはあらゆるジャンルに通暁した博識無類の人だった。鴨下さんと親しい映画評論家の山田宏一さんから「鴨下さんは一日に本を三十冊読むらしい」と聞いて、まさかと思って鴨下さん自身に直接確かめたことがあった。鴨下さんは目を細める独得の笑顔で「ばかなことをしておりますけれども」と否定はされなかった。そういえば、松本清張について書かなければいけないので全作品を読もうとしたのだけれど時間がなくて「息子にすこし下請けに出した」と笑っておっしゃったことがあったが、それはそのときに聞いた話だったかもしれない。全66巻という途方もない量の全集(これでも全作品ではない)を短期間ですべて読破しようというだけでも常軌を逸している。

 その幅広い膨大な読書量には、久世光彦さんも感嘆していられた。あるとき、赤坂一ツ木通りの金松堂書店(TBSのすぐそば。残念ながらこの三月に閉店した)で本を物色する鴨下さんのあとをストーカーのようについて回ったことがある、と久世さんから伺ったことがある。鴨下さんはジャンルのことなる本を数冊抱えて、最後にヨーロッパの王室のエンブレムに関する専門書を棚から抜き出してレジに持って行ったんだよ。あれにはまいったな、と笑われた。ドラマの演出の参考にもとめられたのかもしれない。演出家だけあって「ことば」に関しては一家言あり、著書の『日本語の呼吸』などについてここでも書いたことがあるが、鴨下さんにはことばや文章に関する著作も多い。

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 なかでも『忘れられた名文たち』(正続)は文芸批評もしくは文学社会学の名著である。たとえば、山田宏一の『美女と犯罪』から一節を引用してこう述べる。

  こういう文章を読んでみると、映画ファンというサークル内で語られているいろいろなことが、そのまま一般に通用することなのだという著者と読み手の自信が明らかにみてとれる。つまりは、特殊な〈サークル内言語〉で一般のことを語ることも、一般の〈標準言語〉で特殊なサークル内のことを語ることも、両方とも可能なことなのである。大衆社会の中で文化のジャンルという概念が消滅しつつある現況を、このことはよくあらわしている。

 鴨下さんのいう「大衆社会の中で文化のジャンルという概念が消滅しつつある現況」は、この本の書かれたおよそ十年まえに吉本隆明が『マス・イメージ論』で論じた主題でもあったが、〈サークル内言語〉つまりある種の業界内のジャーゴン(隠語)が一般社会へと浸透していく状況はその後ますます加速しているといえよう(最近の都知事の「東京大改革2.0」なる意味不明のキャッチフレーズはまるで浸透しなかったけれども)。

 話をもどすと、四十年まえにはじめてお目にかかってから、打合せと称して何度もお会いした。もちろん打合せは口実ではなく、鴨下さんの映画に関する該博な知見を一冊にまとめたいと思ったからだ。わたしの力不足で、結局本にはできなかったが、たとえばルイス・ブニュエルの『昼顔』に関して次のような(おそらくだれもしていない)指摘をされたのが記憶に残っている。

 娼館ではたらく若妻カトリーヌ・ドヌーヴは、幼いときに受けたセクハラが原因で不感症になっているのだが、あるときやってきた東洋人の客の手練手管によってあられもない性的エクスタシーを感じる。東洋人の男は手にしたあやしげな鈴を思わせぶりに鳴らしてみせるのだが、これは交接時に女性が膣内に挿入すると快感を得るといわれる「りんの玉」という中国由来の性具である。映画では詳しい説明がないので、観客はドヌーヴがなぜそれほど快感を得たのかがわからない(ちなみに男が小脇にかかえていた小箱の中身は何だったのだろう。性具の一種には違いないだろうが。ブニュエルは自伝でわたしにもわからないと、とぼけているけれども)。

 わたしは鴨下さんがたのしそうに話されるそんなエピソードを聞くために足しげくTBSに通った。その後、わたしの職場が変わったりしてお会いすることも間遠になったが、いつか鴨下さんの本をつくりたいという気持ちはずっと持ち続けていた。最後にお目にかかったのは、ここにも書いた十余年まえのことになるが、その席でも本をつくりたいというお願いをした記憶がある。

