この世界の向う側で――唐十郎追悼
唐十郎は車椅子に乗った姿を映像で見ていたからそれほど驚きはなかったが、ポール・オースターは(肺がんだったらしいが)突然のことで驚いた。5月12日の朝日新聞に掲載された柴田元幸さんのオースター追悼文によれば未訳の作品がまだまだあるそうで、柴田さんの翻訳による刊行を心待ちにしたい。個人的にはスティーヴン・クレインの評伝(Burning Boy, 2021)を読みたいと思う。
朝日新聞の同日紙面の「日曜に想う」というコラム欄に、編集委員の吉田純子さんが「日常の隣の祝祭 唐さんの紅テント」という見出しで唐十郎について書いていた。吉田さんはわたしよりずいぶん若く、唐十郎の状況劇場が活動を始めたころはまだ生まれていなかったはずだが、唐十郎について書こうとすると妙に肩に力がはいってしまうらしいのがおかしい。たとえば――
唐さんにとっての演劇は、魂の自由を賭けた遊びであり、アングラは「個」を叫ぶ人々の連帯の狼煙(のろし)だった。紅テントは現実世界のパラレルワールドで、世の中の常識を疑う思考実験のための仮想空間だった。
あらら、「魂の自由を賭けた遊び」ねえ。「連帯の狼煙」ですか。あの時代(60年代後半~70年代)を同時代として生きた者には、政治ビラや立て看に角張った略字体で書かれていたようなこの手の言い回しは恥ずかしくてとうてい使えない。おそらく吉田さんが脳裡にイメージする「あの時代」とはこうしたものなのだろう。間違っているとはいわないけれども、いま書くならこのような大仰な書き方はしないだろう。紅テントのなかはたしかにパラレルワールドというべき異空間だったし、そこで演じられている芝居は常識などものともしないヴァーチャルリアリティに充ちたものだった。でもね。
唐さんが唱えた「特権的肉体論」は、ありのままの自分を生きる人々を「存在者」と呼んで応援した俳人、故金子兜太さんの哲学とどこか豊かに響き合う。
そうかもしれない。が、「特権的肉体論」にも金子兜太にも縁のないヒトにはなにひとつ伝わらない呪文のたぐいでしかないだろう。読者を選別する内輪向けの言語というべきで、少なくとも「特権的肉体論」とはどういうものかを説明しなければこの文は意味不明である。
「特権的肉体論」とは、唐十郎の、あるいは状況劇場のキャッチフレーズのようになっているが、必ずしもわかりやすい概念ではない。1968年に現代思潮社から刊行された『腰巻お仙』の冒頭に収録された10篇のエッセイを束ねる章題として使われていたものだ。同書の巻頭に置かれた「いま劇的とはなにか」というエッセイにこうある。
もし、特権的肉体などというものが存在するならば、その範疇における一単位の特権的病者に、中原中也は位を置く。
中原中也を指して特権的肉体というのではない。中原中也はかりそめに召喚されたにすぎない。唐十郎にとって特権的肉体とは集合的概念ではない。すなわち、共通する特質を有する複数の具体的存在の呼称として編み出されたものではない。そうではなく、「太初にことばありき」とでもいうように、まず特権的肉体というものが世界に降りてきたのである。そして、おもむろに「特権的肉体などというものが存在するならば」と唐の思念が駆動しはじめる。それが唐の迷宮のような演劇やエッセイをつらぬく棒のごときものなのである。
もし、この世に、特権的時間という刹那があるなら、特権的肉体という忘れ得ぬ刹那もまたあるにちがいない。
かつて文学が、血みどろの中で掘り当てたものが前者であるなら、演劇が、役者をつかって、奈落をくぐり抜けさせ、舞台に現前化させようとしたものこそ、その時代の特権的肉体というものではなかろうか?
(「石川淳へ」)
すなわち、演劇の前に、役者という唯一無二の肉体が存在する、それを特権的肉体と呼んでみるのである。
ちなみに、わたしが初めて状況劇場の芝居を見たのは1971年、『あれからのジョン・シルバー』だった。渋谷公園通りの駐車場に設営された紅テントのなかは、異形の役者たちが発するエネルギーで熱気に溢れていた。唐十郎を筆頭に、李礼仙、根津甚八、大久保鷹、不破万作、そして四谷シモン、麿赤児。物語の内容はしかとわからなかったが、意味不明なセリフを聞き取れないほどの早口で口角泡を飛ばしてまくし立て、舞台上を、そして地べたに坐った観客の間を縦横無尽に駆け回る役者たちの強烈なキャラクターに度肝を抜かれた。それはまさに特権的肉体と呼ぶしかない存在が奈落をくぐり抜けて出現した刹那だった。
舞台上ではない唐十郎には一度だけ会ったことがある。大学を出て書評新聞の編集者になったわたしは、学術書、文芸書の書評欄を経て最終面の芸術欄(映画、演劇、舞踏、美術などのレビュー)の担当になった。状況劇場の芝居を紙面に取り上げる際は事前に挨拶に行くことという前任者からの申し送りで、阿佐ヶ谷だったかにあった状況劇場の稽古場に一升瓶をさげて挨拶に行った。行ったことはたしかに覚えているけれど、それ以外はもはや記憶にない。
1978年に青山公園でテントを張った『河童』の公演であったと思う。劇評の執筆を依頼した赤瀬川原平さんといっしょに、地下鉄の乃木坂から歩いて行った。辺りは墓地が近くにあるひっそりとした場所だった。芝居はまったく記憶にないけれど、原平さんに書いてもらった劇評の冒頭の文句だけはいまでもよく覚えている。「梓みちよはずいぶん寂しいところでいい女と呼ばれているんだな」。
「乃木坂あたりでは、わたしはいい女なんだってね~」と梓みちよが歌う『メランコリー』がヒットしていた頃だった。
大切なことは、お客を、この世界の向う側へ放り出してしまうことです。
(「夢判断の手品」)
唐十郎は死んではいない。この世界の向う側で、まだ見ぬ新作を引っさげてわたしたちを待ち伏せしているにちがいない。あの不敵な笑みを片頰に浮べて。
オースターについては、いずれまた。
不器用に生きる娘の物語――成瀬巳喜男『めし』
成瀬巳喜男監督の映画『めし』をDVDで見た。久方ぶりで見直して新たに気づいたことがあったので、それについてすこし書いてみたいと思った。
映画は1951年公開で、映画のなかの設定もほぼ同じ頃だ。大阪の庶民的で質素な長屋に住む上原謙と原節子の夫婦(おそらく実年齢とそれほど隔たりのない三十代前半~後半の年恰好)の家庭がおもな舞台となる。専業主婦である三千代(原節子)は、単調なおさんどんの繰り返しの日々にいささか倦んでいる。家計をやりくりするのにカツカツの夫・初之輔(上原謙)の安月給や、食事のときもろくに会話もしないで新聞から目を離さぬ夫に、こんなはずではなかったと結婚生活に幻滅さえ覚えているようだ。
