アイルランドの飛行士は死を予見する

『幸せの答え合わせ』という映画を見た。2019年製作のイギリス映画で、原題はHope Gap、劇作家でもある監督のウィリアム・ニコルソンが自作の戯曲「モスクワからの退却 The Retreat from Moscow」をアダプテーションしたものだ。「モスクワからの退却」は、…

チャンドラーの小説のある人生――新訳『長い別れ』をめぐって

いささか旧聞に属するけれど、レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』の新訳が出た。訳者は田口俊樹、タイトルは『長い別れ』。ハメットの『血の収穫』、ロスマクの『動く標的』の翻訳に次いで、「ハードボイルド御三家」の長篇に満を持して挑戦…

『雪国』裏ヴァージョン――川端康成『雪国』について(その3)

前述の水村美苗の「ノーベル文学賞と『いい女』」というエッセイには、『雪国』の英訳に関してもう1ヶ所、興味深い指摘があった。島村が駒子に「君はいい子だね」といい、それが「君はいい女だね」という言い方に変わる場面である。ざっとおさらいしておこ…

black and white in the mirror――川端康成『雪国』について(その2)

前回、島村と駒子の「あんなこと」について、思わず筆を費やしてしまった。しかし、ことはまだ終わっていない。肝心の「あんなこと」が小説でどう描かれているのかについて、ふれておかねばならない。 呼び寄せた芸者と一緒に部屋を出た島村は、芸者を置き去…

「あんなこと」や「こんなこと」――川端康成『雪国』について

今年は川端康成の没後50年にあたる。そのせいか、NHKBSプレミアムで『雪国―SNOW COUNTRY―』が放送された(4月16日)。脚本藤本有紀、演出渡辺一貴、主なキャストは駒子が奈緒、島村が高橋一生、葉子が森田望智。奈緒の演ずる駒子は、「清潔な」と称されると…

中野重治の電話

「七年前の春だったと思う、中野重治さんから手紙をいただいた」という書き出しでその文章は始まる。達筆にしるされたその名前は、すぐには「歌のわかれ」の作者とむすびつかなかった。なにごとかと訝しみつつ手紙を開いてみると、あなたの書いた小説「心中…

「群像」10月号を読んでみる(てか、目次をつらつら眺めてみる)

「群像」という雑誌があります。このブログをたまにご覧になるような方なら当然御存知でしょうが、あの「群像」です、文芸誌の。 ふつう、日常会話のなかでグンゾーといっても通じません。「グンゾー?」と訝しげに訊かれて「いや、あの、ほらノーベルショー…

奇才須永朝彦の二著

ユリイカ臨時増刊号『総特集 須永朝彦 1946-2021』が刊行された。今年5月に長逝した歌人・作家須永朝彦の全300頁余を費やしての追悼号である。須永朝彦の名を知る読者がどれほどいるのかわからないが、超の名がつくマイナーポエットには違いないだろう。ほ…

百句繚乱

『百句燦燦』は、塚本邦雄が精選した、というよりも鍾愛する現代俳句百句を掲出し、鑑賞文を附した詞華集で、その講談社文芸文庫版の解説を橋本治はこう書き出している。 「私が書店の棚にある『百句燦燦』を見たのは、二十六歳の秋だった。」 二十六歳とい…

さみしいね。――鴨下信一さんのことなど

脚本家の橋田壽賀子が四月四日に亡くなった。小沢信男さんより二歳年上の1925年生れ、享年九十五だった。新聞の一面に訃報記事が掲載されたのは、脚本家として初めて文化勲章を受章したという経歴によるものだろうか。そのすこし前、新聞記事の扱いは橋田壽…

さよなら小沢信男さん ――あわや一年の更新

このところようやく暖かい日がつづくようになり厚手のコートを薄いブルゾンに変えて外出している。よんどころない「要」があっての外出である。 「今年は三月に入って四日と十二日と二度も大雪が降ったりしたせいか、由美がホクホクやって来て、ぼくを斎藤…

なつかしい文学の味

何ヶ月前のことだったかもうさだかではないけれど、たぶん新型コロナウィルス騒ぎがまだ勃発していなかった頃、金井久美子、美恵子姉妹のトークイベントが金井美恵子の体調不良だったかで金井久美子ひとりのトークショーになったということをネットか何かで…

多田尋子へのエール

山田稔さんを囲むトークイベントを採録掲載した図書新聞が1月4日に発売された。1面から3面におよぶ長文なので立ち読みするのは骨である。興味のある方は御購入もしくは図書館などで御覧いただきたい。 「文藝」の編集者だった寺田博が福武書店で「海燕」…

京都で山田稔さんに会う

山田稔さんの新刊『門司の幼少時代』がぽかん編集室から刊行され、その刊行記念に催される〈「ぽかん」のつどい〉に出席するため、先月の17日、京都へ出かけた。京都の書店・恵文社一乗寺店に附属するCOTTAGEというスペースでの山田さんを囲むトークイベント…

阿部昭の小説を読むには……

阿部昭の新刊が出ていた。このところ外出もせず(べつに謹慎しているわけではないけれど)書店にも御無沙汰で、うっかり見落としていた。文庫版の『天使が見たもの』(中公文庫)と単行本の『阿部昭短編集』(水窓出版)の二冊。阿部昭は、今年が没後30年な…

