突風のようなものになぎ倒されること――岩城けい『さようなら、オレンジ』再説




 岩城けいの『さようなら、オレンジ』は今年度の太宰治賞を受賞した小説である。選考委員たちがこの作品をどのように評しているのかと思い、太宰賞を主催している筑摩書房のサイト *1をのぞいてみた。
 選考委員は、加藤典洋荒川洋治小川洋子三浦しをん、の四氏。それぞれの選評のうち、わたしの感想にもっとも近いのは加藤典洋のものだった。
 「日本語の文章は、武骨で素朴だが、原石のたたずまいがある」「外国に住む日本人が書く、日本語の小説。とりたてて文章としても「うまい」という感じはなく、どこか非日本人の書いた日本語というニュートラルな感じがある」
 加藤のこうした感じ方はわたしのそれと同じである。加藤は最後にこう書いている。
 「ざっと何か突風のようなものになぎ倒されること。/そういう経験が、この小説の背骨になっている。この小説の皮膚は最近の化粧をしない女性の顔のように、手入れされてなく、荒れているのだが、そのことがかえって、この小説の新しさなのかもしれない」
 この小説のよいところは、突風のようなものになぎ倒された経験を内省し充分に思考しつつ、その衝迫力を薄めることなくそのまま読者へと手渡すことができている点にある。前回、わたしが書いたように「文章に鉋をかけてなめらかにする」と、作者の経験の「強度」が失われてしまいかねない。だから意図的にこうした文体を選んだのかもしれないと思ったのだが、どうだろう。
 ちなみに、加藤のいう「化粧をしない女性の顔のように、手入れされてなく、荒れている」という比喩は適切だろうか。むしろ化粧をした女性の膚のほうが荒れているという場合が往々にしてあると思うのだけれども。おそらく「素肌(一種の荒削りさ)」に、はっとさせられたということなのかもしれない。


 さて、「ここでどうしても触れておかなければならないのは、視線の送り手が、作品の中に登場している点だ」と小川洋子が書いているのは、前回わたしの書いた「二つの物語はじつはひとつの物語である」という構成に関わっている。
 「日本人サユリは、自らも言葉の壁に苦しみつつ、更には子供を亡くす不幸にも見舞われながら、ナキチをサリマとして描き出す決意を固める。その過程が手紙の形で挿入されるのである」
 サユリが恩師に宛てた手紙とサユリの書いた小説とが交互に登場する。小川は「一歩間違えば破綻しかねない手の込んだ構造なのだが、全体を見通してみると、この書き方でしか成立しない物語なのだと納得させるだけの力を備えているのが分かる」と書いているけれども、それほど「手の込んだ構造」というわけではない。小川はつづけてこう書く。


 「サリマ(ナキチ)とハリネズミ(サユリ)、二人の苦悩が重なり合い、響き合うことで、言葉に関わる闇の密度がいっそう濃く立ち現れてくる。また、日本人がアフリカ難民の女性を日本語で描くという不自然さが、書き手の事情を取り込む大胆さによって解消されている。サユリの精神の根源を震わせるほどのサリマの美点、言い訳を知らない粘り強さや、人それぞれの使命を見抜く賢明さは、母国語によってしか表現できない。母国語とはつまり、精神の土台そのものなのだ」


 サユリは恩師への手紙で、職場で出会ったアフリカ人女性ナキチについて語る。サユリの書いた小説では、ナキチはサリマという名前で登場し、サユリ自身は、サリマの名づけたあだ名ハリネズミという名前で呼ばれる。つまり、もうひとつの物語は、「事実をもとにしたフィクション」であるということになる。
 作者である岩城けいは日本人だが、そのことはこの小説にとって重要ではない。たとえば、カズオ・イシグロはイギリス人であるけれども、日本人を主人公にした小説を英語で書いてもいっこうに不自然でないのと同じように。だから小川のいうように「日本人がアフリカ難民の女性を日本語で描く」ということは、珍しいけれどもなんら「不自然」なことではない。
 ここにあるのは、日本人が恩師に宛てた手紙(おそらく英語で書かれたものが、日本語で表現されている)と、その日本人が日本語で書いたアフリカ難民の女性の物語とが交互に登場する、という小説であり、それ以上でもそれ以下でもない。それが、「不自然」であるとか、「一歩間違えば破綻しかねない手の込んだ構造」であるとか、といったふうに感じられるにはそれなりの理由があるのだろう。
 それがいささか極端な形で表われているのが、三浦しをんの選評である。わたしはこの選評を読んで大いに首をかしげたのだが、この批評のどこがヘンなのかをじっくりと考えてみたいと思ったのがこの文章を書くにいたった動機である。
 三浦は長い選評の三分の二以上をつかってこの小説の「構造」について言及している。選評は先述した筑摩書房のサイトを参照していただければ読むことができるのだけれど、論を進めるうえで引用は不可欠である。かなり長い引用になるがあらかじめお断りしておく。