そんなある日、夫の姪の里子(島崎雪子)が東京から家出をして転がり込んでくる。潑溂とした姿態と無鉄砲で自己中心的な考えをもつ「アプレゲール」の二十歳の女性だ。屈託もなく叔父に甘える里子のコケティッシュな振舞いが三千代には目障りでならない。三人で大阪見物に出かける予定だったが、直前になってへそを曲げてわたしは行かないと言い出す始末。妻の苦労も知らないで、でれでれと鼻の下を伸ばしている夫への不満。かててくわえて、十歳も年下の里子の若さへの嫉妬もあるだろう。しかし、それ以上に里子によって直面させられた、里子のようには素直に夫に甘えられない不器用な三千代の性格、そこにこそ鬱屈のほんとうの原因があるのだが、それはこの映画の後半で明らかになるだろう。
片岡義男は『映画の中の昭和30年代』で1950年代に撮られた成瀬巳喜男の映画16本を論じた。『めし』もそのなかの1本で、シナリオと映画とを照合しながら詳細に論じた文章には教えられることが多かった。だが、「里子の造形は失敗している。彼女がなぜ登場しなければならないのか、少なくとも映画の画面を追っているかぎりでは、その必然性がまったく感じられない」とか、「竹中という男性の役割はなになのか、なぜ彼は登場するのかなど、里子の場合よりもさらにわかりにくい」といった断定にはいささか首をかしげた。
竹中(二本柳寛)は東京に住む原節子のいとこで、ふたりは一夕、料亭で食事をともにする。ふたりの間にかよう感情は幼なじみの親密なもので、お互いに淡い好意のようなものを寄せているのが伝わってくる。片岡義男が引用するシナリオによれば、竹中はかつて三千代に求愛していたらしいのだが、映画ではそれほどの因縁があったとは匂わせない。竹中は年長の親しい友として、いとこを気にかけているといったふうで、それゆえに物語のなかで彼の存在がいかに機能するかという点では曖昧だ、という片岡義男の指摘は一応納得できなくはない。
竹中がシナリオ(共同脚本/井手俊郎、田中澄江)のように料亭で性的な接触を迫り、三千代がそれを拒むといった場面があれば、片岡のいうように「三千代が感じて久しい不幸感は、何倍にも増幅されてより強く不幸感がつのることになる」だろう。だが、それは物語としてはわかりやすくなるかもしれないが、より生臭く通俗的になるのは避けられまい。成瀬巳喜男は物語の起伏に重点を置いたシナリオを、この映画が求めているものは「これではない」と、撮影するさいに改変したのだろう。里子についても、初之輔を誘惑する、もしくは、初之輔が里子に言い寄るといった場面があれば、夫婦の危機をより際立たせることになったかもしれない。しかし、成瀬はそうはしなかった。
ちなみに、この映画の美術監督である中古智によれば、成瀬はシナリオの台詞を大幅に消すことがよくあったそうだ。「たしかに消されて映画が生きてくるってことは多くありましたね」と中古は述懐している(中古智/蓮實重彦『成瀬巳喜男の設計』筑摩書房、1990年)。おそらくシナリオにあった里子と竹中の台詞を大幅に削り、ふたりの人物造形が変容したために、片岡義男のような感想を惹起したのかもしれない。
三千代は、里子を送りがてら上京する。それは、夫とのあいだにしばらく距離を置き、別居も辞さない覚悟を伴ったものであった。洋品店を営む妹夫婦と母の住む実家は、三千代にとって身も心も休まる場所だった。うちに着くなり昏々とねむり続ける姉を案じる妹(杉葉子)に、母(杉村春子)は微笑んでいう。「ねむいんだよ、女は」。娘がなぜ上京してきたのか、心のうちにどれほどの屈託を抱いているのか、語らずとも母には手に取るようにわかるのだ。
長逗留していっこうに大阪へ帰ろうとしない娘に母は笑いながらいう。「わたしが初之輔さんのお母さんだったら、あんな嫁のどこがいい? さっさと離縁してしまいなさい。そういうかもしれないよ」。三千代は、憮然として曖昧に笑みを浮かべるしかない。そこへ銭湯から妹が帰ってくる。その快活な様子を見た母は、目の前で畳に坐って所在なげに雑誌の頁を繰っている三千代に、繕い物をしながら視線を投げかける。かたくなで、張らずともよい我を張って自らを生きにくくしている娘。姉妹の対照的な性格が人生を左右しているのだ。その有り様に、いかんともしがたい諦念と表裏一体となった慈愛にみちたまなざしを送る、杉村春子のさりげない視線の演技がすばらしい。
外出していた三千代は、戻ってくると玄関土間に揃えられた夫の履き古した靴を目にして動揺し、踵を返して出て行ってしまう。心配する妹に「ほっておきよ。気を静めてから会いたいんだろ。そういう子なんだよ」という母。
あてもなくうちを飛び出した三千代は通りで風呂帰りの夫と出遭う。そのときの原節子の表情が絶妙だ。驚きとなつかしさ、愛しさとすまなさとが渾然一体となった表情を一瞬見せたかと思うと、顔をそむけて、すたすたと歩いてゆく。夫の胸に飛び込んでいけたならもっと生きやすいだろうに。つくづく可愛げのない女だ、との思いをおそらくは胸に抱きながら。
祭りの神輿が通り過ぎ、ふと立ち止まった三千代は夫に尋ねる。「いついらしたの?」「けさ」「まっすぐここへ?」「急に出張でね」。「出張?」と問いかける妻に「うん」と屈託なく応じる夫。「そう」と妻の顔から思わず笑みがこぼれる。嘘でもいいから「君を迎えに来たんだ」とでもいえばいいのに。そういえないのが夫なのだ。不器用なのは妻だけではない。
軽食堂でビールを飲むふたり。三千代の心がほぐれて、手紙を書いたのに出さなかった、と告白する。「どうして」という夫の問いには答えず「わたし、東京へ来て2500円も使っちゃった」と笑っていう。それが、三千代にとっての精一杯の甘えの表現なのだ。
ふたりはいっしょに汽車で大阪へ帰ってゆく。隣でねむる夫の横顔を見ている妻に、「夫とともに幸福を求めながら生きていくことが女の幸福なのかもしれない」といった意味の原節子のナレーションがかぶさる。おそらくシナリオ通りの台詞なのだろうが、起伏を抑えた物語にこの凡庸なモノローグはいかにも不似合いだ。それよりも、脚本家にも監督にもその意図はないのだろうが、「ねむいんだよ、女は」という杉村春子の台詞に、家父長制社会への静かな異議申し立てのひびきを聞いたように思った。
『魂のまなざし』――音と映像のマスターピース
ヘレン・シャルフベック。フィンランドを代表する画家だという。この画家の存在を映画で初めて知った。邦題の『魂のまなざし』は、2015~16年に開催された展覧会「ヘレン・シャルフベック――魂のまなざし」を踏襲したもの(原題はシンプルにHELENE)。
映画は、ヘレン・シャルフベックの50代から60代の8年間の日々を事実に即して描いた伝記映画だ。中年を過ぎて画家として脚光を浴びるヘレン、画家志望の年下の青年との実らぬ愛、女友だちとの友情、母親との確執。それらが坦々と描かれる。監督はアンティ・J・ヨネキン。2020年のフィンランド/エストニア映画で、日本公開は2022年の7月。Bunkamuraル・シネマを皮切りに順次全国公開された(わたしが見たのは先月の10月25日にWOWOWで配信されたもの。細部を確めながら録画を繰り返し見た)。
