『読む人間』あるいは『けものたち・死者の時』


 ピエール・ガスカールの『けものたち・死者の時』が岩波文庫で出た。元版の単行本が出たのが一九五五年だから半世紀以上経っての文庫化ということになる。稀有な例ではないだろうか。「けものたち」短篇六篇のうち、佐藤朔が三篇訳し、渡辺一夫・二宮敬が残りの三篇と中篇「死者の時」を共訳したもので、渡辺一夫が書いた単行本のあとがきが収録されているが、文庫化に際してのあとがきはない。三人ともすでに故人だからだ。
 この小説は、まだ学生であった大江健三郎が――大江は渡辺に教わるために東大の仏文を志したのである――小説を書き始める際に手本としたことで知られる。大江自身そのことについて何度も触れているが、七月に出た『読む人間』(集英社)という連続講演をおさめた本でも次のように語っている。
 大江は「けものたち」の中の短編「馬 Les Chevaux」を、原文と翻訳とをノートに写して勉強した、という。軍隊に召集された主人公ペールが、夜っぴいて馬の番をしている場面で、


「“Peer ne se sentait pas seul au sein de cette nuit.”
 先生は、「夜の闇のただなかにいるのに、ペールは一人ぼっちだとは感じなかった。」と訳していられます。
 原作の「au sein de」という前置詞のなかの「sein」は、もちろん胸です。「お母さんの胸」なんていうあの「胸」ですが、「au sein de」という言い方を「ただなかに」と訳されているのを、ちょっと不思議な訳し方だと私は思ったのです。」


 大江が研究室から大きなフランス語の辞書を借り出して引いてみると、そこには、古い用法では「だれだれの内懐に抱かれている」「真只中に」、現代の慣用では「部屋の内側に」「ポケットの内部に」のように用いると書かれていた。渡辺一夫は、ガスカールの現代小説を訳す際にその部分をあえて古い用法に依った。大江は「この人はフランス語を語学的にこうだからと訳すのではなくて、ちゃんと自分で日本語の文体をつくるつもりで、そうした工夫をする人なのだ」と思ったと述べている。
 そしてまた、戦争という「嵐」に同胞とともに耐え忍ぶペールの思い、cette immense communionを「宏大な共生感」と訳した渡辺に、「(共生という言葉がまだ一般的でなかった時代に)このようにして言葉、表現を作ってゆくのが先生の翻訳だ」と思い、「このやり方で自分も小説を書いてみようと思った」と語る。
 大江の初期の小説の文体が翻訳小説のようだと評されたことはよく知られている。大江は小説を書くにあたって、まず、いかに書くかを考えた。フランス語の小説とその翻訳とを参照することで「自分の書くべき小説の言葉について」考えた、という。


「フランス語の表現は、今までの日本語にない言葉の使い方だけれど、このように訳してもらうと、自分にもそれを理解することができる。そうであるならば、自分も、いま考えていることを、このような形で新しい日本語に作って書きつけてゆけば、小説を書くことができると思ったのです。」


ここには、カフカの項でふれたように「自国語を外国語によって激しく揺さぶる」(パンヴィッツ)ことによって日本語の表現を更新してゆこうとする小説家の姿がある。そうして作り上げた小説が「奇妙な仕事」である。


「附属病院の前の広い鋪道を時計台へ向って歩いて行くと急に視界の展ける十字路で、若い街路樹のしなやかな梢の連りの向うに建築中の建物の鉄骨がぎしぎし空に突きたっているあたりから数知れない犬の吠え声が聞えて来た。風の向きが変るたびに犬の声はひどく激しく盛上り、空へひしめきながらのぼって行くようだったり、遠くで執拗に反響しつづけているようだったりした。」


「奇妙な仕事」冒頭の一パラグラフである。街路樹の梢の若々しい緑と建築中の赤茶けた鉄骨、空に向って「ぎしぎし」と突き立つ鉄骨と風に翻弄されつつ「ひしめきながら」空へと昇って行く犬の遠吠え、うねるような長いセンテンスでこうした対比を肉感的に描写してゆく文体がめざましい。次に「馬」の冒頭を掲げてみよう。


「嵐は、一時間ほども前のこと、日も暮れかけた頃には、まだ轟きこそしなかったが、東の空に湧き出ていて、夜の闇を深めていた。ペールが、自分の頭の上のほうにあると思っていた木の葉の繁みは、ひっそり静まり返っていたし、さもなくば、ゆっくり吹く風に、長い間を置いて思い出すように、目を覚ますだけだったが、その風は、音階(ドレミファ)でも奏でるような音を立てながら野面を馳せめぐり、音楽の陶酔とか霊感の戦慄とかに近い、地上の現実からはほとんど逸脱した気持を起させるのだった。」


 大江がいかにして自分の文体を獲得していったかが窺えるような文章である。渡辺一夫は「あとがき」にこう記している。


「ガスカールの文章の特異性は、その形容語の用い方、文脈の長さにも感ぜられるが、客観的な描写の一角に、いつの間にか、極めて主観的な幻(ヴィジョン)が溶けこんできている場合があることであり、平明だった描写が急に霧に包まれるような感じになる。しかし、その霧のなかには、ガスカールの最も個人的な、最も彼のもの(四字傍点)である世界の放射能が含まれている。この霧が晴れた後の描写は、一見平明単一でも、もはや放射能を受け、眼に見えぬ光でぎらぎら光り、我々に異常な傷痕を残す力をすら持っている。訳者として、一番困却したことは、この放射能を持った霧に譬えられる文章をいかにして日本語へ移すかということだった。」


 大江の関心は「この放射能を持った霧に譬えられる文章」を日本語としていかにして創り上げてゆくかということにあった。大江は恩師渡辺一夫に本の読み方を教わったと語る。それは、「三年ごと、新しく読みたいと思う対象を選んで、その作家、詩人、思想家を集中して読むという方法」である。そして彼らの本に影響されて「新しい言葉の感覚」を発見するのだという。「そのようにして私は小説を、三年ごとに自分の文体を変えていくという仕方でやってきたように思います」。
 大江の新しい文体は、ときに難解であると批判され、canonとしての「美しい文体」、すなわち「自国語の偶然的状態」(パンヴィッツ)をあくまで保持しようとする人々からは「悪文」と非難されたりもした。だが、自分の文章に安住せず、そうしてつねに新たに文体を更新してゆこうとする小説家は稀である。長年愛読している小説家は少なくないけれども、貴重な、大切な小説家として思い浮べることのできる小説家はそう多くはいない。大江健三郎は、そうした数少ない小説家のひとりとしていまなお、私に、ありつづけている。