2007-01-01から1年間の記事一覧

老を言はむや――岩本素白の随筆(その2)

前回いただいたコメントに、「若い頃は齢をとればもっと楽に生きられると思っていたが間違いだった」とお返事を書いて、これは誰かの口真似のようだなあと頭の片隅で気にかかっていたが、おおそうだった、空穂だった。 老いぬれば心のどかにあり得むと思ひた…

生き難い世に生きる――岩本素白の随筆

というわけで山川方夫の告別式に参列したヤマチューさんの話をつづける予定だったが、今回ちょっと寄り道をして、急遽べつの話柄に振り替えたい。ここを訪れてくださるfew or soの読者の方々にご海容をお願いする次第。すでにここでは何度か触れたけれども岩…

巻措くあたわざる『日活アクション無頼帖』

さて、その『日活アクション無頼帖』であるけれども、坪内祐三が「無茶苦茶面白い」というのは別段オオゲサでもなんでもない。この本を評するに余人をもってしてもそれ以外に書きようがないのであって、帯の<カルトムービー『野獣の青春』『危いことなら銭…

坪内祐三の『四百字十一枚』を拾い読みしていたら到頭全部読んでしまった

坪内祐三の『四百字十一枚』(みすず書房)をあちこち拾い読みしていたら到頭全部読んでしまった。「ちょっと長めの書評」と帯には書いてあるけれど書評というよりはむしろ読書エッセイというべきであって、というのは一冊の本を紹介したり評価したりという…

『読む人間』あるいは『けものたち・死者の時』

ピエール・ガスカールの『けものたち・死者の時』が岩波文庫で出た。元版の単行本が出たのが一九五五年だから半世紀以上経っての文庫化ということになる。稀有な例ではないだろうか。「けものたち」短篇六篇のうち、佐藤朔が三篇訳し、渡辺一夫・二宮敬が残…

看板とお絞り、あるいは、霜の針

カフカについてはまだ書き足らないが(いくら書いても書き足らないだろうが)、気分を変えて今朝の新聞を読んでちょっと気になったことを書いておきたい。 朝日新聞書評欄のトップに、ジャック・デリダの『マルクスの亡霊たち』の書評が掲げられている。評者…

巣穴あるいは出口に関する考察――わたしのなかのカフカへ(その2)

もうすこしカフカをつづけよう。 カフカに「巣穴」という作品がある。「歌姫ヨゼフィーネ」とともにカフカ最晩年の作品である。原題はDer Bau 。Bauには建築、建物、構造、巣穴、それに営倉という意味もある。邦訳では「巣穴」が一般的のようだが、新潮社の…

わたしのなかのカフカへ

ふしぎなものだな、と思う。前回、前々回とカフカについて書いたら、わたしのなかでカフカがかふかに、じゃなかった、かすかに動きだした。まるでアニメートされたゴーレムのように。 ひところ、カフカに凝っていた。新潮社版の邦訳全集旧版と新版、それにカ…

カフカ翻訳異文 その2

さて、光文社古典新訳文庫の『変身/掟の前で 他2編』を読んで本当にびっくりしたのは、訳者あとがきに指摘されていた次のような事実であった。 光文社文庫収録の短篇「判決」に、こういう箇所がある。 「ぼくはほんとうに幸せだ。そして、君との関係もちょ…

カフカ翻訳異文 その1

おどろいた。いやあ、そうだったのか。ふうん。というようなことは、何かにつけて無知な私には日常茶飯事であるけれども、いや、これにはびっくりした。 カフカの短篇が丘沢静也さんの新訳で出たので買ってきた。『変身/掟の前で 他2編』(光文社古典新訳…

「落合秋草堂」掌録

古本の世界は面白い。 たまたま通り掛った古本屋に探している本がありそうな予感がして店へ入るとちゃんとある。電車のなかで読んでいた本に面白そうな本が紹介されていて読みたいと思い、電車を降りて古本屋へ入るとその本が棚に並んでいる。そういう経験に…

上林暁と関口良雄

上林暁に『随筆集 幸徳秋水の甥』という本がある。昭和五十年(1975)に新潮社から刊行されたものである。何年か前、私はこれを古書店で購った。函入りの上製本で、パラフィンも残っている。見返しに「うすうすとこんにゃく色」に色褪せた新聞の切抜きが二葉…

十字架をうつしづかなる釘音きけり――塚本邦雄論序説(10)

「もともと短歌といふ定型短詩に、幻を見る以外の何の使命があらう」。この有名なマニフェストを塚本邦雄が高らかに宣したのは昭和三十九年、雑誌「短歌」に寄せたエッセイ「短歌考幻学」においてであり、それはのちに「前衛短歌のバイブル」と評される第一…

ただわびすけといふは冬の花――塚本邦雄論序説(9)

卓上に旧約、妻のくちびるはとほい鹹湖の暁の睡りを 歌誌「玲瓏」第六十号(2005年2月)の座談会<『水葬物語』それ以前>*1において林和清は、塚本邦雄の上掲の歌に対する杉原一司の「何という有機的な語の配分だろう」「意味と感覚の交錯の中の叙情か」と…

許すべきなにもなけれど――塚本邦雄論序説(8)

下条義雄(げじやうよしお)の第一歌集『春火』を読む。昭和二十五年十月二十五日、青樫発行所刊行。 刊行の翌年、邦雄は「青樫」(昭和二十六年四月号)にこの歌集の書評を書いてゐる*1。タイトル「瞬歌」はいかにも言葉遊びの好きな塚本らしいが、後年の、…

新しき帽子の翳に――塚本邦雄論序説(7)

