言語という牢獄――岩城けい『さようなら、オレンジ』再々説



 上野千鶴子が『さようなら、オレンジ』の書評「グローバル時代の日本語文学」を書いているのを知った*1。さすがに上野らしい鋭い批評で、いろいろと考えさせられることもあった。この小説についてはすでに二度も書いたので屋上屋を架すことになるけれども、上野の論点にそってもう一度だけ書いてみよう。
 上野はこの作品の概要をしるしたのち、


 「たしかに感動的だ。サリマの苦闘、サリマの真摯、サリマの勇気、サリマの矜恃――無知無学ながら周囲の尊敬をかちえずにはいないサリマという人物には、心をゆさぶられる。だが、この感動は作品から来るのだろうか、それともサリマの経験から来るのだろうか? そもそもわたしたちは見知らぬ外国での外国人サリマの経験を、なぜ日本語で読ませられなければならないのだろうか?」


と問いかける。この「感動」はむろん「作品」から来るのである。上野もつづけて書いているように、三浦しをんが疑念を呈した「メタ構造」を排して(あるいは廃して)しまえば、この作品は「サユリが出会ったサリマの物語に還元されてしまい」、感動はサリマの経験から来たものとなり、「「わたしが・出会った・難民」についてのレポートの一種」となりかねない。
 「わたしが・出会った・難民」のレポートであってもある種の感動をむろん呼び起こしはするだろうが(サリマの苦闘、サリマの真摯、サリマの勇気、サリマの矜恃――三浦の感動はおそらくそこ(ディアスポラの物語)から来たものだろう)、その「感動」とこの作品があたえる「感動」とは質を異にするものである。
 上野のもうひとつの問いかけ、「わたしたちは見知らぬ外国での外国人サリマの経験を、なぜ日本語で読ませられなければならないのだろうか?」は、なにを意味するのか。ここには一筋縄でゆかない問題が横たわっている。それにはあとで立ち返ることにして、上野の文章をたどることにしよう。上野はつづけてこう書く。


 「だが、評者の多くが忘れていることがある。これは何よりも誰よりも、サリマの物語ではなく、サユリの物語であるということを。評の中で「彼女」と称されているのがほとんどの場合サユリでなくサリマであること、「ナキチ」という本名を奪ったことを難じるところに、その「誤読」はあらわれている。サユリによる「サリマの物語」の領有を難じているのだろう」


 上野のいう「評」がだれのどういう「評」をさしているのかは不明だが、「誤読」と名指されているのは三浦しをんの選評だろう。わたしも前回それは「言いがかり」だと書いたが、名前の剥奪というのは「誤読」であり、これは「「サリマの物語」の領有」とはいえない。これを「サユリの物語」であると読めば、そうは読めないはずだというのが上野の理路である*2
 これが「サユリの物語」であるというのはどういうことか。


 「誰も指摘しないことだが、この「メタ構造」は、サユリに英語での表現を教えたジョーンズ先生という英語教師に宛てた手紙という形式をとっている。この「メタテキスト」もまた、日本語で書かれている。素朴な疑問だが、これは原文が英語の手紙の翻訳という設定になっているのだろうか? そうではないだろう。あらかじめ日本語で書かれたとおぼしい「手紙」を、おそらくバイリンガルとは思えないジョーンズ先生も読むことはできない。いや、この小説の結構のなかでは「ジョーンズ先生」は架空の存在にすぎない。「ジョーンズ先生」とは、サユリを異国へと誘ったすべての「よきもの」の代名詞だが、この作品は「日本語でしか書かれない」ことで、「ジョーンズ先生」への決定的な裏切りになっているのだ」


 「ジョーンズ先生は架空の存在にすぎない」と上野はいう。面白い論点である。手紙がもともと日本語で書かれたものであり、ジョーンズ先生が架空の存在であるとするなら、この手紙はいったいだれに宛てて書かれたものなのか?
 整理しよう。
 サユリはクリエイティブ・ライティングの講座で、英語で小説を書いていた。小説を書くようにすすめたのが「ジョーンズ先生」である。これは「サユリの物語」においては事実である。「ジョーンズ先生」という名であるかどうかは措くとして、この前提がなければ、そもそもこの小説は成立しない。
 サユリは「ナキチ」というアフリカ人女性と出会い、彼女の物語を書こうと思う。だが、それは英語では書くことができない。サユリは「英語で表現する世界」を放擲し(ジョーンズ先生を「裏切り」)、日本語で書こうと決意する。サユリはその決意にいたる過程を手紙で告げる。宛名は「ジョーンズ先生」とされているけれども、これはかりそめに選ばれたものであり、他の名前であっても、あるいは「神」に宛てた手紙であってもかまわない。前回、わたしがサユリのこの決意を「一種のconversion」と書いたように、これは「回心」の告白であるからだ(神サマに小説を添削してもらうわけにはゆかないけれど)。
 手紙という形式をとった「回心の物語」と、日本語で書かれた「サリマの物語」とを交互に並置したものが、サユリの「自己言及的作品(メタフィクション)」であり、それはおそらく「さようなら、オレンジ」と題されるだろう。すなわちこの小説は、サユリの内面のドラマであり、そう読んだとき「サリマの物語」は後景に退くといっても過言ではない。これが上野の「読み」である。
 上野は、異国での経験を「周囲の誰も理解しない言語」(母語である日本語)で書く伊藤比呂美多和田葉子を召喚してこう書く。