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 ギラン・バレー症候群胃がんなど幾度も大病を患われたが、まだまだお元気でTVや舞台の演出をされるのだろうと思っていた。TBSの重役になっても現場の演出にたずさわりたいとたったひとりの部署を新たにつくられたほど、生涯一演出家をつらぬかれた人だった。ただ、ただ、さみしい。

 

さよなら小沢信男さん ――あわや一年の更新

 

 このところようやく暖かい日がつづくようになり厚手のコートを薄いブルゾンに変えて外出している。よんどころない「要」があっての外出である。

「今年は三月に入って四日と十二日と二度も大雪が降ったりしたせいか、由美がホクホクやって来て、ぼくを斎藤さんちのモクレンを見におびき出したのは三月十九日だった」

 1969年の3月19日、「あわや半世紀」も前のというか、すでに半世紀以上も昔の、これはお話であって、毎年というわけではないけれど、この時期になると時々なつかしくなって『白鳥の歌なんか聞えない』を読みかえしたりする。

「金魚がすごく元気に泳ぎだしたんだよ」と春の到来を告げる幼稚園児の甥っ子が、天井まで届く薫くんの本棚を見上げて、広田先生に尋ねる三四郎のように「これ、みんな読んだの?」と素朴な質問を発する。いっぽう、小沢さんのおじいさんの小さな図書館のような薄暗い書庫の本棚につまった世界各国の原書には、すべてその国の言語で書き込みがしてあって、しかし、当の老人は夕陽が沈むようにいまや命終の時をむかえつつある。肉体は悲し、万巻の書は読まれたり。

 この知性の権化のような老人は、当時まだ健在だった小林秀雄林達夫に擬せられたりもしたけれど、読み返してみると、もうすぐ八十歳になるという設定で、五十年後のいまではそれほどの高齢というわけではない(いまならさしづめ沓掛良彦あたりがイメージに近いか。いや、それともむしろ庄司薫本人か)。小林秀雄が亡くなったのが1983年、八十一歳、林達夫1984年、享年八十七だった。1969年時点での男の平均寿命はまだ七十に達していなかったのだから、もうすぐ八十歳は当時としては十分高齢といっていいだろう。

 さて、もうひとりの「小沢さんのおじいさん」が先頃、桃の節句に亡くなった。もう三月ほどで九十四歳になるはずだった長老小沢信男さん。訃報に接したあと、晩年の著書『俳句世がたり』を鞄に入れて外出し、在りし日の小沢さんを偲んだ。

 老境にいたって小沢さんの文章は融通無碍、ますます自在になっていったように思われる。『俳句世がたり』は敬体(ですます調)で書かれているので、よりいっそう親密な調子が伝わってきて、直接話しかけられているような錯覚にとらわれる。小沢さんについては、かつてここでも「わが忘れなば――小沢信男花田清輝」と題して書いたことがある。

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 じつはこの文章がきっかけで小沢さんと親しくお付き合いをさせていただくことになったのだった。

 わたしが編輯していた文庫の解説文の執筆をお願いするため小沢さんに電話をかけたのだが、そのついでに、じつは小沢さんが花田清輝に献呈された本を古本屋で購入しまして、という話をしたのだった。その経緯については、小沢さん御自身が「週刊朝日」に「『わが忘れなば』七千円!」と題して軽妙な筆致でお書きになっている(『本の立ち話』所収)。

 それ以来、何度かお目にかかったり、手紙やメールで励ましをいただいたりと、なにくれと気にかけてくださった。「新日文」の編集をしていたときに大西巨人の自宅へ『神聖喜劇』の連載原稿を受け取りに行った話とか、大西巨人井上光晴の話とか、それらはたしか谷中のお宅にうかがったときに聞いたような記憶がある。御自宅には二度ほどお邪魔した。書斎の机にデスクトップパソコンが鎮座しているのが印象的だった。

 ここ数年、酸素ボンベを装着するようになられてからはお目にかかったことはないけれど、それ以前はじつに健脚で、どこへでもすたすたと歩いて行かれた。『東京骨灰紀行』はこの健脚あってこそと思ったものだ。時折りこのブログも読んでくださっていたらしく、辻征夫について書いたときにはメールでお褒めの言葉をいただいて恐縮した。

