なつかしい文学の味

 

 何ヶ月前のことだったかもうさだかではないけれど、たぶん新型コロナウィルス騒ぎがまだ勃発していなかった頃、金井久美子、美恵子姉妹のトークイベントが金井美恵子の体調不良だったかで金井久美子ひとりのトークショーになったということをネットか何かで目にしてちょっと気になっていたのだった(いまネットであらためて検索してみると、それは去年12月4日に東京堂書店で行なわれるはずの『武田百合子対談集』刊行記念のトークイベントだった)。その半年ほど前に加藤典洋が、年が明けて早々に坪内祐三が急逝し、つい最近長谷川郁夫が亡くなるなど不穏なことが立て続けに起っていたし、「文学界」の金井美恵子の連載(といっていいのかどうか、この項つづくといった感じでだらだらと続いていたエッセイ)も休載になるしで、金井さんは息災だろうかと時折りネットで「金井美恵子 病気」と検索してみたりしたのだけれどなにも情報を得られないまま時が過ぎていた。ところがこのたび突然「ちくま」6月号で「重箱のすみから」という金井さんの連載がはじまり、当然というか第1回目は昨年11月に身にふりかかった疾患と新型コロナウィルスの話に終始し、疾患のほうは3月まで通院してどうやら治癒されたらしく紋切型表現でいうところのほっと胸をなでおろすという次第にいたったのだった。

 連載は、

新型コロナウイルス感染症対策専門家会議副座長を務める尾身茂・地域医療機能推進機構理事長」と、その長い肩書きを念入りに、つい書いてみたくなる人物

と、じっさいに二度も長い肩書きを書いて見せたりするところが金井美恵子調の健在ぶりを示しおおいに笑わせてくれた。ついでに書いておくと「煽情的な経済小説の書き手である真山仁」が朝日新聞に書いた「脆弱な危機管理 さらけ出した安倍政権」というタイトルの「エンタメ小説調」の文章を引用してみせているのだけれど、金井美恵子はたとえば『ハゲタカ』のような(?)「煽情的な経済小説」をじっさいに読んだのだろうか。

 もうひとつついでに書いておくと、この「ちくま」6月号には、ちくま文庫で刊行がはじまった「現代マンガ選集」に関連した中条省平夏目房之助の対談が掲載されており、そこに「現代マンガ選集」全8巻の概要が罫線囲みで載っているのだけれど、ラインナップの7月刊行予定のあとに6月刊行予定がきたり(8月の誤植か)12月刊行予定が2冊だったり(1冊は11月だろう)と情報としての正確さに欠けるのはこれも新型コロナウィルスのせいだろうか。 

 ところで、前回のつづきというわけでもないけれど、ある書評家が『体温』を高く評価した文章を発表していて、それはそれで嬉しくおもったのだけれど、文中で多田尋子のことを「三十年近く前に筆を折った」と書いていて「あらあら」とおもった。多田さんがもしその記事を目にされていたら「ちょっと違うんだけどなあ」とおもわれたことだろう。最後の作品集『仮の約束』が講談社から出たのは1994年のことで、このたびの新刊『体温』とのあいだには25年の開きがあるにはあるけれど、『仮の約束』のあとも「三田文学」(95年)や「季刊文科」(96年、2000年)などに時折り短篇を発表されているし、「群像」(97年)にも短篇「躑躅」を発表されていて寡作ながらも作家活動は続けていられた。主要な発表舞台である「海燕」が96年に廃刊となったのが多田さんにとっては大きな痛手だったろう。編集者の督励によって作家は小説を書き続けられるのである。

 山田稔さんが「みすず」(2020年1・2月合併号)恒例の読書アンケートに『体温』をあげていられた。「六回も芥川賞候補になりながらその後文壇から消えた」と書かれている。「三田文学」や「季刊文科」などはいわゆる文芸誌とは呼ばない。つまり文壇の埒外なのである。つづけて、次のように評されていた。

「当時私はその作品を二、三読み好感をいだきながらも忘れていた。このたび読み返しいいなと思った。男性に心を寄せながらつねに距離をおき、そうすることで自由と孤独をもちつづけようとねがう中年女性の、つよく寂しい生き方を地味な文体でしずかに描く作風に、なつかしい文学の味を久しぶりにおぼえた。」

 ――なつかしい文学の味。

 それは当時、すなわち30年ほど昔であってさえ「なつかしさ」を感じさせるものだったろう。「新味なんて、じきに消えてなくなるものです」と三浦哲郎が書いている。文学の味は万古不易である。

多田尋子へのエール

 

 山田稔さんを囲むトークイベントを採録掲載した図書新聞が1月4日に発売された。1面から3面におよぶ長文なので立ち読みするのは骨である。興味のある方は御購入もしくは図書館などで御覧いただきたい。

「文藝」の編集者だった寺田博福武書店で「海燕」という文藝誌を創刊した。その話の流れで、やや寄り道をするといったていで、わたしは最近多田尋子の『体温』が復刊されて驚いたと述べた。それにたいして、山田さんは次のように応じられている。