 三浦は選評でこの小説の美点をいくつも数え上げたのち、「技巧に対してどこまで作者が自覚的なのか、気になる点もあった」として以下のように書いている。


 「本作は最後の最後で、メタ構造であることが明らかになる(具体的には、登場人物の一人であるサユリが書いた物語だと判明する)。それを踏まえて考えると、途中で差し挟まれる二通のメールが英文のままである根拠がよくわからない(いくつか理由を想像しようと思えばできるが)。読んでいる最中は、メールが英文なのは効果的だ。しかし、メタ構造であると考えれば、「なぜここだけ英文?」と、やや違和感がある。サユリがジョーンズ先生に宛てた手紙(もとは当然英文だっただろう)が、日本語に翻訳された形で読者に提示されるから、なおさらだ。だいいち、サユリはジョーンズ先生宛の手紙の下書きかコピーかを、わざわざ手もとに残しておいたのだろうか。それとも、「こんな手紙を先生に出したっけ」という記憶をもとに、内容を日本語訳して再現したということだろうか」


 三浦が書いているように途中で二通のEメールが英文で登場する。この点については加藤典洋もこう書いている。


 「途中、二度、英文のメールが挿入される。そのことに、これはどうか、という疑問が出された。英語の先生への手紙が日本語で書かれている。ここだけ英文なのはたしかにおかしい。でも、これは、日本語では書けない。書き手はそう思ったのだろう。そう感じさせる力を、この小説はもっていた」


 恩師(ジョーンズ先生)への手紙が郵便なのかEメールなのかはわからない。だがこの二通のEメールは、メール画面の引用という形をとっている。画面の引用という形式が英文表記を必然としたのだろう。ここでは英文のままであるかどうかよりも、メール画面の引用がこの小説にとって効果を上げているかどうか、という問題になるだろう。これはべつの問題系に属するのでここでは述べない。わたしが三浦の批評で引っかかったのは次のくだりである。
 「サユリはジョーンズ先生宛の手紙の下書きかコピーかを、わざわざ手もとに残しておいたのだろうか」
 なぜこういう疑問が生じたのか、すぐにはわからなかった。すこし考えて「ああそうか」と腑に落ちた。三浦は、「ジョーンズ先生宛の手紙」もサユリの書いた小説の一部であると考えているのだろう。「内容を日本語訳して再現したということだろうか」という疑問を呈していることから考えると、そう取らざるをえない。
 三浦は上記の引用部分につづけてこう書く。


 「率直に言おう。メタ構造だとラストでわかった時点で、「じゃあこの話は、いろいろつらいこともあったけれど、周囲のひとから励まされ、『きみには才能がある』と言われ、『そうかも』と思ったサユリが書いてみた小説ってことなのか」と、少々鼻白む思いがなくもなかった。つまり、サユリ万歳をサユリ本人が小説にしたということで、どんだけおめでたいんだサユリ。サリマやオリーブの物語、私が渾身で応援した登場人物たちは、すべてサユリがサユリを讃えるための駒に過ぎなかったのか。意地の悪い見かただが、メタ構造にしたことで、そう読まれてしまう余地が生じているのではないかと危惧される」


 「率直に」いって、三浦がなぜこうした感想をもつにいたったのかがよくわからない。口をとがらせて言い募っているふうなのだが、作者である岩城けいもこれにはきっと困惑したにちがいない。もうすこし先を読んでみよう(かなり長い引用になるけれども)。


 「同様のことは、サリマの名が本当はナキチだと明かされる点についても言える。これによって本作のメタ構造が決定的になるわけだが、私は疑問を禁じ得ない。母語以外が使用される土地で暮らす苦労、そのなかでもう一度母語について考え、異国語を習得する過程で母語を獲得しなおす、という展開にもかかわらず、サユリはサリマから本名を剥奪する。物語を紡ぐ(この小説を書く)ために、だ。いくらナキチという名が、「食べ物がない」という意味だからといって、これはあんまりではないか。ナキチの両親が、ナキチのために、部族の言葉と文化風習に基づいてつけた名前だろう。サユリは本当に、「人間と言語」について考えたのか?ナキチをはじめとする人々は、おまえ(サユリ)が自己実現の一手段として物語を書くために存在するのではないぞ、ごるぁ。読者(少なくとも私)にそう思われてしまう隙が、メタ構造にしたことによって生じたと感じるのである。もっと言えば、ナキチの名がサリマに変更されたのは、サユリとサリマのイニシャルを同じ「S」にし、序盤での手紙の差出人がだれなのか、読者の興味を惹くための、サユリ(および著者のKSイワキ氏)の計算ではないかとも思える。重ねて言うが、登場人物は作者(メタレベルでの作者および現実レベルでの作者)の駒として存在するものではないはずだ」


