京都で山田稔さんに会う

 

 山田稔さんの新刊『門司の幼少時代』がぽかん編集室から刊行され、その刊行記念に催される〈「ぽかん」のつどい〉に出席するため、先月の17日、京都へ出かけた。京都の書店・恵文社一乗寺店に附属するCOTTAGEというスペースでの山田さんを囲むトークイベントで、聞き手は「ぽかん」の寄稿者である澤村潤一郎さんとわたし。司会を恵文社一乗寺店の能邨陽子さんがつとめられた。澤村さんは先般門司を訪ねられた由で、もっぱら山田さんと門司とのかかわりについて質問され、わたしはおもに「文藝」「海燕」などの文芸誌や編集者との交遊について質問をした。

 山田さんの最初の著書は『スカトロジア――糞尿譚』(1966)だが、二作目の『幸福へのパスポート』(69)が小説のデビュー作となる。これは66年から67年にかけて山田さんがパリに留学していた際に、同人誌「VIKING」へ「フランス・メモ」という総題で寄稿した文章を書籍化したもので、埴谷雄高の推輓で河出書房新社から刊行された。前々回『山田稔自選集 1』にふれて「人生のすぐ隣にある散文」という文章を書いたが、そこで述べた小説や随筆といったジャンルにおさまらない/こだわらない山田さんの文章の特質がすでに、ほとんど完成した形でここにあらわれている。

 だがその後の70年代のおよそ十年間、山田さんの小説のスタイルは、いわゆる小説らしい小説に向かうように見える(『教授の部屋』72『選ばれた一人』72『旅のいざない』74『ごっこ』76等々)。そして、80年になって再度パリより「文藝」に寄稿した連作『コーマルタン界隈』(81)によって、山田さんは「散文芸術」への「帰還」をはたす。この十年の「彷徨」が何に由来するのかがわたしの長年の疑問だった。わたしはその疑問を、非礼を顧みず山田さんに投げかけた……。このトークイベントは「図書新聞」に採録されて新年早々に掲載されるそうなので、山田さんとのやりとりの詳細はそれをお読みいただきたい。

 会場では、持参した広津和郎の本から「散文芸術の位置」というエッセイの一節を紹介した。「新潮」1924年9月号に掲載された文章で、以前から所持していた『広津和郎集』(現代知性全集44巻、日本書房、1961年)にたまたま収録されていた。広津はそこで、有島武郎が提示した「自己の芸術に没頭し切っている」芸術家と、「自己の生活とその周囲とに関心なくして生きられない」芸術家について論じつつ、芸術を音楽、美術、詩、散文……と区分けして、「散文芸術」が「一番人生に直接に近い性質を持っている」と述べる。

近代の散文芸術というものは、自己の生活とその周囲とに関心を持たずに生きられないところから生れたものであり、それ故に我々に呼びかけるところの価値を持っているものである。云い換えれば、武郎氏の所謂第二段の芸術家の手によって、始めて近代の散文芸術が生れているのである。

 このふたつの芸術家のタイプの分類は、以前書いたトーマス・マンの『トニオ・クレーガー』の芸術家論を思わせもする。

 広津はさらにいう。

結局、一口に云えば、沢山の芸術の種類の中で、散文芸術は、直ぐ人生の隣りにいるものである。右隣りには、詩、美術、音楽というように、いろいろの芸術が並んでいるが、左隣りは直ぐ人生である。

 おそらく広津和郎の念頭には愛読したチェーホフの小説があったにちがいない。それとともに、「散文精神について」(昭和13、4年頃の講演、同書所収)で、林房雄を批判して「どんな事があってもめげずに、忍耐強く、執念深く、みだりに悲観もせず、楽観もせず、生き通して行く精神――それが散文精神だと思います」と述べているように、ロマン主義批判でもあったのだろう。

 広津和郎の散文芸術に関するエッセイは、昨年復刊された『散文精神について』(本の泉社)で読むことができる。

 

 トークイベントで編集者との交遊について質問することはあらかじめ決めていた。時間がゆるせば取り上げたいと、山田さんの友人であった杉本秀太郎大槻鉄男に関する話題も用意していたが、話しそびれたのでここに書いておきたい。

 杉本秀太郎が『散文の日本語』(中央公論社のシリーズ「日本語の世界」)の原稿を執筆していた時のこと(1970年代の終り頃)。共著者の大槻鉄男は原稿を書き上げたのに(その半年後の79年に亡くなる)、杉本はなかなか書けない。担当編集者の和田恒(ひさし)が業を煮やして三日に上げず催促の電話をかけてくる。杉本はついに「デンワカケルナ」という電報を打った。折り返し、和田から怒りの手紙が届く。ひと月後、上京した杉本は入院している和田を見舞った。「電報のおわびを心のなかでつぶやきながら」。

それから一年余りして、編集の仕事から離れたまま、和田さんは亡くなった。「散文の日本語」は、その三箇月のちに出版されたのだった。

 和田恒が執拗に催促の電話をかけたのは、重い病で入院することがわかっていたからにちがいない。入院するまでになんとか形を整えておきたい、そう思ったからだろう。

 この「電話と電報」という杉本の文章は、『和田恒追悼文集 野分』(私家版、81年)に収録され、エッセイ集『西窓のあかり』(筑摩書房)に再録された。

 和田恒は1931年生れ、東京都立大学に入学後まもなく日本共産党に入党、破防法反対闘争に加わる(六全協の翌年あたりに離党か)。修士修了後、高校教員を経て、58年中央公論社に入社。井出孫六らが同期だった。「思想の科学」の編集に携わり、谷川雁『工作者宣言』、山口昌男『本の神話学』などの編集も手がけている。亡くなるまでの二十余年の編集者生活で「世界の名著」シリーズをはじめ、いかにも中公らしい本を多数手がけた。クロス装・貼函入りの300頁余の追悼文集には著名な作家、学者たちの寄稿も少なくない。 

 ちなみに知子夫人も同期入社の中公の編集者で、一昨年『遠い思い出 室生犀星のこと』というエッセイ集を龜鳴屋から刊行された。トークイベントには龜鳴屋主人も来場していたので、この話を紹介できなかったのがいささか心残りである。

 

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