多田尋子は当時、雑誌で読んだことがあります。最近、書店で復刊されたのをみてわたしも驚きました。久しぶりに名前を思い出しました。いい作品を書くけど、こういう地味な作風で芥川賞をもらうのは難しいだろうなと思ったことをおぼえています。

 わたしが多田尋子の話を持ちだし、福武書店講談社から3冊ずつ短篇集が出ている、と妙にくわしく言及したのにはわけがある。じつは、わたしはつい1年半ほど前に、たまたま多田尋子を「発見」したばかりだったのである。

 駒田信二編『老年文学傑作選』(ちくまライブラリー、90年)という本がある。ずっと以前、均一本で入手してそのままになっていたアンソロジーで、なにげなく手に取ってみたのが1年半ほど前。目次に並んでいるのは、林芙美子を筆頭に、木山捷平沢木耕太郎尾崎一雄藤枝静男八木義徳耕治人野口冨士男といったいわば定番の面々で、どの作家もわたしに馴染みの人たちだったが、なかに一人、名前は知っているものの作品を読んだことのない作家がいた。それが多田尋子で、収録されているのは「凪」(「海燕」1985年1月号掲載、『裔の子』所収)という作品だった。こんな内容である。

 瀬戸内海の小島に住む70歳をこえた「すぎの」は、納戸で寝たきりの90歳半ばの姑「カウ」の世話をして日々を過している。いまでいう老老介護を描いた作品で、閉ざされた世界での濃密な日常が広島弁のような方言による会話を交えながら坦々と描かれる。

 錚々たる作家たちに伍して多田尋子の作品が選ばれたのは、彼女が駒田信二の小説教室から出てきた作家であるという事情もあるだろうが、それを差し引いても「凪」は選ばれるにたる一種異様な傑作だった。一読感銘を受けた。読みながら今村昌平が監督した『神々の深き欲望』という映画をちょっと思い浮べたりもした。

 もう少し多田尋子の作品を読んでみたくなって、図書館で短篇集『仮の約束』を借り出した。わたしの住む地域の図書館に多田尋子の作品はこの1冊しかなかった。ほどなく『仮の約束』を読み終えたわたしは、インターネットを検索して『仮の約束』も含めてありったけの多田尋子の本を注文した。たちどころに6册の本が手元に集まった。これが多田尋子の全著作だった。みな古本だがいずれも本の状態はよく、しかも驚くほど廉価だった。

 講談社版『体温』の帯には、丸谷才一三浦哲郎の「芥川賞選評」が再録されている。丸谷才一はこう評している。

 多田尋子さんの「体温」に感心した。デッサンが確かでディテイルがいい。筋の運びに無理がないし、そのくせ筋に綾をつけるつけ方がうまい。何しろ地味な作風なので古風に見えるかもしれないが、古くさくはない。むしろ、静かでしかも知的な筆法によつて在来の日本文学をさりげなく批評してゐるとも言へよう。このおだやかで安定した態度は注目に価する。

 多田尋子の小説は6度芥川賞最終候補作になりついに受賞を逸したが、「体温」で5度目の候補になったのがもっとも芥川賞に近かったときで(1991年上期)、この落選はさぞ堪えたにちがいない。このとき多田尋子は59歳、選考委員の三浦哲郎、大庭みな子がともに60歳。同年輩のふたりはすでに一家をなした作家で、それに引替え自分は50歳を過ぎてデビューしたとはいえ、まだ作家としてスタート台に立ったばかりだ。あとどれぐらい書くことができるのだろう。同じく「海燕」でデビューした島田雅彦も6度芥川賞の候補になり、結局受賞することはなかったが、最後の落選の時点でまだ20代だった。多田尋子の落胆はいかばかりだったろう。

 芥川賞選者のなかで一貫して多田尋子を高く評価したのが三浦哲郎だった。「体温」の評も好意的で鄭重だ。

 多田尋子氏の「体温」に強く惹かれた。ここには、八年前に夫を失ってから孤閨を守りつづけている三十も半ばを過ぎた女と、十歳になるその娘との、おおむね平穏な日常が、簡潔で淡々とした、けれども、まさしく体温(2字傍点)のぬくもりを感じさせる気持のこもった文体で静かに写し出されている。小説の文体としてこれ以上オクターヴの低いものがあるとは思えないが、そんなささやきにも似た文体でありながら、読む者の耳に、胸に、実に自然に通って、登場人物の一人々々を鮮やかに書き分け、部屋を貸している女子学生たちとのやりとりを闊達に描写し、自分との再婚を望んでいる亡夫の元同僚の一人との情事も過不足なく描いて、人生を色濃く感じさせる。