 「彼女たちは誰に宛てて書くのか? わたしたち日本語読者に対して。あて先はわたしだ。それをまちがってはならない」


 だから、これを「英語に翻訳したとしても、それは別のものになってしまうだろう」と上野はいう。ここで「わたしたちは見知らぬ外国での外国人サリマの経験を、なぜ日本語で読ませられなければならないのだろうか?」という上野の最初の問いかけに立ち戻れば、答えはすでに明らかだろう。むろん「わたしたち日本語読者」に向けて書かれているからにほかならない。フェミニズム批評による刺戟的な読解である*3


 「「どうしても書かれなければならない作品」とは、サリマの物語ではなく、サユリの物語だ」と上野はいう。それは、サユリにとっても、サユリを分身とする作者岩城けいにとっても、そうであったにちがいない。かりに「サリマの物語」こそ「どうしても書かれなければならない作品」であったとするなら手紙はないほうがいっそすっきりする。
 上野は書評の末尾にこう記す。


 「「サリマ」はそうやって「異国で生きることを決めた者」、ことに子どもという守るべきものを持ってしまった母、の代名詞として与えられている。だが、そのなかでも、サユリにあってナキチにないのは、母語で表現しつづけるという「煉獄」だろう。わたしたち日本語読者は、その「煉獄」で生きつづける者を見届ける証人になる。
 本書でもっとも感動的なのは、サユリが「この煉獄を生きつづける」と決意する、その部分にほかならない」


 わたしは、前回書いたように、サユリの手紙は事実であり(ジョーンズ先生はこの物語のなかでは実在する)、「サリマの物語」のみをサユリの作品であると読んだ。英語で書かれたであろうジョーンズ先生への手紙が日本語で書かれているのは、作者岩城けいの介入による、と。


 上野  {「サリマの物語」+「サユリの手紙」=サユリの作品}=岩城けいの作品
 わたし {「サリマの物語」=サユリの作品+「サユリの手紙」}=岩城けいの作品


 後者の視点に立ったとき、サユリの「内面のドラマ」は作者によって明かされるという構造となる。いずれの立場に立とうと、『さようなら、オレンジ』という小説が「サユリの物語」であるのは変わらない。
 蛇足になるが、三浦しをんの選評についても再度ふれておこう。三浦は「サユリの手紙」を日本語で書かれたものとして、「内容を日本語訳して再現したということだろうか」との疑問を呈している。これは手紙もまたサユリの作品に含まれるという点で上野の立場に近いように見えるけれども、手紙を日本語で書かれたフィクションと見る上野と、実際に英語で書かれた手紙を日本語で提示したと見る三浦とでは、視点に大きな隔たりがある。


 岩城けいがこの小説で問いかけたのは「日本人である私とは何者か」という問いである。日本人であることの根幹には、「(サユリが)祖国からたったひとつだけ持ち出すことを許されたもの、私の生きる糧を絞り出すことを許されたもの」である母語=日本語がある。これは「自分探し」などといった「おとぎ話」とは無縁の身を灼くような問いかけであり、母語とは、上野がそれなしには「ひとは生きていくことはできない」という「牢獄」である。
 母語で表現しつづけるのは「煉獄」であると上野はいう。「おとぎ話はもう書かない」という回心の先に「煉獄」があるのは、サユリは承知の上である。むろん、岩城けいもまた。


 ――「私たち作家が書くのは、人生の救済についてである……。私たちはそうする。なぜなら私たちの関心が、それだから……。私たちはそれに関心がある。なぜなら知っているから、私が救う人生とは、私自身のものであることを」
                               ――アリス・ウォーカー

さようなら、オレンジ (単行本)

さようなら、オレンジ (単行本)

*1:筑摩書房のPR誌「ちくま」(10月号)に掲載。((http://www.chikumashobo.co.jp/blog/pr_chikuma/entry/903/

*2:「領有(アプロプリエーション)」はポストコロニアル批評の用語である。マイノリティの物語の領有、新植民地主義にたいする文化的抵抗については、トリン・T・ミンハ『女性・ネイティヴ・他者』(竹村和子訳、岩波書店)、エドワード・W・サイード『文化と帝国主義』上下(大橋洋一訳、みすず書房)などを参照。

*3:だれがだれに宛てて書くのか。たいていの読者はそれをほとんど意識しないで読んでいるけれども、フェミニズム批評はそこを尖鋭に問題化する。「フェミニズム批評は、ヨーロッパやアメリカの物語がしょっちゅう男性の読者を前提としていることに特に興味を示してきた。読者は男性の見方を共有している者として、暗黙のうちに語りかけられているというわけである」(ジョナサン・カラー/荒木映子・富山太佳夫訳『文学理論』岩波書店、2003)