 「サユリ(および著者のKSイワキ氏)の計算」(KSイワキはこの小説が太宰賞に応募された際の筆名)というところから察するに、三浦はこの小説「さようなら、オレンジ」を書いたのはサユリ=岩城けいであると考えているようだ。「サユリ」という名とおなじく「ナキチ」という名も、岩城けいの創作であるという可能性について、ちらとも考えなかったのだろうか(ちなみに「サリマ」という名の由来は、この小説の最後、サユリの手紙のなかで明かされる。清水良典は「この名前の仕掛けも心憎い」と評している*2)。小説家にむかってこういうのもなんだけど、三浦は現実と小説との関係についてなにか勘違いをしているのではないだろうか。「メタ構造」についても。
 ちょっと整理してみよう。
 「さようなら、オレンジ」には二つの階層がある。つまり三浦のいう「メタ構造」である。
 サユリが(日本語で)書いた小説、これを「サリマのstory」(A)としよう。「サユリが恩師に(おそらく英語で)書いた手紙」を(B)、さらに(B)のなかで語られる「ナキチのstory」を(C)としよう。
 時系列としては、(B)(Cをその内容に含む)の終わったあとに(A)が来る。(C)を日本語で書こうと決意したのちに(A)が書かれるからだ。
 さて、「サリマのstory」(A)は「ナキチのstory」(C)をもとにしたfictionである。そして(C)を含む「サユリの手紙」(B)は事実である。登場人物サユリにとっては事実だが、「さようなら、オレンジ」という小説にとっては、(B)は事実そのものではなく「事実であるというfiction」である。つまり、(A)と(B)及び(C)とは階層がちがっている。「メタ構造」とはそういうことである。さらにいえば、この小説の「外」に作者岩城けいが体験した(B)及び(C)の元になった事実がある(かもしれない)。「事実であるというfiction」をもとしたfictionが入れ子のように入っているため、こうした小説はメタフィクションと呼ばれたりもする。
 三浦は「サユリはサリマから本名を剥奪する」と書く。しかしこれは「言いがかり」である。モデル小説の一種と考えれば、これはごく当然のことにすぎない。モデルは、作者が「自己実現の一手段として物語を書くために存在するのではない」というのは、一般的には正しいし、裁判の争点にもなっている。だがそれは「メタ構造」とはまったくべつの問題である。
 たとえば、モデル小説の一種である大江健三郎の諸作品にたいして、「光という本名を剥奪してイーヨーであるとかアカリであるとか名づけている」といって三浦は大江を批難するのだろうか。ちなみに、大江は小説のなかに長江古義人という分身である小説家を登場させ、その長江の書いた小説として大江自身の小説を引用する、という手の込んだ「メタ構造」を採用しているが、「さようなら、オレンジ」はそれほど複雑であるわけではない。
 三浦の「登場人物は作者(メタレベルでの作者および現実レベルでの作者)の駒として存在するものではないはずだ」というのもよくわからない。小説でモデルにされた現実の人間が作者の駒として存在するものではない、というのならわかるが、小説の登場人物は作者の意思どおりに動く「駒」そのものではないか?(ときに作者の思惑を超えて勝手に動きだしたりもするそうだけれども)。
 以下、三浦の選評の最後のパラグラフを掲げておく。


 「本作は、テーマや語りから考えて、メタ構造に決着させるのが(最善ではないかもしれないが)順当だと思う。しかし、その手つきがややこなれていない。メタ構造にしたことによって、ツッコミどころのみならずサユリの考えかたや性格や姿勢への疑念が湧いてくる。ひいては、本作の重要なテーマだと思われる「人間と言語」についても、ブレや矛盾が露呈しているのではないかと考える(登場人物の心情レベルでのブレや矛盾ではない。それはあってしかるべきで、なにも問題ではない。構造上のブレや矛盾のことを言っている)。現状、三人称でサリマについて語られている部分は、なぜナキチの名ではダメなのか。いや、メタ構造を成立させるためには名前の変更が必須なわけだが、では本作においてメタ構造にする必要は本当にあるのか。単行本化する際、作者および担当編集者は、作品のために、もう一度考えてみていただきたい(その結果、やはりメタ構造を採用するなら、それはそれでいいのではないかと思う)。この作品を素晴らしいと感じ、登場人物たちに肩入れしたがゆえに、長々と書かせていただいた。技巧にもっと自覚的になる。登場人物が技巧によって駒に変じてしまう可能性を回避する。それを心がけるのが大切だと、個人的には考える」


 おそらく、「サユリの手紙」(B)→「サリマのstory」(A)という順序で書かれていたなら、あるいは、(A)のなかに(B)で語られる背景を入れ込んで、全体が三人称の小説として描かれていれば、三浦のような混乱は起きなかったかもしれない。だがそうした場合、とりわけ後者の方法をとった場合、「何か突風のようなものになぎ倒される」という体験がサユリを突き動かして、英語で書いていた小説を放擲して日本語で小説を書くことを決意するに至る「転回」(一種のconversion)は、このようにうまく(効果的に)表現できなかったにちがいない。
 三浦の誤解は、この小説の「手つきがややこなれていない」せいではなく、メタ構造にたいする単なる無理解のせいである。三浦には「技巧にもっと自覚的に」なってもらいたいと「個人的には考える」のである。

さようなら、オレンジ (単行本)

さようなら、オレンジ (単行本)

*1:http://www.chikumashobo.co.jp/blog/dazai/entry/915/

*2:前回引用した「週刊朝日」2013年10月25日号掲載書評