「孤閨を守りつづけている」なんてところが時代を感じさせるが、これだけ褒めるならあげてほしかったなあ、芥川賞。もし受賞していれば、多田尋子の作家としての人生はもっと違ったものになっていただろう。「体温」は「群像」1991年6月号に掲載。単行本収録作でもっとも古いのが先にあげた85年の「凪」で、その後コンスタントにキャリアを積み、89年には3度目の芥川賞候補作「裔の子」を含む5作を発表。90年には4作、91年には3作(うち2作が芥川賞候補作)。つまり脂の乗り切った頃合いだったわけで、これで取らないでどうする(と、いっても詮ないことだけれど)。

 このたび27年ぶりに書肆汽水域から復刊された『体温』は、新たに編集されたもので、収録作は「体温」「秘密」「単身者たち」の3作。後者の2作はいずれも2冊の短篇集の表題作で、「単身者たち」は芥川賞の候補作。つまり選り抜きのアンソロジーというわけで、紅と濃藍を基調にした鮮やかなカバーとともに気迫を感じさせる復刊である(講談社版『体温』の収録作は「やさしい男」「焚火」「オンドルのある家」「体温」の4作)。この本で初めて多田尋子の作品にふれたという読者も多く、おおむね好評をもって迎えられているようだ。

 トークイベントが終了したあと、年輩の女性がわたしに近づいてきて「さっきお話になった『体温』という小説はどこで売っていますか」と尋ねられた。もちろん恵文社では平積みになっていたので、その旨お伝えした。話してよかったと思った。

 最後に、多田尋子への三浦哲郎のエールを引いておこう。

多田さん、新味がないなどという批判に動揺してはいけません。新味なんて、じきに消えてなくなるものです。あなたのこれまでの人生の消えない真実をためらわずにお書きなさい。それが本当の小説というものなのですから。

 多田尋子の作品については、いずれまた稿を改めて書いてみたい。

 

体温

体温

  • 作者:多田 尋子
  • 出版社/メーカー: 書肆汽水域
  • 発売日: 2019/10/25
  • メディア: 単行本
 

 

京都で山田稔さんに会う

 

 山田稔さんの新刊『門司の幼少時代』がぽかん編集室から刊行され、その刊行記念に催される〈「ぽかん」のつどい〉に出席するため、先月の17日、京都へ出かけた。京都の書店・恵文社一乗寺店に附属するCOTTAGEというスペースでの山田さんを囲むトークイベントで、聞き手は「ぽかん」の寄稿者である澤村潤一郎さんとわたし。司会を恵文社一乗寺店の能邨陽子さんがつとめられた。澤村さんは先般門司を訪ねられた由で、もっぱら山田さんと門司とのかかわりについて質問され、わたしはおもに「文藝」「海燕」などの文芸誌や編集者との交遊について質問をした。

 山田さんの最初の著書は『スカトロジア――糞尿譚』(1966)だが、二作目の『幸福へのパスポート』(69)が小説のデビュー作となる。これは66年から67年にかけて山田さんがパリに留学していた際に、同人誌「VIKING」へ「フランス・メモ」という総題で寄稿した文章を書籍化したもので、埴谷雄高の推輓で河出書房新社から刊行された。前々回『山田稔自選集 1』にふれて「人生のすぐ隣にある散文」という文章を書いたが、そこで述べた小説や随筆といったジャンルにおさまらない/こだわらない山田さんの文章の特質がすでに、ほとんど完成した形でここにあらわれている。

 だがその後の70年代のおよそ十年間、山田さんの小説のスタイルは、いわゆる小説らしい小説に向かうように見える(『教授の部屋』72『選ばれた一人』72『旅のいざない』74『ごっこ』76等々)。そして、80年になって再度パリより「文藝」に寄稿した連作『コーマルタン界隈』(81)によって、山田さんは「散文芸術」への「帰還」をはたす。この十年の「彷徨」が何に由来するのかがわたしの長年の疑問だった。わたしはその疑問を、非礼を顧みず山田さんに投げかけた……。このトークイベントは「図書新聞」に採録されて新年早々に掲載されるそうなので、山田さんとのやりとりの詳細はそれをお読みいただきたい。

 会場では、持参した広津和郎の本から「散文芸術の位置」というエッセイの一節を紹介した。「新潮」1924年9月号に掲載された文章で、以前から所持していた『広津和郎集』(現代知性全集44巻、日本書房、1961年)にたまたま収録されていた。広津はそこで、有島武郎が提示した「自己の芸術に没頭し切っている」芸術家と、「自己の生活とその周囲とに関心なくして生きられない」芸術家について論じつつ、芸術を音楽、美術、詩、散文……と区分けして、「散文芸術」が「一番人生に直接に近い性質を持っている」と述べる。

近代の散文芸術というものは、自己の生活とその周囲とに関心を持たずに生きられないところから生れたものであり、それ故に我々に呼びかけるところの価値を持っているものである。云い換えれば、武郎氏の所謂第二段の芸術家の手によって、始めて近代の散文芸術が生れているのである。

 このふたつの芸術家のタイプの分類は、以前書いたトーマス・マンの『トニオ・クレーガー』の芸術家論を思わせもする。

 広津はさらにいう。

結局、一口に云えば、沢山の芸術の種類の中で、散文芸術は、直ぐ人生の隣りにいるものである。右隣りには、詩、美術、音楽というように、いろいろの芸術が並んでいるが、左隣りは直ぐ人生である。