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 なにくわぬ顔で百歳ぐらいまでお元気で執筆されるのだろうと思っていた。『俳句世がたり』にまとめられた「みすず」の連載にしても、最後まで文章にいささかもゆるみはなかった。享年九十三とは、若すぎる。

 

本の立ち話

本の立ち話

  • 作者:小沢 信男
  • 発売日: 2011/03/01
  • メディア: 単行本
 
東京骨灰紀行 (ちくま文庫)

東京骨灰紀行 (ちくま文庫)

  • 作者:小沢 信男
  • 発売日: 2012/10/10
  • メディア: 文庫
 
俳句世がたり (岩波新書)

俳句世がたり (岩波新書)

  • 作者:小沢 信男
  • 発売日: 2016/12/21
  • メディア: 新書
 

 

 

なつかしい文学の味

 

 何ヶ月前のことだったかもうさだかではないけれど、たぶん新型コロナウィルス騒ぎがまだ勃発していなかった頃、金井久美子、美恵子姉妹のトークイベントが金井美恵子の体調不良だったかで金井久美子ひとりのトークショーになったということをネットか何かで目にしてちょっと気になっていたのだった(いまネットであらためて検索してみると、それは去年12月4日に東京堂書店で行なわれるはずの『武田百合子対談集』刊行記念のトークイベントだった)。その半年ほど前に加藤典洋が、年が明けて早々に坪内祐三が急逝し、つい最近長谷川郁夫が亡くなるなど不穏なことが立て続けに起っていたし、「文学界」の金井美恵子の連載(といっていいのかどうか、この項つづくといった感じでだらだらと続いていたエッセイ)も休載になるしで、金井さんは息災だろうかと時折りネットで「金井美恵子 病気」と検索してみたりしたのだけれどなにも情報を得られないまま時が過ぎていた。ところがこのたび突然「ちくま」6月号で「重箱のすみから」という金井さんの連載がはじまり、当然というか第1回目は昨年11月に身にふりかかった疾患と新型コロナウィルスの話に終始し、疾患のほうは3月まで通院してどうやら治癒されたらしく紋切型表現でいうところのほっと胸をなでおろすという次第にいたったのだった。

 連載は、

新型コロナウイルス感染症対策専門家会議副座長を務める尾身茂・地域医療機能推進機構理事長」と、その長い肩書きを念入りに、つい書いてみたくなる人物

と、じっさいに二度も長い肩書きを書いて見せたりするところが金井美恵子調の健在ぶりを示しおおいに笑わせてくれた。ついでに書いておくと「煽情的な経済小説の書き手である真山仁」が朝日新聞に書いた「脆弱な危機管理 さらけ出した安倍政権」というタイトルの「エンタメ小説調」の文章を引用してみせているのだけれど、金井美恵子はたとえば『ハゲタカ』のような(?)「煽情的な経済小説」をじっさいに読んだのだろうか。

 もうひとつついでに書いておくと、この「ちくま」6月号には、ちくま文庫で刊行がはじまった「現代マンガ選集」に関連した中条省平夏目房之助の対談が掲載されており、そこに「現代マンガ選集」全8巻の概要が罫線囲みで載っているのだけれど、ラインナップの7月刊行予定のあとに6月刊行予定がきたり(8月の誤植か)12月刊行予定が2冊だったり(1冊は11月だろう)と情報としての正確さに欠けるのはこれも新型コロナウィルスのせいだろうか。 

 ところで、前回のつづきというわけでもないけれど、ある書評家が『体温』を高く評価した文章を発表していて、それはそれで嬉しくおもったのだけれど、文中で多田尋子のことを「三十年近く前に筆を折った」と書いていて「あらあら」とおもった。多田さんがもしその記事を目にされていたら「ちょっと違うんだけどなあ」とおもわれたことだろう。最後の作品集『仮の約束』が講談社から出たのは1994年のことで、このたびの新刊『体温』とのあいだには25年の開きがあるにはあるけれど、『仮の約束』のあとも「三田文学」(95年)や「季刊文科」(96年、2000年)などに時折り短篇を発表されているし、「群像」(97年)にも短篇「躑躅」を発表されていて寡作ながらも作家活動は続けていられた。主要な発表舞台である「海燕」が96年に廃刊となったのが多田さんにとっては大きな痛手だったろう。編集者の督励によって作家は小説を書き続けられるのである。