フィンランドの田舎の質素な一軒家で、年老いた母とふたりでひっそりと暮らすヘレン。好きな絵を描いているが、もう若くはない。そこへ突然、画商が青年をつれて訪れる。青年は森林保護官で画家志望のエイナル・ロイター。ヘレンの絵のファンで何点か所持しているという。画商と青年は、部屋の隅で埃をかぶっていたキャンバスを引っ張り出し、すべて買い取るという。ヘレンは世間から忘れられた画家だった。「あなたには類まれな才能がある。きっと世に知らしめてみせる」。
なんといっても音と映像が素晴らしく、近年見た映画のなかでは突出していた。
画面に流れる音楽と効果音――。
鳥の鳴き声。木の床を歩く靴の音。キャンバスの絵の具をナイフで削る音。珈琲カップを受け皿に置く擦過音。揺り椅子に坐って編み物をする母親のぎいぎいと鳴る椅子の音。雑誌の頁をめくるかすかな音さえ聞こえてくる。
そして、抑制された色調の画面。自然光と照明のみごとなバランス。完璧なコンポジション。すべてのショットが計算され尽した美しいシークェンス(画面の連鎖)。ヘレンの顔にフラットな照明が当てられることはなく、窓側と逆の片頰につねに陰翳がほどこされる。部屋に射し込む陽の光も風にゆれる木の葉によってわずかにちらちらと揺らいでいる。人工照明がまるで自然光を思わせる。画面の繊細な表情。だれの映画にいちばん近いかと考えると、タルコフスキーの名前が思い浮かぶ。
ヘレンが室内でひとり佇むショットは、フェルメールやハンマースホイの絵画を想起させる。古典的均整とでも評したくなる端正で深みのある画面。
バッハのアダージョ(協奏曲ニ短調BWV.974)の哀愁に充ちた旋律が二度流れる。これは、ゴールドベルク変奏曲(BWV988アリア)とともに、わたしのもっとも好きなバッハの曲だ(ほかに、モーツァルトやドビュッシー、ヴィヴァルディ、エリック・サティなども流れる)。
一度目は映画の序盤、年下の青年エイナルが別荘でいっしょに絵を描かないかとヘレンを誘い、車で遠出をする場面。海辺の小さな町タンミサーリで、ひとときを過ごすふたり。かよいあう親密な感情。海辺にひとり佇むヘレンの後ろ姿をとらえたミディアムショットは、陽炎のようにおぼろげにゆらめいて夢幻的だ。
エイナルとならんでキャンバスに向かうヘレン。海でひと泳ぎして上がってきた裸のエイナルにヘレンはいう。
「あなたを描きたい、船乗りのようなあなたを」
二度目は映画の中ほど、病床のヘレンを見舞いに来た女友だちのヴェスターが枕元で詩を読み聞かせる場面に流れる。フィンランドの詩人エイノ・レイノの「自由の書」をヴェスターが朗読する。
「若い僕の国 若い僕自身 暁が両者に訪れた 山あいに昇る日を見る……」
ヘレンは目をとじて回想する。ヴェスターの声は遠のき、ヘレンは回想に没頭する。タンミサーリでエイナルと過ごした日々――。エイナルとの仲がいまだ破局に至らなかった幸せなひとときの思い出。
キャンバスに向っているヘレンにエイナルが問う。
「何を見てる?」
「海よ」
「あなたの本が書きたい」とエイナルがいう。ヘレンはそれには条件があると応える。
「あなたを描かせて」
病室のベッドの上でひとり紙に鉛筆でデッサンをしているヘレン。窓ガラスの外で雪が舞い散り、戸外の電燈が風に揺れてちらちらとした灯が病室のヘレンを間歇的に照らしだす。薄暗い部屋のなかで真っ白な部屋着とシーツが――それだけが青白く浮かび上がる。
紙をこする鉛筆のかさかさいう音。そしてピアノが奏でるアダージョ。たとえようもなく美しいシークエンスだ。
ベッドから転げ落ちたヘレンをローアングルでとらえた場面。ヘレンの横に、床に転がったコップが窓からの光を浴びて白く輝いている。おそらくコップにピンポイントで照明を当てるか、コップの中に光源があるのだろう。ミルクの入ったコップに豆電球を仕込んで白く輝かせた『断崖』のヒッチコックを思い出す。
めずらしい映像を見た。部屋でデッサンをしているヘレンをとらえたミディアムクローズアップ。被写界深度が浅く、顔の表情はぼやけている。ヘレンが前に向って体を少し乗り出すと、焦点が合って表情がくっきりとする。カメラのピント送りではなく、被写体が焦点を合わせるのだ。あまり見たことのないショットなので、おおっと思った。
全篇を通して、ヘレンを演じたラウラ・ビルンの意志的なまなざし(「魂のまなざし」というにふさわしい)、凛とした美しい表情に魅了された。
ラスト、タイトルロールの前にヘレンの絵がいくつも映し出される。心にくい演出だ。彼女の絵をもっと見たいと思いネットで検索すると、展覧会カタログがさいわいまだ入手可能だったので取り寄せた。求龍堂から刊行された大判の本は、図録を兼ねているため書籍としては飛び切り安価だ。カバーや「映画公開」を謳った帯は、書店での販売のためにあとで附けたものだろう。
帯に志村ふくみのことばが引用されている。「すべてが好きだ。自画像も、静物も、風景も、人物も。」(『母なる色』求龍堂、1999年所収の「ヘレン・シェルフベック」より)。志村は、ヨーロッパを旅行した際、ヘルシンキのアテネ美術館で未知の画家ヘレン・シェルフベック(と表記されている)の絵と出遭う。それは、出会い頭の運命的なできごとだった。
どんな人なのか、世評もしらない、生い立ちもしらない。まるで謎のような人だ。知らないのがいい、この画集だけをたよりに私はこの人に出会おう、文章も読めないからただこの人の絵だけがたよりだ。
志村ふくみは、美術館で入手したヘレンの画集を京都に持ち帰り、「何べんも何べんも」繰り返し飽かず眺めた。「見れば見るほど魅きつけられ」た。とりわけ自画像に、老年をむかえた自身の内面をかさねて没入した。画集には自画像が24点あった。「もし自画像がこれほどなければ、私はこの画家にこんなに魅かれたとは思えない」。
自画像は「彼女の内面に入ってゆく扉である」と志村はいう。
魂の光の射す地下室へその黒い扉をあけて入ってゆく気がする。それはある時、怖気のふるうほど人間の酷薄な、おぞましい世界を垣間みせる。
ヘレンの内面を手探りで探索する志村の熱を帯びた文章は、ひとりの女性の内面の奥底にまでよく届いているように思われる。
ふたりの芸術家の時と所を超えたcorrespondance。
おそらく、ヘレンにとって自画像を描くことは、自己の内面をexploreすることだった。そして、エイナルに対する「あなたを描きたい」という申し出は、「あなたのことをもっと知りたい」ということだ。志村ふくみはヘレンの自画像を見てそれを直感したにちがいない。
キャンバスをあたかも「自傷行為」のように引っ搔いた異様な『未完成の自画像』について、ヘレンは破局後のエイナルに手紙でこう記している。