 おそらく広津和郎の念頭には愛読したチェーホフの小説があったにちがいない。それとともに、「散文精神について」(昭和13、4年頃の講演、同書所収)で、林房雄を批判して「どんな事があってもめげずに、忍耐強く、執念深く、みだりに悲観もせず、楽観もせず、生き通して行く精神――それが散文精神だと思います」と述べているように、ロマン主義批判でもあったのだろう。

 広津和郎の散文芸術に関するエッセイは、昨年復刊された『散文精神について』(本の泉社)で読むことができる。

 

 トークイベントで編集者との交遊について質問することはあらかじめ決めていた。時間がゆるせば取り上げたいと、山田さんの友人であった杉本秀太郎大槻鉄男に関する話題も用意していたが、話しそびれたのでここに書いておきたい。

 杉本秀太郎が『散文の日本語』(中央公論社のシリーズ「日本語の世界」)の原稿を執筆していた時のこと(1970年代の終り頃)。共著者の大槻鉄男は原稿を書き上げたのに(その半年後の79年に亡くなる)、杉本はなかなか書けない。担当編集者の和田恒(ひさし)が業を煮やして三日に上げず催促の電話をかけてくる。杉本はついに「デンワカケルナ」という電報を打った。折り返し、和田から怒りの手紙が届く。ひと月後、上京した杉本は入院している和田を見舞った。「電報のおわびを心のなかでつぶやきながら」。

それから一年余りして、編集の仕事から離れたまま、和田さんは亡くなった。「散文の日本語」は、その三箇月のちに出版されたのだった。

 和田恒が執拗に催促の電話をかけたのは、重い病で入院することがわかっていたからにちがいない。入院するまでになんとか形を整えておきたい、そう思ったからだろう。

 この「電話と電報」という杉本の文章は、『和田恒追悼文集 野分』(私家版、81年)に収録され、エッセイ集『西窓のあかり』(筑摩書房)に再録された。

 和田恒は1931年生れ、東京都立大学に入学後まもなく日本共産党に入党、破防法反対闘争に加わる(六全協の翌年あたりに離党か)。修士修了後、高校教員を経て、58年中央公論社に入社。井出孫六らが同期だった。「思想の科学」の編集に携わり、谷川雁『工作者宣言』、山口昌男『本の神話学』などの編集も手がけている。亡くなるまでの二十余年の編集者生活で「世界の名著」シリーズをはじめ、いかにも中公らしい本を多数手がけた。クロス装・貼函入りの300頁余の追悼文集には著名な作家、学者たちの寄稿も少なくない。 

 ちなみに知子夫人も同期入社の中公の編集者で、一昨年『遠い思い出 室生犀星のこと』というエッセイ集を龜鳴屋から刊行された。トークイベントには龜鳴屋主人も来場していたので、この話を紹介できなかったのがいささか心残りである。

 

3gatsu.seesaa.net

阿部昭の小説を読むには……

 

 阿部昭の新刊が出ていた。このところ外出もせず(べつに謹慎しているわけではないけれど)書店にも御無沙汰で、うっかり見落としていた。文庫版の『天使が見たもの』(中公文庫)と単行本の『阿部昭短編集』(水窓出版)の二冊。阿部昭は、今年が没後30年なんですね。

 ネットで書影を見ると、二冊ともちょっと現物を手に取ってみたくなる、なかなかいい感じの仕上がり。いずれも短篇小説のアンソロジーで、文庫版のほうは副題に「少年小景集」とあるように、阿部昭得意の少年小説を集めたもの。巻末エッセイが沢木耕太郎で、「ああ、こんな文庫本をつくってみたかったなあ」という気にさせられる。

 これは中公文庫のオリジナル・アンソロジーだが、阿部昭の作品はかつて中公文庫で何冊も出ていた(わたしはいまでも持っている)。その後、講談社文芸文庫からも主要な作品は数冊出たはずだが、どちらももう古書店で探すしかないだろう。それだけにこの二冊は時機を得たものだ。

 

 ところで――。

 前回ブログを更新されてから約1ヶ月が経過しました。そろそろ次の記事を投稿してみませんか? というメールが2、3日前に届いた。

 そういわれると、たしかにほぼ一ヶ月更新していない。メールの差出人は、知人や、当ブログの数少ない読者ではなく、〈はてなブログ〉となっている。要するに、〈はてなブログ〉からの更新催促のお便りなのである。御親切に「趣味の話や休日の話、最近うれしかったことや、買ってよかったもの、家族やペットの話」といった近況を書いてはどうかとか、「お題スロット」(大喜利のようなものか)に参加してみてはいかがかなどとアドバイスも怠りない。