 山田稔さんが「みすず」(2020年1・2月合併号)恒例の読書アンケートに『体温』をあげていられた。「六回も芥川賞候補になりながらその後文壇から消えた」と書かれている。「三田文学」や「季刊文科」などはいわゆる文芸誌とは呼ばない。つまり文壇の埒外なのである。つづけて、次のように評されていた。

「当時私はその作品を二、三読み好感をいだきながらも忘れていた。このたび読み返しいいなと思った。男性に心を寄せながらつねに距離をおき、そうすることで自由と孤独をもちつづけようとねがう中年女性の、つよく寂しい生き方を地味な文体でしずかに描く作風に、なつかしい文学の味を久しぶりにおぼえた。」

 ――なつかしい文学の味。

 それは当時、すなわち30年ほど昔であってさえ「なつかしさ」を感じさせるものだったろう。「新味なんて、じきに消えてなくなるものです」と三浦哲郎が書いている。文学の味は万古不易である。

多田尋子へのエール

 

 山田稔さんを囲むトークイベントを採録掲載した図書新聞が1月4日に発売された。1面から3面におよぶ長文なので立ち読みするのは骨である。興味のある方は御購入もしくは図書館などで御覧いただきたい。

「文藝」の編集者だった寺田博福武書店で「海燕」という文藝誌を創刊した。その話の流れで、やや寄り道をするといったていで、わたしは最近多田尋子の『体温』が復刊されて驚いたと述べた。それにたいして、山田さんは次のように応じられている。

多田尋子は当時、雑誌で読んだことがあります。最近、書店で復刊されたのをみてわたしも驚きました。久しぶりに名前を思い出しました。いい作品を書くけど、こういう地味な作風で芥川賞をもらうのは難しいだろうなと思ったことをおぼえています。

 わたしが多田尋子の話を持ちだし、福武書店講談社から3冊ずつ短篇集が出ている、と妙にくわしく言及したのにはわけがある。じつは、わたしはつい1年半ほど前に、たまたま多田尋子を「発見」したばかりだったのである。

 駒田信二編『老年文学傑作選』(ちくまライブラリー、90年)という本がある。ずっと以前、均一本で入手してそのままになっていたアンソロジーで、なにげなく手に取ってみたのが1年半ほど前。目次に並んでいるのは、林芙美子を筆頭に、木山捷平沢木耕太郎尾崎一雄藤枝静男八木義徳耕治人野口冨士男といったいわば定番の面々で、どの作家もわたしに馴染みの人たちだったが、なかに一人、名前は知っているものの作品を読んだことのない作家がいた。それが多田尋子で、収録されているのは「凪」(「海燕」1985年1月号掲載、『裔の子』所収)という作品だった。こんな内容である。

 瀬戸内海の小島に住む70歳をこえた「すぎの」は、納戸で寝たきりの90歳半ばの姑「カウ」の世話をして日々を過している。いまでいう老老介護を描いた作品で、閉ざされた世界での濃密な日常が広島弁のような方言による会話を交えながら坦々と描かれる。

 錚々たる作家たちに伍して多田尋子の作品が選ばれたのは、彼女が駒田信二の小説教室から出てきた作家であるという事情もあるだろうが、それを差し引いても「凪」は選ばれるにたる一種異様な傑作だった。一読感銘を受けた。読みながら今村昌平が監督した『神々の深き欲望』という映画をちょっと思い浮べたりもした。

 もう少し多田尋子の作品を読んでみたくなって、図書館で短篇集『仮の約束』を借り出した。わたしの住む地域の図書館に多田尋子の作品はこの1冊しかなかった。ほどなく『仮の約束』を読み終えたわたしは、インターネットを検索して『仮の約束』も含めてありったけの多田尋子の本を注文した。たちどころに6册の本が手元に集まった。これが多田尋子の全著作だった。みな古本だがいずれも本の状態はよく、しかも驚くほど廉価だった。