「私の冬を静かに埋めてくれるだろう何かを――そう、私は鏡のなかにそれを見つけたのです。きっと私の最も美しい自画像になるでしょう――でもあなたは信じないわね」「おそらく、芸術家は自分の中に入り込むことしかできない。私はそう思う。そう、固くて氷のような、ただの私の中に入っていくこと。――私はこれらの絵がひどく痛ましくなってきたので、投げ捨てました」「私の肖像画は、死んだような表情になるでしょう。こうして画家というのは魂を暴くのかしら、仕方がないわね。私は、もっと恐ろしく、もっと強い表現を探し求めているのです」
(佐藤直樹、図録『ヘレン・シャルフベック――魂のまなざし』より)
ちなみに、この映画の繊細なテクスチュア、フェミニストふうの立ち位置から、監督は女性かと思っていたが、ネットのインタビュー記事を見ると1968年生れの男性だった*1。この映画とヘレン・シャルフベックの生涯については、サイトTOKYO ART BEATに掲載された野中モモさんのレビューが手際よく書かれている*2。参考にさせていただいた。
今月(11月)もWOWOWで放映されるようなので、機会があれば見てください。
さようなら、柳澤愼一さん
三谷幸喜が朝日新聞の連載コラム「ありふれた生活」(7月20日夕刊)で、彼が監督した『ザ・マジックアワー』が、昨年、中国でリメイクされて大ヒットしたと書いていた。日本円にして530億以上の興収で、これは中国映画全体の年間第3位の興収だという。日本では約40億円だったというから10数倍になる。ま、桁が違いますからね、人民の。中国版『ザ・マジックアワー』は『トゥ・クール・トゥ・キル――殺せない殺し屋』というタイトルでこのたび日本でも公開(7月8日~)されたというから、機会があれば見比べてみたいと思う。
この映画『ザ・マジックアワー』に、往年の映画スター役で出演した柳澤愼一さんが亡くなられた。先月28日、去年の3月24日に亡くなったと日本歌手協会から発表された。死因は「骨髄異形成症候群」だという。死後15ヶ月経ってからの発表は、おそらく御本人の遺志なのだろう。柳澤さんらしい、と思う(血液のがんなので余命は御存知だったろう)。追悼記事は目にしなかった。一世を風靡した(といっていいだろう*1)エンターテイナーを遇するすべをこの国のジャーナリズムは知らない。三谷幸喜の連載コラムにも名前は出てこなかった(和田誠さんの題字・カットなのに)。
柳澤さんには著書が1冊ある。『明治・大正スクラッチノイズ』という。この本については以前ここで書いたことがある。単行本・文庫版とあり、いずれもわたしが編集を担当した。
編集作業はたのしかった。元版のときは、すでに出来上がった原稿をそのまま本にするだけで、あっけなく終わってしまった。お会いしたのも両三度ぐらいだったろうか。自費出版だったので、書店に並ぶこともなくあまり評判にもならなかったと思う(ある大新聞の記者から聞いたことだが、自費出版の本は書評欄では取り上げないという内規があるそうだ)。その後、別の出版社に入り、文庫のレーベルを立ち上げたとき、この本を埋もれさせておくのはもったいないと思い文庫化を企てた。
オッペケペー節からセントルイス・ブルース、立小便禁止令から歌舞伎の歴史まで、明治~大正の社会・風俗・政治・教育・文化そして大衆芸能の出来事を、ヒット曲にのせて縦横無尽に語り倒したジャズ講談。
一冊に百冊分の情報が詰まっていると永六輔氏も吃驚仰天。西郷隆盛からフレッド・アステア、エノケン、キートン、サッチモと、登場人物は無慮数千人。語るはジャズ歌手、声優、俳優にして、稀代の雑学王・柳澤愼一!
これは文庫版の裏表紙にわたしが書いた内容紹介。永六輔さんには解説代わりの前書き「愉しい《ひとりジャムセッション》」を書いてもらった。もう文章を書くのも覚束なくなられており、談話をわたしが文字に起こした。かつての立て板に水の弁舌は跡形もなく、口から先に生まれてきたようなあの永さんが、と思うと寂しかった。永さんは、柳澤さんの「文体と洒落ッ気」は江戸末期から明治にかけての戯作者、鶯亭金升、平山蘆江、さらに野坂昭如、井上ひさしらの系譜に連なると喝破されて、わが意を得たりの思いがした。
柳澤さんも文庫化には気合が入っている様子で、このときとばかり加筆に次ぐ加筆で、元版よりおそらく2割ぐらいは増量されているはずだ。元版・文庫版ともに、古書でよければいまでも手に入るが(元版は新品がまだ入手できるようだ)、文庫版のほうが断然お得。「定本」と銘打っておけばよかった。
大正8年(1919)の項で、明治の演歌師・添田唖蝉坊の息子の添田さつき(知道)が『東京節』を作詩、『ジョージア・マーチ』のメロディを借用してレコードに吹き込んだら大ヒットしたとあり、歌詞が引用されていた。柳澤さんとゲラをやり取りする際に、『東京節』をネットか何かでしらべて歌詞の異同を鉛筆書きで質したら、ゲラに以下のような書き込みがされて戻ってきた。
一九五九年NHKの海外放送(現国際放送)で筆者が「懐かしのメロディ」を担当しておりました際、歌詞の流れにギクシャクしたところを修整しましたところ、原作者が快く御容認下さってますので、改変した歌詞を載せます。――又『東京節』に限らず、この読み物に登場する曲名や歌詞に、他の年表や資料と異なる箇処があるやも知れませんが、タイトルは「通り名」、歌詞も原作者・演者と面談の上、ご諒承戴いたものを載せさせていただきました。
わたしはこの文面に畏れ入って、以降、ゲラへの「さかしら」な疑問出しは慎むようにした。ちなみに『東京節』とは「♪ラメちゃんたらギッチョンチョンでパイのパイのパイ パリコとパナナでフライフライフライ」と意味不明な歌詞が軽快なメロディにのせて歌われる楽しい歌で、わたしなどは小学生のころ、森山加代子の「パイのパイのパイ」でおぼえて、登下校の際に大声でがなっていたものだ。
ひとつ、柳澤さんから聞いた話を書きとめておこう。芸能史にはたぶんいまだ書かれざる秘話だろう。大正13年(1924)の項で「気の進まない儘吹き込んでビッグ・ヒットしてしまった例」として昭和歌謡が挙げられる。
岡晴夫が巡業先から戻れないので『お富さん』を代りに吹き込んだ春日八郎、トラックの運転手より稼ぎがいいョとジャズから無理矢理ムード歌謡に転向させられた『有楽町で逢いましょう』のフランク永井、流行歌は無理かもと尻込みしたが結局『南国土佐をあとにして』を吹き込んだところ素晴らしい表現力と見事な売れ行きで名誉県民の栄に浴したペギー葉山、「小節がくにゃくにゃ廻ってジャズ歌手の俺には無理だ」と突っぱねたけど吹き込んだ『人生の並木道』が終生の持ち歌になったディック・ミネなどなど。