 むろんこれは、〈はてなブログ〉の運営に携わる人たちが日夜、パソコンの前で数多くのブログに目を光らせて、「ふむ、このブログのぬしは毎日更新して感心なことだ」とか、「おお、このブログはもうひと月近く更新が滞ってるな。ちょっと催促してやろう」とか、考えているわけではないだろう(たぶん)。詳しい仕組みはわからないけれど、各ブログの更新の頻度がコンピュータによって機械的に計測され、それによって自動的にメールが発信されるのだろう(きっと)。そこには、人間の労働は介在しない。『AIvs.教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社)で新井紀子がこう書いているように。

 「(略)グーグルやヤフーやその他さまざまなグローバル企業や研究者が血眼になって開発を進めているAIは、もの凄い勢いで私たちの日常生活に浸透し始めています。すでに、人間に代わってAIに仕事をさせている企業も出現しました。今後はその傾向に拍車がかかります。」

 たしかに、昨年など年に2度しか更新していないけれど、こんなメールは届かなかった。AIの開発に拍車がかかっている証拠だろうか。

 新井紀子はベストセラーになった同書で、AIが人間に取って代わることはない、と断言している。なぜならAIは計算機であり、「計算機は計算しかできない」からだ。わたしもそう思う。いままで人間がやっていた労働で、AIが代替できるものはやがてAIに取って代わられるだろう。それはなにもAIにかぎらず、かつて発明されたさまざまな機械がそうであったように。機械は人間の手の延長であるといった意味のことをマクルーハンがとなえたのは半世紀以上も前のことである。

 わたしがこの本を読んでおもしろいと思ったのは、AI「東ロボくん」の開発に携わってきた著者が、AIの開発よりも中高生の読解力の向上こそが日本にとって喫緊の課題であると認識するにいたった過程である。著者たちが行なった「基礎的読解力調査」の結果は、著者のみならず多くの人たちを啞然とさせるに足るものだ。

 ここでいう読解力とは、著者がいうように「谷崎潤一郎川端康成の小説や、小林秀雄の評論文を読んで作者が訴えたいことや行間に隠されている本当の意味などを読み取ること」ではなく「辞書にあるとおり、文章の意味内容を理解するという、ごく当たり前の意味での読解力」である。この調査の結果がヒサンなのは、テストの問題が難しいからではなく、問題文が読めない、つまり何を問われているのかが理解できないからなのだ。これでは鉛筆を転がして回答するしかないだろう。その結果、正答率は「サイコロを振って答える程度」だったという。

 「AIと共存する社会で、多くの人々がAIにはできない仕事に従事できるような能力を身につけるための教育の喫緊の最重要課題は」と著者はいう。「中学校を卒業するまでに、中学校の教科書を読めるようにすることです。」

 

 折りも折り、朝日新聞の「天声人語」が「文芸誌の「すばる」と「文学界」が、立て続けに国語教育の特集をしている」と書いている(8月17日朝刊)。「高校の国語でこれから、文学が選択科目になるためだ」という。調べてみると、「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探求」の4つが選択科目で、必修ではないので、近代以降の文学を学ぶ機会が失われるかもしれない、ということらしい。この新指導要領は2020年から適用されるとのこと。

 文科省の意図は定かではないが、どうやら読解力低下への対応策らしい。だがそれにしてはピントがずれてはいないか? 課題は、中学を卒業するまでに、中学の教科書を読めるようにすることなのだから。

 阿部昭の『天使が見たもの』は、収録作全14篇のうち半数近くが高校国語教科書の掲載作品であるという。前述の天声人語子によれば、「すばる」7月号で小川洋子が「教科書で出会わなかったら一生出会えない、そんな文学がある」と語っているそうだが、そもそも中学校の教科書を読めなければ、阿部昭の小説だって読むのはおぼつかない。

 

天使が見たもの-少年小景集 (中公文庫)

天使が見たもの-少年小景集 (中公文庫)

 

 

March winds and April showers bring May flowers.: 阿部昭短編集

March winds and April showers bring May flowers.: 阿部昭短編集

 

 

 

 

人生のすぐ隣にある散文――『山田稔自選集 1』

 

 山田稔さんの新刊『山田稔自選集 1』(編集工房ノア)が出た。

 既刊のエッセイ集『ああ、そうかね』『あ・ぷろぽ』を中心に、その他の作品集などから選ばれたエッセイおよそ七十篇ほどが収録されている(単行本未収録の作品もわずかながらある)。一篇が3~4頁と短く、夜、睡る前に蒲団のなかで数篇ずつ読んでいる。ほとんどすでに読んだものばかりだが、たいてい忘れているので初めて読むのとかわらない。

 なかでつよい印象を受けたのが「作家の「徳」」という文章で、広津和郎の作品を読み返す機会があって「二十代後半に愛読したこの作家からつよい影響をうけていることを、あらためて思った」とあり、つづけてこう書く。

 「たとえば人生のすぐ隣に散文芸術を位置づける考え方、いや、そもそも「小説」でなく「散文芸術」というとらえ方そのものがそうで、私の最初の作品集『幸福へのパスポート』(一九六九)の「あとがき」で、旧来の「小説」の型にとらわれずにすぐれた散文をこころざしたい旨をのべたとき、私の念頭には広津の残した散文芸術の傑作、たとえば文学回想録の数々があったのだった。」

