多田尋子へのエール

 

 山田稔さんを囲むトークイベントを採録掲載した図書新聞が1月4日に発売された。1面から3面におよぶ長文なので立ち読みするのは骨である。興味のある方は御購入もしくは図書館などで御覧いただきたい。

「文藝」の編集者だった寺田博福武書店で「海燕」という文藝誌を創刊した。その話の流れで、やや寄り道をするといったていで、わたしは最近多田尋子の『体温』が復刊されて驚いたと述べた。それにたいして、山田さんは次のように応じられている。

多田尋子は当時、雑誌で読んだことがあります。最近、書店で復刊されたのをみてわたしも驚きました。久しぶりに名前を思い出しました。いい作品を書くけど、こういう地味な作風で芥川賞をもらうのは難しいだろうなと思ったことをおぼえています。

 わたしが多田尋子の話を持ちだし、福武書店講談社から3冊ずつ短篇集が出ている、と妙にくわしく言及したのにはわけがある。じつは、わたしはつい1年半ほど前に、たまたま多田尋子を「発見」したばかりだったのである。

 駒田信二編『老年文学傑作選』(ちくまライブラリー、90年)という本がある。ずっと以前、均一本で入手してそのままになっていたアンソロジーで、なにげなく手に取ってみたのが1年半ほど前。目次に並んでいるのは、林芙美子を筆頭に、木山捷平沢木耕太郎尾崎一雄藤枝静男八木義徳耕治人野口冨士男といったいわば定番の面々で、どの作家もわたしに馴染みの人たちだったが、なかに一人、名前は知っているものの作品を読んだことのない作家がいた。それが多田尋子で、収録されているのは「凪」(「海燕」1985年1月号掲載、『裔の子』所収)という作品だった。こんな内容である。

 瀬戸内海の小島に住む70歳をこえた「すぎの」は、納戸で寝たきりの90歳半ばの姑「カウ」の世話をして日々を過している。いまでいう老老介護を描いた作品で、閉ざされた世界での濃密な日常が広島弁のような方言による会話を交えながら坦々と描かれる。

 錚々たる作家たちに伍して多田尋子の作品が選ばれたのは、彼女が駒田信二の小説教室から出てきた作家であるという事情もあるだろうが、それを差し引いても「凪」は選ばれるにたる一種異様な傑作だった。一読感銘を受けた。読みながら今村昌平が監督した『神々の深き欲望』という映画をちょっと思い浮べたりもした。

 もう少し多田尋子の作品を読んでみたくなって、図書館で短篇集『仮の約束』を借り出した。わたしの住む地域の図書館に多田尋子の作品はこの1冊しかなかった。ほどなく『仮の約束』を読み終えたわたしは、インターネットを検索して『仮の約束』も含めてありったけの多田尋子の本を注文した。たちどころに6册の本が手元に集まった。これが多田尋子の全著作だった。みな古本だがいずれも本の状態はよく、しかも驚くほど廉価だった。

 講談社版『体温』の帯には、丸谷才一三浦哲郎の「芥川賞選評」が再録されている。丸谷才一はこう評している。

 多田尋子さんの「体温」に感心した。デッサンが確かでディテイルがいい。筋の運びに無理がないし、そのくせ筋に綾をつけるつけ方がうまい。何しろ地味な作風なので古風に見えるかもしれないが、古くさくはない。むしろ、静かでしかも知的な筆法によつて在来の日本文学をさりげなく批評してゐるとも言へよう。このおだやかで安定した態度は注目に価する。

 多田尋子の小説は6度芥川賞最終候補作になりついに受賞を逸したが、「体温」で5度目の候補になったのがもっとも芥川賞に近かったときで(1991年上期)、この落選はさぞ堪えたにちがいない。このとき多田尋子は59歳、選考委員の三浦哲郎、大庭みな子がともに60歳。同年輩のふたりはすでに一家をなした作家で、それに引替え自分は50歳を過ぎてデビューしたとはいえ、まだ作家としてスタート台に立ったばかりだ。あとどれぐらい書くことができるのだろう。同じく「海燕」でデビューした島田雅彦も6度芥川賞の候補になり、結局受賞することはなかったが、最後の落選の時点でまだ20代だった。多田尋子の落胆はいかばかりだったろう。

 芥川賞選者のなかで一貫して多田尋子を高く評価したのが三浦哲郎だった。「体温」の評も好意的で鄭重だ。

 多田尋子氏の「体温」に強く惹かれた。ここには、八年前に夫を失ってから孤閨を守りつづけている三十も半ばを過ぎた女と、十歳になるその娘との、おおむね平穏な日常が、簡潔で淡々とした、けれども、まさしく体温(2字傍点)のぬくもりを感じさせる気持のこもった文体で静かに写し出されている。小説の文体としてこれ以上オクターヴの低いものがあるとは思えないが、そんなささやきにも似た文体でありながら、読む者の耳に、胸に、実に自然に通って、登場人物の一人々々を鮮やかに書き分け、部屋を貸している女子学生たちとのやりとりを闊達に描写し、自分との再婚を望んでいる亡夫の元同僚の一人との情事も過不足なく描いて、人生を色濃く感じさせる。

「孤閨を守りつづけている」なんてところが時代を感じさせるが、これだけ褒めるならあげてほしかったなあ、芥川賞。もし受賞していれば、多田尋子の作家としての人生はもっと違ったものになっていただろう。「体温」は「群像」1991年6月号に掲載。単行本収録作でもっとも古いのが先にあげた85年の「凪」で、その後コンスタントにキャリアを積み、89年には3度目の芥川賞候補作「裔の子」を含む5作を発表。90年には4作、91年には3作(うち2作が芥川賞候補作)。つまり脂の乗り切った頃合いだったわけで、これで取らないでどうする(と、いっても詮ないことだけれど)。

 このたび27年ぶりに書肆汽水域から復刊された『体温』は、新たに編集されたもので、収録作は「体温」「秘密」「単身者たち」の3作。後者の2作はいずれも2冊の短篇集の表題作で、「単身者たち」は芥川賞の候補作。つまり選り抜きのアンソロジーというわけで、紅と濃藍を基調にした鮮やかなカバーとともに気迫を感じさせる復刊である(講談社版『体温』の収録作は「やさしい男」「焚火」「オンドルのある家」「体温」の4作)。この本で初めて多田尋子の作品にふれたという読者も多く、おおむね好評をもって迎えられているようだ。

 トークイベントが終了したあと、年輩の女性がわたしに近づいてきて「さっきお話になった『体温』という小説はどこで売っていますか」と尋ねられた。もちろん恵文社では平積みになっていたので、その旨お伝えした。話してよかったと思った。

 最後に、多田尋子への三浦哲郎のエールを引いておこう。

多田さん、新味がないなどという批判に動揺してはいけません。新味なんて、じきに消えてなくなるものです。あなたのこれまでの人生の消えない真実をためらわずにお書きなさい。それが本当の小説というものなのですから。

 多田尋子の作品については、いずれまた稿を改めて書いてみたい。

 

体温

体温

  • 作者:多田 尋子
  • 出版社/メーカー: 書肆汽水域
  • 発売日: 2019/10/25
  • メディア: 単行本