この『有楽町で逢いましょう』、じつは最初にオファーがきたのは柳澤さんへだったそうで、柳澤さんが断ると次は旗照夫(柳澤さんと同年代のジャズシンガー)に行き、こちらも断られて、お鉢が回ってきたのがフランク永井だったという。そんなこともあるんですね。人生の岐路というわけだ。ウィキペディアには「企画当初は三浦洸一が歌唱する予定であったが、作曲者・吉田正の強い推薦によってフランク永井がレコーディングすることとなった」と書かれている。伝説とはそういうものだ。
あるとき、「スクラッチノイズ」の続編、「スクラッチノイズ 昭和残響伝」をお書きになるつもりはありませんか、と聞いたことがある。柳澤さんはにやっと笑って「じつは原稿はもう出来上がってるんです」と宣うた。「じゃあそれ出版しましょうよ」というわたしに、「まだ生きてる方がいらっしゃるので、ちょっと差し障りがあって」とおっしゃった。それ以上、口を挟ませないといったきっぱりとした口調だった。昭和芸能史の生き字引のような方だから、「明治・大正」篇にまして飛び切り面白い内容だったろうと思う。
2011年、「昭和篇は没にしたけれど、10年にも及ぶお誘い、一生忘れる事は出来ません」というお手紙とともに、「形見分け」を会社に持ってこられた。エノケンの色紙、志村立美が色紙に描いた絵(残念ながら美人画ではなかった)、山野一郎の「活動から映画へ」というガリ版刷の台本数冊、NHKFM『青春アドベンチャー』(柳澤さんの語り)のエアチェック・カセットテープ、アル・(お楽しみはこれからだ!)・ジョルソンの輸入盤3枚組CD等々が手提げ袋いっぱいに詰め込まれていた。
おそろしく筆まめな方で、文庫刊行後も何通もお手紙を頂戴した。数十通はあるかと思う。浅草のパブで定期的に行なわれていた柳澤愼一とスイング・オールスターズのライブは見に行けなかったけれど、舞台で歌われるのは何度か見たことがある。ふだんは杖をついて歩かれていたが、背をしゃきっと伸ばして壇上に立たれた姿にはスターのオーラが漂っていた。さすが、と感嘆した。
永さんは柳澤さんの人となりについて「人に迷惑をかけるのが何よりもいやで、こんなに気をつかう人っていません」と語っている。たしかにこの人の「腰の低さ」は折り紙付きで、他人への気遣いは尋常ではなかった。壁の中に消え入らんばかりにシャイで、そのくせ自己顕示欲もそれなりにあって、そのアマルガム(融合)が独特のキャラクターを形作っていた。永さんは「長い付き合いだけど一緒に食事をしたこともないんだから」というけれど、一度、「蕎麦でもたぐりに行きましょう」と、会社の近くにあった神田やぶそばで、お昼を御馳走になったことがあった。会社の営業部の面々といっしょに近くの焼き鳥屋で御馳走になったこともあったな。
訃報を知っていろいろ思い出すと、懐かしさで胸がいっぱいになる。もう一度会いたかったな、と思う。
水道を止めた男――河林満『渇水』を読む
4、5日前の朝刊に懐かしい名前を見つけておっと思った。角川文庫の全5段新刊広告で、河林満の『渇水』が発売されるという。映画化原作をキャッチフレーズに、内容紹介のかわりに映画のスタッフ・キャスト、公開日などが記されていた。河林満の名前と『渇水』という書名は記憶にあった。単行本のたたずまいもおぼろげながら思い浮かべられそうで、あるいはかつて所有していたのかもしれない。ただ、読んだ記憶はなかった。
その日、出かけたついでに近くの書店に立ち寄り購入した。160頁の薄い文庫本で、帯に朱色で映画化原作と大きく書かれ、主演の生田斗真の横顔のスティル写真が添えられている。表題作のほかに2作収録されており、単行本にあったもう1作は削除されていた。
一般に、電気ガス水道の料金を滞納した場合、水道が最後に停止されると言われている。停止執行までの猶予時間の長さは、水を止めることが直接、命にかかわるという判断からだろう。
と巻末の解説に佐久間文子さんが書いている。なるほど。「それでも水が止められることはある。何度促しても未納分を支払わない場合は執行される」。水道料金を滞納している家を訪問し、水道栓を止める仕事をしている男が「渇水」の主人公である。
著者は高校を卒業後、市の水道局に勤め、停水執行の仕事にも携わったという。それだけに、止水栓にも新旧の違いがあり、古い建物に取りつけられた旧式の止水栓の場合は停水にもそれなりのコツがいるといったディテールや、停止に行った家の住人から投げつけられる罵声などにもリアリティが感じられる。だが、河林満はその経験をもとに小説をこしらえてみようと思ったのではなく、マルグリット・デュラスのエッセイで「水道を止めた男」の話をたまたま読んだのがきっかけであったという(文庫解説)。これはわたしの推測だが、河林は自分の経験が小説になるとは思いもしなかったのではないだろうか。他愛のない経験を他人に話すと妙に面白がられて、それを機に自分でもその面白さを初めて認識するといったことは誰にでもあることだ。河林はデュラスのエッセイにインスパイアされて、これをテーマに書いてみようと思ったのだろう。「渇水」の悲劇的な結末は河林の実際の経験ではなく、デュラス由来のものにちがいない(芥川賞選考委員の河野多恵子は、選評でこの結末に否定的な意見を述べている。アイデアが「借り物」であることを微妙に嗅ぎ取ったのかもしれない)。
河林は「水道を止めた男」の話を、止められる側の視点から「ある執行」という作品に仕上げて同人誌に発表し、自治労文芸賞を受賞した。翌年、それを執行する男を主人公にして改稿し「文學界」新人賞を受賞、同年(1990年)の芥川賞候補に挙げられた。「文學界」新人賞は選考委員の満場一致で決まったという。たしかに「渇水」は、内容は地味ながら力のある作品である。文庫本に同時収録された習作とおぼしい「千年の通夜」や、「渇水」の4年前に同人誌に発表して吉野せい賞奨励賞を受賞した「海辺のひかり」などと比べても文章の精度は格段に上がっている。たとえば、寝ている主人公(岩切)を妻がゆり起こすという場面。
背の高いわりにはふっくらとしたやわらかい妻の掌の感触は、はじめてさわったときから岩切が惚れていたものではなかったか。目覚めるまぎわのその感触を独り寝の床で岩切は期待していた。深酒をした翌朝など、自分がまるで盲人で、掌でしか妻を知らないもののような、不意の人なつかしさに陥ることもあった。
といった描写のやわらかな官能性。あるいは、主人公が水道料金の滞納家庭を車で訪ねに行く個所。
信号でとまった。五本の交差点ほどさきまで、いっせいに信号の赤がともっている。すぼまっていく道路のむこうに、山並みがみえた。冬なら雪を被った富士山がのぞめる。信号が青にかわる。
どうということのない場面で、かりに削除しても話に支障はない。だが、ここはシーンとシーンの転轍機の役目をする重要なポイントで、美しいロングショットである。
「渇水」の3年後、「文學界」に発表した「穀雨」で再度、芥川賞候補となる。芥川賞選考委員の大庭みな子はこの作品をこう評している。