 わたしがとりわけ感じ入ったのは「人生のすぐ隣に」ある散文芸術という表現である。人生を描くというと、なにやら肩肘張った仰々しい感じがしないでもないが、人生のすぐ隣にあるといえばなにがなし親しみが感じられる。わたしの好む山田さんの作品も、小説然としたものよりも、小説とエッセイのあわいにあるような、人生のスケッチ(生活のといってもいいけれど)とでもいうべきもののほうに傾くようだ。そういえば、山田さんが自分でも訳されたフィリップやグルニエ、それにチェーホフらの作品も「人生のすぐ隣にある散文芸術」ではないだろうか。上述の『幸福へのパスポート』の「あとがき」を引いておこう。

 「最初は小説の形式にとらわれずに書きはじめた。やがてわたしは『フランス・メモ』なる総題のもとにさまざまなスタイルの短編をこころみることを考えはじめた。しかしその場合でも、従来の「小説」という形式にしばられずに自由に書くという立場は変えなかった。「小説」よりも「散文芸術」というものが念頭にあったのである。散文による文学的表現のためには、かならずしも旧来の「小説」の体裁をとる必要はないという当時の考え方は、いまも変らない。」

 『幸福へのパスポート』については、かつて「パリの異邦人」と題して「国文学」に書いた文章をここに再録したことがある。

qfwfq.hatenablog.com

 山田稔自選集は全3巻の予定。

https://shop.r10s.jp/book/cabinet/3088/9784892713088.jpg

 

 

誰に見しょとて…… 悼詞・加藤典洋

  

 「ぼくはぼくであることについてはたして自由だろうか?」

                ――J.M.G.ル・クレジオ『物質的恍惚』

 先月の5月16日、加藤典洋さんが亡くなった。突然のことで、驚いた。新聞の訃報記事に死因は肺炎とのみ書かれていて、肺炎にいたる病がなにかはわからなかった。数日後、都心に出たついでに書店に立ち寄り、新刊の『完本 太宰と井伏』(5月10日刊・講談社文芸文庫)を購入した。(おそらく)最後に書かれた文章を読みたかったからだ。

 3月に記された「自筆年譜」には、去年の11月21日、「先月より続いていた息切れが貧血によるもので実は病気を発病していたことが発覚し衝撃を受ける」とある。同月30日、病院に入院し治療を始める。翌年の「一月中旬、治療の感染症罹患による肺炎となり一週間あまり死地をさまよう。二月上旬、ようやく肺炎をほぼ脱し、中旬、都内の病院に転院。以後、入院加療を続ける(三月下旬まで)」。続けて「今後はストレスのかかる批評のたぐいからは手を引くこととする」と書かれていて、身を削るように執筆されていたストレスが病の原因もしくは遠因だったのかもしれない、と推察する。

 同じく3月に都内の病院で執筆された「文芸文庫版のためのあとがき」にも、病気を経験してようやく「老人」になることができたとして、「これからはしっかりと「若い人」に場所を譲り、そういう人に活躍してもらう助力をすることが「老人」たる自分の役割であると思っている」と今後の生き方について述べている。こう書いてから2か月たらずで死を迎えるとは、本人にも思いもよらなかったろう。

 その後、橋爪大三郎さんの追悼文「不在を受け止めかね、うろたえる」(「週刊読書人」2019年6月7日https://dokushojin.com/article.html?i=5498)を読んで、病名が急性骨髄性白血病であることを知った。3月にいったん退院し、四月に再入院、と「一進一退を繰り返した」とある。その追悼文のなかに、加藤さんが東大教養学部に在学中の19歳で銀杏並樹文学賞に応募し、第一席に入賞した小説「手帖」の一節が引用されている。銀杏並樹文学賞は、かつて大江健三郎蓮實重彦氏らが受賞した学友会誌「学園」が募集する文学賞である。

 「水の中で水が沈む。波がためらいながら遠のいていく。弱々しい水の皮膚を透かすと、ひとつの表情が、その輪郭を水に滲ませてぼんやり微笑んでいる。」

 橋爪さんが「相当に早熟で、かつ生意気な文体と言うべきだろう」と評しているように、ここには当時、60年代半ばから70年代にかけて文学青年たちをとらえたフランスのヌーヴォーロマンの影響が明らかにうかがえる。先述の自筆年譜にも1965年、17歳で『現代フランス文学13人集』によってヌーヴォーロマンを知り、東大入学後の18歳でル・クレジオの『調書』に刺戟を受ける、と記されている。

 この「手帖」という小説、そしてその変奏であるような「男友達」「水蠟樹」という三部作については、瀬尾育生氏が講談社文芸文庫版『日本風景論』の解説「はじまりの加藤典洋」で引用をまじえながら詳細に紹介している。わたしが実際に読んだのは「犯罪」(第1号、構造社、1970年9月刊)というリトルマガジンに掲載された「水蠟樹」だけだ。男のモノローグによる散文詩のような観念小説。ヌーヴォーロマンやカフカ倉橋由美子らの影響も仄見える。「男友達」の登場人物Jは、二十歳で「母から受け継いだ被爆の後遺症によって死ぬ」。カルテには「慢性骨髄性白血病ト認定」と記されている、という。暗然とする。