人生のすぐ隣にある散文――『山田稔自選集 1』

山田稔さんの新刊『山田稔自選集 1』(編集工房ノア)が出た。 既刊のエッセイ集『ああ、そうかね』『あ・ぷろぽ』を中心に、その他の作品集などから選ばれたエッセイおよそ七十篇ほどが収録されている(単行本未収録の作品もわずかながらある)。一篇が3…

誰に見しょとて…… 悼詞・加藤典洋

「ぼくはぼくであることについてはたして自由だろうか?」 ――J.M.G.ル・クレジオ『物質的恍惚』 先月の5月16日、加藤典洋さんが亡くなった。突然のことで、驚いた。新聞の訃報記事に死因は肺炎とのみ書かれていて、肺炎にいたる病がなにかはわからなかっ…

映画のなかのナボコフ

最近みた映画にたてつづけにナボコフが出てきたので「おやおや」と思った。1本はスティーヴン・ソダーバーグ監督の『アンセイン~狂気の真実』(2018)。 全篇アイフォンで撮影されたというサイコスリラーで、ストーカーにつけ回されたヒロインが病院の一室…

われらをショットガンと父親の自殺から救いたまえ

アマゾン・プライムビデオでHBO制作のTVドラマ『オリーヴ・キタリッジ』(2015)を見た。エリザベス・トラウトの連作短篇集13篇から4篇をピックアップした全4話のミニシリーズだが、原作の2話ないし3話からエピソードを取って1話にしたものもある。原作…

戦争のくれた字引き――黒川創『鶴見俊輔伝』を読む

黒川創『鶴見俊輔伝』を読んで、つよく印象づけられたことについて記しておきたい。本来なら鶴見自身の著作に直接あたりなおして書くべきだが、いまその用意がない。暫定的な心覚えとして書いておきたい。 鶴見俊輔は戦後10年ほど経ったころ、「戦争のくれた…

もう少し小津について話してみよう

2018年12月12日、小津の生誕115年、没後55年のメモリアルデイに1冊の本が刊行された。田中康義『豆腐屋はオカラもつくる 映画監督小津安二郎のこと』。 田中康義氏は1930年生れ、松竹で『早春』『東京暮色』『彼岸花』と3本の小津作品の助監督を務め、『ケ…

ちょっと待ってくれ、僕は小津のことを話してるんだ

白洲正子についてはよく知らない。随筆集を何冊か文庫本で読んだだけだ。いずれ腰を据えてじっくり読んでみたいと思っていたが、いずれなどと悠長なことを言っていられる時間の余裕はなくなってしまった。小林秀雄や青山二郎らとの交遊についての随筆はそれ…

憧憬と嫉妬と、少しばかりの軽蔑と――『トニオ・クレーガー』の新訳を読む

トーマス・マンの『トニオ・クレーガー』の新訳が出た。浅井晶子訳、光文社古典新訳文庫。大西巨人の『神聖喜劇』の関連で『トニオ』を再読したのが4年前だった*1。久しぶりに新訳で読んでみたが、行き届いた清新な訳文のせいもあずかってか、前回読んだとき…

ぼくの叔父さん、伊丹十三

鉛筆キャップってあるでしょう? アルミニウムでできてて、キャップっていってもけっこう長いのね。そうねえ、鉛筆全長の3分の2ぐらいはあるかな、長さが。鉛筆って、ちびるでしょ。使ってると、だんだん。で、3センチぐらいになると、持てなくなるわけよ…

なんだなんだそうだったのか、早く言えよ

「なんだなんだそうだったのか、早く言えよ」は、加藤典洋さんの本のタイトルだけど、わたしも時折りそうつい呟いてしまう出来事に遭遇することがある。知らぬは亭主ばかりなり。わたし以外には、周知のことなのかもしれないけれど、立て続けに遭遇したふた…

ちいさな本棚――(その1 詩集の棚)

クラフト・エヴィング商會に『おかしな本棚』(2011年、朝日新聞出版)という本がある。『らくだこぶ書房21世紀古書目録』(2000年、筑摩書房)とともにわたしの大好きな本についての本。『らくだこぶ』については、ずいぶん昔になるけれどネットで書評を書…

「あっと思った」こと――二年半後の『太宰治の辞書』

北村薫さんの『太宰治の辞書』が文庫本になった。単行本が刊行されたときに、「書物探索のつづれ織り」という感想文をここに書いたのがもう二年半前*1。単行本は新潮社から出たけれど、文庫は創元推理文庫です。《円紫さんと私》シリーズですからね、当然で…

われがもつとも惡むもの――高橋順子『夫・車谷長吉』を読む

車谷長吉の小説を初めて読んだのは20年ほど前、たしか1996年前後だったかと思う。当時住んでいた京都市内の図書館の書架で見つけた『鹽壺の匙』(1992)を借り出したのが車谷の小説との最初の出遭いだったはずだ。『鹽壺の匙』は第一短篇集で、芸術選奨文部…

日が暮れてから道は始まる

過日、久しぶりに所用で都心に出かけ、午後すこし時間があまったので古本屋を覗いてみることにした。JR中央線荻窪駅前のささま書店。かつて国分寺に住んでいたころは通勤の帰りに週に一度はかならず立ち寄っていた店だ。百円均一の本を一冊レジにもってゆく…

イッツ・オンリー・イエスタデイ――『騎士団長殺し』への私註

――「おそらく愚かしい偏見なのだろうが、人々が電話機を使って写真を撮るという行為に、私はどうしても馴れることができなかった。写真機を使って電話をかけるという行為には、もっと馴染めなかった」(第2部、283頁) 村上春樹の新作『騎士団長殺し』は、発…