古風なようだが、あっという間に古びる新しそうに見える風俗に彩られた作品群の中ではむしろみずみずしく、命の手ざわりがある。
残念ながら受賞は逸したが、大庭みな子の評は幾度も芥川賞の候補に挙げられながらついに受賞することのなかった多田尋子を思い出させる。ちなみに「渇水」は、1990年上半期・第103回芥川賞候補作だが、1988年下半期・第100回から3回続けて候補になり落とされたのが多田尋子である。
河林満は2度芥川賞候補となり、受賞することなく2008年に亡くなった。享年57。生前の著書は『渇水』1冊のみだが、2021年に文芸評論家・川村湊の編で『黒い水/穀雨 河林満作品集』がインパクト出版会から刊行された。『渇水』収録作品を除く小説20作を納めた全集に準ずる作品集である。A5判530頁余の大冊でやや値は張るが、単行本2~3冊に相当するのでむしろ安いぐらいだ。
佐久間文子さんは文庫版の解説で、こう書いている。
「古風」と言われた河林の小説をいま読むと、今日的なテーマだと感じられることにおどろく。貧困が社会問題化し、見過ごせない段階まで来ていることも大きい。
時代が小説にようやく追いついたということか。いや、こうした問題はいつの時代にも潜在的にはあることで「多くの人にはそれが見えなかった」だけだろう。それを声高でなく静謐な筆致で描いたこの作品の意義は大きい。
河林満はわたしより2か月ほど年長の同学年だ。これを機に多くの人に読み継がれてほしいと願う。
雪月花不思議の国に道通ず
北村薫さんの『雪月花 謎解き私小説』が文庫になった。単行本が出版されたのが2020年8月だから、2年半後の文庫化ということになる。ちょうどいい頃合いだが、もうそんなに経ったのかというのが実感。単行本は読んだあと三島由紀夫に縁の深い方に差し上げたのでいまは手元にない。文庫版で読み返して驚いた。ほとんど内容を憶えていなかったからだ。初読といっていいほど。ワタシハイッタイナニヲヨンデイタノダロウ。
再読して感銘を新たにしたので、なにか感想を書いてみたいと思ったが、これがなかなか難しい。副題に「謎解き私小説」とあるように、「謎」を探索するプロセスをエッセイ仕立てにした小説なのだから、「答え」をバラすわけにはゆかない。文庫版の解説で池澤夏樹さんは「オチ」をバラしてしまっているけれど、これは反則ですね(まだ読んでいない人は、解説は後回しにしたほうがいいと思う)。
三島由紀夫にかかわる「ゆき」という一篇のラスト、
――今、これを読むのか。
という不思議さにうたれた。こう書かれていた。
とあって、次の最後の一行をバラしてしまったのだから、罪深い。殺人事件の「犯人」の名前を書いてしまったようなものだ。
高屋窓秋に「雪月花不思議の国に道通ず」という句があるけれど、思わぬ巡り合いの不可思議、その感動を読者に共有してほしいとの願いが最後の一行に込められているのである。
本書には「よむ」「つき」「ゆめ」「ゆき」「ことば」「はな」の6篇が収められていて、長短さまざまだが、「ゆき」はやや長めの一篇。冒頭の「よむ」は、名探偵ホームズの相棒ジョン・H・ワトソンのミドルネーム「H」はなにの略か(ウィキペディアに出ている)というマクラから始まって、「読みの創造性が作品を深める(とくに短詩形文学において)」と、『去来抄』の去来の句「岩はなやここにもひとり月の客」への先師芭蕉のコメントを引き、さらに芭蕉に異を唱えた子規を召喚してみせる。この子規の芭蕉批判の文章は山本健吉の『古典詞華集一』(小学館)からの孫引きだが、この『古典詞華集』はなかなかの優れモノで、わたしも重宝している。「完訳 日本の古典」という全60巻シリーズの別巻で2分冊になっているものだ。
ここでのメインの探索は、萩原朔太郎の『月に吠える』のなかの「天景」という有名な詩で、「しづかにきしれ四輪馬車」という文が三度繰り返される。この「四輪馬車」をどう読むかがテーマである。七音五音の組合せが繰り返される音数律の短詩なので、「よんりんばしゃ」という読みはない。残るは「よりん」か「しりん」か。
新潮社が出しているCDは「しりんばしゃ」と読んでいるという。だが、北村さんの所有する朗読CDでは、岸田今日子も谷川俊太郎も「よりんばしゃ」だという。この探索のプロセスが読みどころなのでこれ以上は書かないが、北村説は「よりん」である。大岡信は『折々のうた』でこの詩を掲出し、「しりんばしゃ」とルビを振っているという。中高生の現国でこういう問題を取り上げれば、きっと面白い授業になっただろうと思う。かつて高校の国語の先生だった北村さんらしい話の運びだ。
さて、では萩原朔太郎自身はどう読んでいたか。どう読まそうとしていたのか。
朔太郎に「詩の音楽作曲について」という詩論がある。それによれば、朔太郎の詩に作曲したものが「現代詩の夕べ」というラジオ番組で放送された。なかに「天景」があり、朔太郎はそれを聴いて「僕の詩を逆の正反対に表現したやうな作曲だつた」と感じたという。
(「天景」という)僕の詩は、初夏の明るい光に輝いた自然を、軽快な四輪馬車の幻想に表象して、一種の浪漫的なノスタルヂアを歌つたもので、徹底的に明朗爽快の詩であるのに、その音楽に作曲されたものは、何かひどく陰気で物悲しく、甚だ暗いセンチメンタルの感じがした。
と感想を述べている。残念ながら、四輪馬車の読みかたについては触れていない。もし、朔太郎自身の考えとは違う読み方をしていたら一言あっただろうから、きっと同じ読みだったのだろう。それがなにかはわからないが、文学作品は作者の考える読みが「正解」というものでもない。「よりんばしゃ」であろうが「しりんばしゃ」であろうが、北村さんが書いているように「文字という対象が、読み手の中に入って音になる。それが、人によって違うところに、読みの創造性もあり、面白さもある」のだから。
もう一篇、「はな」について、かんたんに触れておこう。
中村真一郎の本で、一番最初に買ったのは――多くの人がそうだろうが――角川文庫の『芥川龍之介の世界』だ。まだ、文庫本にパラフィン紙のカバーがかかっていた、半世紀も前の話である。
と北村さんは書いていらっしゃる。パラフィン紙のカバーがかかった文庫本は、いまでもわたしの手元にある。多くの人が中村真一郎の本で最初に買うのが『芥川龍之介の世界』だというのはちょっと首を傾げるが、中学生の頃に芥川の小説に関心を持った少年少女が、さらに芥川を論じた本に手を伸ばす、といった想定だろうか。北村さんのような利発な少年だったらそうかもしれないけれど。