 ちなみに『現代フランス文学13人集』は新潮社から出た全4巻のシリーズで、フィリップ・ソレルスミシェル・ビュトールナタリー・サロート、アラン・ロブ=グリエ、クロード・シモンといったヌーヴォーロマンを代表する作家たちの小説の翻訳が収録されており、フランスの新しい小説の息吹きを、当時の若者たちのだれもがこのシリーズで知ることになった。それは、ゴダールトリュフォーらのヌーヴェルヴァーグの映画のように新奇できらきらと輝いていた。わたしもまた加藤典洋に数年遅れて、70年代に入ってからこれらの作品にふれた。ル・クレジオ豊崎光一訳『物質的恍惚』のカッコよさにいかれてわけもわからないままノートにその文章を書き写したりした。加藤典洋はわたしにとって、2、3年上級のとてつもなくよくできる先輩のようであり、50冊を超える著書の大半をとおしていつも変らぬ導きの糸のような存在だった。

 加藤さんの本は、最初の単行本『アメリカの影』(河出書房新社、1985年)からずっと読んでいるけれど、本当に腰を据えてじっくりと読まなければいけないと思ったのは、7年前に『小さな天体』を読んでからだ。この本については、このブログで3回にわたって書いた。この本によってはじめて、わたしは批評家加藤典洋だけでなく、ひとりの人間としての加藤典洋に出遭ったような気がした。むろん、それ以前の著書においても、ひとりの人間としての素顔をうかがうことはできるはずだが、それを読み取る力がわたしに備わっていなかっただけだ。このひとの思考はこういうふうにして形づくられてくるのだな、ということが『小さな天体』を読んではじめて了解された。思想はそれじたい完成されたものでなく、つねに鍛え上げられなければならない。それが生きた思想だということ。「鋼鉄はいかに鍛えられたか」が、現在進行形で伝わってくるスリリングな書物だった。この本を読んだあと、以前読んで手離した加藤さんの本を古本屋で買い戻したりした。

 訃報を知ったのち、加藤さんの著書を書棚から取り出して、あれこれと読み耽った。そのなかで、つよく印象に残った文章をひとつだけ引いておきたい。めずらしく映画について書かれた文章で、深夜、タルコフスキーの『ストーカー』のビデオを見て衝撃を受けたと書き出される小文で、『なんだなんだそうだったのか、早く言えよ』(五柳書院、1994年)に収録されている。映画館で観客とともに見る映画が、ビデオの登場によってその経験の質が変ってきたという。そのことじたいはありふれた知見だが、そこから引き出される「夢想」はありふれてはいない。

 「ぼくはこんな夢想をしてみる。ぼくはそっと「ストーカー」のビデオを手に入れ、誰にも黙って「ストーカー」を見る。そしてそれに甚大な衝撃を受ける。しかしぼくはそのことを誰にも話さない。誰にも話さず、どこにも書かず、人がそれについて語り、書く時にも、虫の音を聞き、空を飛ぶ鳥を見るように、それを聞き、眺め、ただ時々その映画を思いだし、その映画の語りかけてくるものについて考え、死んでいく。」(「映画、ひとりにしてあげる」)

 そうなのだ。衝撃を心のなかに秘めて、その衝撃の意味するものを繰り返し繰り返し反芻する。そして黙って死んでゆく。そういうひとにわたしはなりたい。そういっているかのようだ。本当は、批評などいらないのだ。書かなければそれに越したことはない。ただ、時折り思いだし、考えをめぐらせる。それでじゅうぶんではないか?

 わたしもパソコンにむかってこんな文章を書きつらねながら、そう自問したことは数え切れないほどある。誰に見しょとてベニカネつきょうぞ、か。このつたない文章を、「向う側への旅」(ル・クレジオ)の途中の加藤典洋氏に捧げる。

 追悼文はほかにもいくつか読んだが、扉野良人さんの〈ぶろぐ・とふん〉の「鎖の両端」(2019-05-24 https://tobiranorabbit.hatenablog.com/entry/2019/05/24/055314)が心に沁みた。

完本 太宰と井伏 ふたつの戦後 (講談社文芸文庫)

映画のなかのナボコフ

 

 最近みた映画にたてつづけにナボコフが出てきたので「おやおや」と思った。1本はスティーヴン・ソダーバーグ監督の『アンセイン~狂気の真実』(2018)。

 全篇アイフォンで撮影されたというサイコスリラーで、ストーカーにつけ回されたヒロインが病院の一室に監禁される。ストーカーは気の弱そうなオタクっぽい感じの男で、それほど怖そうではない。最近起こったアイドルストーカー事件を思い浮べたりもする。