昭和二十二年(1947)、青年邦雄は「オレンヂ」に入会する、と年譜にある*1。「オレンヂ」は前年の昭和二十一年十一月に創刊された歌誌。前川佐美雄が昭和九年に創刊した「日本歌人」が昭和十六年八月号をもつて休刊し、戦後、名を変えて創刊したもので*2、…

さむるなき死の夢にしあれよ――塚本邦雄論序説(6)

手元に一冊の古ぼけた歌集がある。表紙や奥付には「春の祝祭」とのみ題されてゐるが、打ち函の題簽や本体の背には「青樫第一合同歌集」との表記が見える。昭和十五年九月二十五日発行、発行所は大阪府豊能郡の青樫社。 本歌集は、昭和十二年五月の創刊号より…

あとかたもなくひびきやみぬる――塚本邦雄論序説(5)

「今は昔、その旗幟に「新芸術主義」を謳ひ、一部の人々に匿れた宝石のやうな、冷やかな情念の輝きを惜愛された短歌グループがあつた。昭和十五、六年をピークとして全き燃焼をとげ、戦争を境として次第にその熱と光りを喪ひ、今は行方もつまびらかにしない…

かなしみを刺す夕草雲雀――塚本邦雄論序説(4)

先述の現代詩手帖特集版「塚本邦雄の宇宙」に永田和宏が「塚本年譜の意味」なるエッセイを寄せてゐる。永田は、かつて「國文學」に掲載された政田岑生編の塚本邦雄年譜を目にして、大きな衝撃を受けたといふ。それまで塚本の来歴はほとんど謎に包まれてゐた…

皐月待ちゐし――塚本邦雄論序説(3)

塚本邦雄はいかにして塚本邦雄となつたか。『水葬物語』でデビューを果たすまでの邦雄の足跡をたどりながらそれをいくらかなりとも明らかにしてみたいといふのが本論の意図であるのだが、書き始めてある困難に逢着することになつた。邦雄の閲歴にかかはる真…

眠る間も歌は忘れず――塚本邦雄論序説(2)

昭和十七年夏、二十歳の誕生日を迎へたばかりの塚本邦雄は、広島は呉海軍工廠に徴用された。彦根高等商業(いまの滋賀大学経済学部)に学籍を持つ故にか会計部に配属されたが、もとより商ひに志したわけではない。学校はただの方便、青年邦雄の興味は文学、…

言葉のユートピア――塚本邦雄論序説(1)

戀に死すてふ とほき檜のはつ霜にわれらがくちびるの火ぞ冷ゆる おおはるかなる沖には雪のふるものを胡椒こぼれしあかときの皿 馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ ――「花曜」、『感幻楽』より 塚本邦雄が生涯に遺した膨大な短歌のほ…

わが忘れなば――小沢信男と花田清輝

小沢信男『通り過ぎた人々』(みすず書房)を読む。小沢さんが新日本文学会で出会った人々との交遊を綴ったエッセイ。見出しに掲げられた十八人の文筆家たちはすべて鬼籍に入った人たちで、そういった意味で「いまは亡き新日本文学会への私なりの追悼記」(…

『映画の呼吸――澤井信一郎の監督作法』を読む

『映画の呼吸――澤井信一郎の監督作法』(ワイズ出版)を読む。 グラフィックデザイナーで見事な映画批評の書き手でもある鈴木一誌さんが、澤井さんにインタビューして纏めた本。昨年十月に刊行された本だが、ようやく読むことができた。澤井さんの手がけた全…

美(くは)しきものはいのち短し

某月某日 さる雑誌のために村上春樹の新訳『ロング・グッドバイ』の書評原稿を書く。読みながら何度も清水俊二訳『長いお別れ』を参照する。つい参照しないではいられないほどの目覚しい刷新ぶり。『大いなる眠り』(双葉十三郎訳)を除くチャンドラーのほと…

一茎の花――火の雉子、水の梔子(その2)

前回の「火の雉子、水の梔子」に、藤原龍一郎氏よりコメントをいただいた。<叢書 火の雉子>の『堕ちたる天使』の歌人は、藤原さんのご指摘のとほり栗秋さよ子である。栗秋さよ子の名を記憶してゐる人は、歌人のなかにもさうはゐまいと思はれる。試みにイン…

火の雉子、水の梔子

先頃法事で田舎へ帰つた。両親ともに他界し、生家に私の居処はもはやない。学生時代に買ひためた本だけが、かつて私がそこにゐた証しのやうに埃をかぶりつつ場処を塞いでゐる。いまの私の手狭な棲まひにこれ以上よけいな本を置く余裕はない。生家に置き去り…

ぼくの弟が銀河を発見する――バリー・ユアグローに

ぼくの弟が銀河を発見する。弟はいつものようにちょっと得意そうな顔でぼくの顔を見上げて報告する。 「昨日の夜、新しい銀河を見つけたんだ」 弟は毎晩夜空を眺めている。晩御飯を食べおわると自分の部屋へ行き、就寝時間になるまで夜空を眺めて飽くことが…

愛ルケと戦メリ

愛ルケ、と言うんである。愛の流刑地。このカジュアルな略称は、重々しく通俗的なタイトルの気恥ずかしさを軽やかに中和する効用がある。いずれにしても軽薄な感じがすることに違いはないけれども。山田風太郎の「流刑地の猫」ならルケ猫か。 人名を、たとえ…

猫町異聞

その頃、わたしは失業中だった。毎日あくせくと働くのがいやになり、独り身の気楽さもあってすっぱりと仕事を辞めた。僅かばかりの蓄えと失業給付をちびちびと費消すれば一年ぐらいは働かずにすむと算段したら会社へ行く気などたちまち失せていた。これで満…