わたしが最初に手にした中村真一郎の本はなんだったろう。小説でないことはたしかだが、おそらく『現代小説の世界――西欧20世紀の方法』だったかと思う。講談社現代新書の1冊で、調べると1969年刊とあるから、高校を卒業した頃か大学に入った頃に読んだのだろう。もう手元にはないけれどこれは繰り返し読んだ本で、フォークナーの『野生の棕櫚』だとかハクスリーの『恋愛対位法』だとか、この本で知った文庫本がいまも家のどこかにあるはずだ。
「中村の『俳句のたのしみ』は、新潮文庫に入った時に読んだ」と北村さんは書かれている。わたしも新潮文庫で読んだくちで、奥付には平成八年発行とある。奥書に「この作品は平成二年十一月新潮社より刊行された『俳句のたのしみ』と私家版『樹上豚句抄』(平成五年十二月)を再編集したものです」と記されている。元版より6年後の文庫化ということになる。当時はそんなものだったか。
さて、その『俳句のたのしみ』に上田無腸(秋成)の句が取り上げられている。
「かき書の詩人西せり東風(こち)吹て」
これは「おかしい」と北村さんはいう。「かき書の詩人」では意味をなさない。「かき書の詩人」とは蕪村のことで、無腸が詞書で蕪村を「和風漢詩」を作る人だと書いている。ならばここは「かな書の詩人」でなければならない、と北村さんはいう。仰せの通り。「西せり」は西方浄土へ行く、つまり死ぬということ。
《かな書の詩人西せり》、即ち、《漢詩を俳句の形に作り変えた蕪村が亡くなった》――ということであり、他に考えようがないのではないか。
そこで、『俳句のたのしみ』の単行本を確かめると、すでに「かき書」となっている。然らば、と中村が読んだ有朋堂文庫の『名家俳句集』の「無腸句集」にあたると、中村が引用している通りの表記である。「出典はこれだった。(略)活字化する際の誤りとしか思えない」。我発見セリ! の心躍りが伝わってくる。
編集の方がこの《かき書》についての疑問を中村先生にお伝えしたところ、感謝された、と聞いた。(略)太陽に向かって、片言を申し上げた思いであった。
と北村さんは書いている。『名家俳句集』が刊行されてからおよそ90年後に、ようやくこの「誤植」が指摘されたわけである。
ちなみにこの『名家俳句集』、わたしも所持している。かつて古書展で求めたものだ。北村さんは昭和二年の本と書かれているが、わたしのは昭和五年の奥付。よく売れて改版したのだろう。背に「名家俳句集 全」と金箔押しのある袖珍本で、なかの「無腸句集」のある句に付箋が貼ってある。もちろんわたしが気に入って貼ったものだ。
さくらさくら散て佳人の夢に入る
その次の頁にあるのが「かき書の詩人西せり東風吹て」である。
あらためて、文庫版の『俳句のたのしみ』を見てみると、見開きの右頁に「さくらさくら」、左頁に「かき書の詩人」の句が掲出されている。中村真一郎が『名家俳句集』を使って『俳句のたのしみ』をものしたのだから、なんの不思議もないけれど、わたしのなかでこの2冊が『雪月花』の文庫版を媒介に、いま、ここで出遭ったのは不思議な思いがする。まことに「雪月花不思議の国に道通ず」というしかない。
中村真一郎は「さくらさくら散て佳人の夢に入る」について、こう評している。
広瀬惟然坊あたりが試みはじめて、芭蕉の周辺の連中によって抑圧されてしまった、無邪気で童謡のような自然な口調の復活である。しかし、「さくらさくら」と繰り返したところに、風に吹かれて次々と散って行く花びらの風情が、映画でも見るように視覚的に感じられるのは、偶然か、作者の工夫か。いずれにせよ、当時の基準からすれば、素人の句作だろう。
「素人の句」か。でも、いいよねえ、この春風駘蕩とした感じは。
水の中で水が沈む――『水』そして『いのち』
北村薫さんの新しい作品集が出ました。タイトルは『水』、サブタイトルは「本の小説」です(新潮社)。前作『雪月花――謎解き私小説』(同)と同じく、本や作家をめぐるエッセイ風の小説です。今回の趣向は、一冊の本が別の本につながり、ある作家が別の作家とつながる。もちろん、北村さんのことですから、話題は本の世界にとどまらず、映画、歌舞伎、落語、漫談……と「謎」を縦糸に縦横無尽に話がつながっていきます(この本の文体を模して、今回は敬体で書くことにします)。
読み進めていると、チェーホフの『かもめ』が出てきました。このブログで『かもめ』について書いたばかりだったので、北村さんの本とこのブログが細い糸でつながっているかのようで思わず頰が緩みました。
田端文士村記念館で催される河童忌の企画展に、「現代作家が選ぶ芥川龍之介のことば」というアンケートを求められた北村さんは、「風呂に入るのは簡単なのに、それを文章で生き生きと書くのは難しい」という芥川の言葉を思いだします(「湯」)。中学生の時になにかで読んだ文章の一節で、『六の宮の姫君』にも引用したのだけれど、さてその出典がわからない。探索のてんやわんやがあって原典は判明するのですが、『六の宮の姫君』には芥川のその一節の引用の後に、こう書かれていました。
それに続けて《チェーホフは、水車小屋の側で壜の割れた口が光っている、というだけで月夜を作ってしまう》というくだりがあったような気がする。記憶違いかもしれない。
いかにも芥川が書きそうな一節ですが、結局これは北村さんの「思い込み」だったようです。
『かもめ』第4幕にこういう台詞があります。
トレープレフ (略)月夜の描写が長たらしく、凝りすぎている。トリゴーリンは、ちゃんと手がきまっているから、楽なもんだ。……あいつなら、土手の上に割れた瓶のくびがきらきらして、水車の影が黒く落ちている――それでもう月夜が出来あがってしまう。 (神西清訳)
そういえば、『六の宮の姫君』(創元推理文庫)もまた「書物探索の旅」(北上次郎の評)を主題とした小説でした。初期からみごとに一貫しています。
さて、『水――本の小説』の最終章で、北村さんはトークイベントに呼ばれて北陸金沢の徳田秋聲記念館を訪れます。金沢の個人出版社龜鳴屋の社主も登場して、つい「おおっ」と声が出ます(「いかにもお金儲けが苦手そうな方」というのが北村さんの人物評)。わたしも少し関わりのあった龜鳴屋本『犀星映画日記』も登場するのですが、この章の最後(本書の最後から2頁目)に、「秋声から始まった金沢の水の話です。最後は、秋声について語る犀星で閉じましょう」と、室生犀星の「徳田秋聲の文章」からその一節が引用されます。北村さんは明記されていませんが、これは犀星の『庭をつくる人』に収録された随筆です。これもまたわたしに縁のふかいウェッジ文庫で、またしても「おおっ」と声が出ました。
犀星といえば――。
北村薫さんに『ユーカリの木の蔭で』(本の雑誌社)という本があります。『雪月花』の前に刊行された本で、帯文に「本から本への思いがけない旅」とあるように、次から次へと本の話題がつながってゆきます。今回の『水』と同じ趣向ですが、こちらは「本の雑誌」の1頁の連載エッセイをまとめたものなので1回分の分量が短く、「数珠つなぎ」感がより強く感じられます。連載はいまも続いていますが、その「本の雑誌」の2023年1月号の《2022年度ベスト10》という特集をぱらぱらと見ていたら、佐久間文子さんの「現代文学ベスト10」にこういうくだりがありました。佐久間さんは瀬戸内寂聴の『あこがれ』(新潮社)を第4位に挙げています。