 男は「君の好きなものは全部知ってるよ」と彼女にいう。

「好きな本はPale Fireだ。好きな歌はWalkin'after midnight」

「そうよ。父がよく聴いていた」

 Walkin'after midnightは、カントリーミュージックの歌手パッツィー・クラインの1957年のヒット曲。おそらくヒロインの父親が少年時代に好んだ曲だろう。だとするとこの映画の時制はほぼ現在ということになる。

 Pale Fireはむろんナボコフの小説『青白い炎』だが、Pale Fireが好きな小説だということが彼女のキャラクターにどう関わるのかがイマイチよくわからない。脚本家か監督はなんらかの意図があってPale Fireをもってきたのだろう。かりに好きな本が『重力の虹』だというと「おっ」と思うけれど、それにくらべるとPale Fireの偏差値というか、コノテーション(含意)がはっきりしない。まあべつに悩むほどのことではないのですけど。

 最近みた映画じゃないけれど、『ブレードランナー2049』(2017)にもPale Fireが出てきた。 帰宅したジョー(K)にジョイが「本でも読む?」と差し出すのがPale Fireのペーパーバック。こんなシーンです。

 

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Pale Fire in Blade Runner 2049 このカバーもいいなあ。

 こちらは、もうすこし物語と関わりが深いのだけれど、それにしてもなぜPale Fireなのか。ロバート・フロストでもいいじゃないかという気はしないでもない。きっとなにか深い意味がかくされているのでしょうけど。

 最近みたもう1本の映画は『さよなら、僕のマンハッタン』(2017)。原題はThe Only Living Boy in New York、サイモン&ガーファンクルの「ニューヨークの少年」で、映画のなかでも劇中歌として使われている。

 

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 のっけから男のモノローグで始まる。

 The best lack all conviction, while the worst are filled with passionate intensity.(「最良のものが信念を失い、最悪の者が活気づく」―字幕より)

 W.B.イェイツの「再臨」The Second Comingの一節だ。

ルー・リードボトムライン(NYのヴィレッジにあったライブハウス)で引用していた」とモノローグはつづく。

ルー・リードボトムラインも亡き今、残されたソウル(魂)は高級ジムの“ソウルサイクル”だけだ」と皮肉っぽく語るのはジェフ・ブリッジス演じるW. F.ジェラルドという中年の小説家。アパートの彼の隣の部屋に住むのが主人公の青年トーマス(カラム・ターナー)で、ジェラルドがトーマスに、付きあっているガールフレンドとどこで出会ったのかと訊ねる。

「Pale Fireという名の書店だ。店名の由来は…」とトーマスがいうと「ジョン・シェイドの999行詩か。ナボコフの」とジェラルドが続ける。

「そう。珍しい古本が揃ってる。僕の好みに合うんだ。アルバイト店員だった彼女が薦めてくれた本が最高だった」

 何の本だったかは言わないけれど、おそらくジェラルドの本だったにちがいない(トーマスは小説家をめざしているが、ジェラルドが作家だとはまだ知らない)。

 ここでのPale Fireはたんなる文学(衒学)趣味にすぎない。Moby-Dickという名前の書店であってもかまわないけれど、アメリカでもPale Fireのほうが幾分高踏的な感じがするのだろうか。「ジョン・シェイドの999行詩か。ナボコフの」という科白は蛇足だけれど。以前書いたことがあるけれど、ナボコフも『ロリータ』で酒場にウィリアム・ブレイクをもじった名前をつけていた*1

 ジェラルドの書きつつある小説がThe Only Living Boy in New Yorkで、それはトーマスのことだとジェラルドはいう。映画はモノローグが随所にはいり、ストーリーを語ってゆくのだけれど、モノローグはジェフ・ブリッジスすなわちジェラルドの声であり、この物語がすなわちジェラルドの小説そのものだという構造になっている。 

 トーマスの父の若い愛人ジョハンナ(ケイト・ベッキンセール)とジェラルドが、高層ビルからマンハッタンの夜景を並んで見下ろすシーンがある。

 ジェラルドがつぶやく。

「私は高い窓からその街を見下ろす。

 すると巨大なビル群はリアリティを失い、魔術的な力を帯びる。

 無数の窓の四角い光だけが浮かんで見える。これは我々の詩――」

 彼女があとを続ける。

「星々を地に下ろした我々の。――エズラ・パウンドね」

 前回書いた『オリーヴ・キタリッジ』のジョン・ベリマンやロバート・フロスト、あるいは『ミリオンダラー・ベイビー』のイェイツや『レナードの朝』のリルケなど、映画に引用される詩が物語と緊密に結びついて効果を上げている例は少なくないが、この場合はどうだろうか。古書店のPale Fireと同様、やや取って付けた感はいなめない。

さよなら、僕のマンハッタン』は、本来もっとビターなテイストの物語のはずだが、シュガーコーティングされたぶん底の浅い映画になってしまっている。くらべるのは酷だけれど、おなじくサイモン&ガーファンクルの歌を用いた名作『卒業』にははるかに及ばない。

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