 講談社版『体温』の帯には、丸谷才一三浦哲郎の「芥川賞選評」が再録されている。丸谷才一はこう評している。

 多田尋子さんの「体温」に感心した。デッサンが確かでディテイルがいい。筋の運びに無理がないし、そのくせ筋に綾をつけるつけ方がうまい。何しろ地味な作風なので古風に見えるかもしれないが、古くさくはない。むしろ、静かでしかも知的な筆法によつて在来の日本文学をさりげなく批評してゐるとも言へよう。このおだやかで安定した態度は注目に価する。

 多田尋子の小説は6度芥川賞最終候補作になりついに受賞を逸したが、「体温」で5度目の候補になったのがもっとも芥川賞に近かったときで(1991年上期)、この落選はさぞ堪えたにちがいない。このとき多田尋子は59歳、選考委員の三浦哲郎、大庭みな子がともに60歳。同年輩のふたりはすでに一家をなした作家で、それに引替え自分は50歳を過ぎてデビューしたとはいえ、まだ作家としてスタート台に立ったばかりだ。あとどれぐらい書くことができるのだろう。同じく「海燕」でデビューした島田雅彦も6度芥川賞の候補になり、結局受賞することはなかったが、最後の落選の時点でまだ20代だった。多田尋子の落胆はいかばかりだったろう。

 芥川賞選者のなかで一貫して多田尋子を高く評価したのが三浦哲郎だった。「体温」の評も好意的で鄭重だ。

 多田尋子氏の「体温」に強く惹かれた。ここには、八年前に夫を失ってから孤閨を守りつづけている三十も半ばを過ぎた女と、十歳になるその娘との、おおむね平穏な日常が、簡潔で淡々とした、けれども、まさしく体温(2字傍点)のぬくもりを感じさせる気持のこもった文体で静かに写し出されている。小説の文体としてこれ以上オクターヴの低いものがあるとは思えないが、そんなささやきにも似た文体でありながら、読む者の耳に、胸に、実に自然に通って、登場人物の一人々々を鮮やかに書き分け、部屋を貸している女子学生たちとのやりとりを闊達に描写し、自分との再婚を望んでいる亡夫の元同僚の一人との情事も過不足なく描いて、人生を色濃く感じさせる。

「孤閨を守りつづけている」なんてところが時代を感じさせるが、これだけ褒めるならあげてほしかったなあ、芥川賞。もし受賞していれば、多田尋子の作家としての人生はもっと違ったものになっていただろう。「体温」は「群像」1991年6月号に掲載。単行本収録作でもっとも古いのが先にあげた85年の「凪」で、その後コンスタントにキャリアを積み、89年には3度目の芥川賞候補作「裔の子」を含む5作を発表。90年には4作、91年には3作(うち2作が芥川賞候補作)。つまり脂の乗り切った頃合いだったわけで、これで取らないでどうする(と、いっても詮ないことだけれど)。

 このたび27年ぶりに書肆汽水域から復刊された『体温』は、新たに編集されたもので、収録作は「体温」「秘密」「単身者たち」の3作。後者の2作はいずれも2冊の短篇集の表題作で、「単身者たち」は芥川賞の候補作。つまり選り抜きのアンソロジーというわけで、紅と濃藍を基調にした鮮やかなカバーとともに気迫を感じさせる復刊である(講談社版『体温』の収録作は「やさしい男」「焚火」「オンドルのある家」「体温」の4作)。この本で初めて多田尋子の作品にふれたという読者も多く、おおむね好評をもって迎えられているようだ。

 トークイベントが終了したあと、年輩の女性がわたしに近づいてきて「さっきお話になった『体温』という小説はどこで売っていますか」と尋ねられた。もちろん恵文社では平積みになっていたので、その旨お伝えした。話してよかったと思った。

 最後に、多田尋子への三浦哲郎のエールを引いておこう。

多田さん、新味がないなどという批判に動揺してはいけません。新味なんて、じきに消えてなくなるものです。あなたのこれまでの人生の消えない真実をためらわずにお書きなさい。それが本当の小説というものなのですから。

 多田尋子の作品については、いずれまた稿を改めて書いてみたい。

 

体温

体温

  • 作者:多田 尋子
  • 出版社/メーカー: 書肆汽水域
  • 発売日: 2019/10/25
  • メディア: 単行本