『あこがれ』は、昨年、九十九歳で亡くなった瀬戸内寂聴の最後の小説集。
その前に読んだ『いのち』は、すでに亡くなった同時代の作家大庭みな子、河野多惠子の描かれ方に飲み込めないものがあった。文芸誌に発表された表題作を読んで、まだ見ぬ外の世界への最初の「あこがれ」が、夢見るようなうつくしさで描かれているのがちょっと意外でもあり、心うたれた。(以下略)
この『いのち』(講談社)の「大庭みな子、河野多惠子の描かれ方に飲み込めないものがあった」という箇所がちょっと気になり、図書館で『いのち』を借り出して読んでみました。
これは、瀬戸内寂聴が親しく交流したふたりの女性作家を回想した私小説で、瀬戸内寂聴という特殊なフィルターを通して見たある意味独断的な人物評であり、「死人に口なし」といった感もなきにしもあらずですが(とくにカリカチュアライズされた河野多惠子について)、瀬戸内寂聴のモデル小説はいずれにせよ独断的なものであって、『いのち』だけがとりわけ偏見に満ちているという印象は受けませんでした。
それより『いのち』で「おおっ」と思ったのは、つぎのくだりです。
私や吉行淳之介さんは井上靖さんと一緒に毎年、室生犀星賞の選者として金沢へ出かけていた。五木寛之さんの夫人の父上が金沢市長の時、生れた地方文学賞第一号だったので、その賞のあれこれは、ほとんど五木さんの肩にかかっていた。(112頁)
もちろんこれは「室生犀星賞」でなく、泉鏡花文学賞でなければなりません。瀬戸内寂聴自身もかつて受賞したことのある文学賞です。室生犀星賞はあまり聞いたことのない賞なので調べてみると、一般公募の文学賞で、2012年に創設され5回で終了したとのことでした。泉鏡花賞の選者を長く務め、選者をしりぞいたあと自身も受賞した瀬戸内さんがなぜ間違えたのか不可解ですが、講談社の校閲の目をすり抜けたのも不思議といえば不思議です。
校閲といえば――。
「本の雑誌」の《2022年度 私のベスト3》というアンケートに、岸本佐知子さんと内堀弘さんがそろって挙げているのが『文にあたる』(亜紀書房)という本です。著者は牟田都子さん、校正校閲を生業とされている方です。校正で、ゲラと原稿とを照合することを「原稿(原文)にあたる」という言い方をします。「文にあたる」とは、そういう意味です。
内堀弘さんは『文にあたる』について、校閲は「職人の世界だ。それでも、「あの本、校正がよかったよね」と言われることはない。いや、特に気づかれないことが成果なのだ」と書いています。校正・校閲は黒衣の世界で、いわゆる「縁の下の力持ち」という仕事です。
ちなみにアマゾンのサイトでこの本の書影を見ると、帯文にこう書かれています。
人気校正者が、書物へのとまらない想い、言葉との向きあい方、仕事に取りくむ意識について――思いのたけを綴った初めての本。
「人気校正者」なんですね。そういえば、石原さとみさんの主演で「校閲ガール」という連続TVドラマもありました。これからは、××さんが校正した本だから読んでみようという読者も出てくるかも。というのは冗談で、この「人気校正者」はきっと出版社に「人気」のある有能な校正者という意味なのでしょう。よく売れているようで、サイトには「3カ月で5刷21,000部を突破」とありました。こうした「地味にスゴイ!」(「校閲ガール」のタイトル)本が売れるのは頼もしいかぎりです。
ちなみに『ユーカリの木の蔭で』に「校正の妖精」という文章がありました。『北村薫の創作表現講義』(新潮社)という本の校了間際、北村さんがたまたま新聞で見た新刊書の情報を「注」として急遽書き加えたら、それが意図したこととまったく逆の「誤植」になってしまった。やぶ蛇というやつですね。
北村さんはその書き加えた部分をファックスで確認していました。しかし「見ていたのに、全く見えなかった」。それで間違ったわけですが、これはよくわかります。思い込みで文章を読むと、実際は違っていてもそう見えてしまう。「誤植」(というよりも校正ミスというべきですが)の原因の何割かはこの「思い込み」によるものです。だから、校正(生原稿とゲラの照合)をするときは1字1字文字ヅラを照合し、文章を読んではいけないといわれたものです(いまはもう生原稿というものがほぼなくなり、従って照合するという作業もほとんどなくなりましたが)。校正ミスについて、北村さんはある編集者の「活字の上に妖精がいて、見えないようにするんですよ」という言葉を伝えています。わたしはそんな洒落た言い回しは知りませんでしたが。
わたしの読んだ『いのち』は2017年12月1日発行第一刷の単行本ですが、瀬戸内さんが亡くなる前年の2020年に文庫化されました。著者によって一部加筆訂正が行われたと講談社文庫の巻末に記されていますが、「室生犀星賞」は訂正されずそのままでした。どんな妖精がいたずらしたのでしょう。
最後に、「水」にちなんだ校正の話で、この長い話を閉じましょう。
3年前に亡くなった文芸評論家の加藤典洋さんを追悼する文章をこのブログに書きました。そこで、加藤さんが東大に在学中に学内の文学賞に応募して第一席に入賞した「手帖」という題の小説についてふれました。
加藤さんの友人の橋爪大三郎さんが「週刊読書人」に書かれた追悼文から「手帖」の一節を孫引きしました。こんな文章です。
水の中で水が沈む。波がためらいながら遠のいていく。弱々しい水の皮膚を透かすと、ひとつの表情が、その輪郭を水に滲ませてぼんやり微笑んでいる。
当時――1960年代半ばから70年代、文学青年のあいだで熱狂的に持てはやされたフランスのヌーヴォーロマン(アンチロマンともいいます)の影響をもろに受けた前衛的な小説です。瀬尾育生氏によれば、それは「全編に水、雪、落下、沈殿などのイメージ」が充ちた「異様に稠密な細部を持つ小説」であり「あきらかに「書くこと」についての小説」であったそうです(加藤典洋『日本風景論』解説、講談社文芸文庫)。
受賞した「手帖」は「学園」という学内の機関誌に掲載されました。ところが、この「水の中で水が沈む」が「水の中で氷が沈む」と誤植されていたそうです。どこで読んだのか忘れましたが、加藤さんはこの「誤植」にげっそりしたと書いていました。「水の中で氷が沈む」ではありきたりで、作者の意図した鮮烈なイメージはまったく伝わりません。学内誌なので、ちゃんとした校正者もつかず、著者校正もなかったのでしょう。
「水の中で水が沈む」は、おおかた作者の書き誤りと見なされてしまったのかもしれません。