プーシキンは翻訳できないか――山城むつみ『連続する問題』を読む(その3)



 どこの出版社だったか覚えていないが外国文学の簡約版シリーズというのがむかし出ていて、中学か高校の頃スタンダールの『赤と黒』をそれで読んだ記憶がある。いまでいうなら鈴木道彦の編訳で集英社文庫から出ている抄訳版『失われた時を求めて』のようなもので、新書サイズで300頁ほどに縮約された『赤と黒』の内容はもうほとんど覚えていない。大学生になって何日も徹夜して読んだドストエフスキー全集の『カラマーゾフの兄弟』や『悪霊』などもいまではほとんど覚えていないからわたしの記憶力になんらかの欠陥があるのだろう。あるいは中野重治流にいえば、わたしの頭がまだおさなかったせいだろう。
 ところでそうした抄訳版は、それでも原典の息吹のようなものを伝えることができるだろうか。あるいは、黒岩涙香の手になる『噫無情』や『巌窟王』といった翻案はユゴーやデュマのオリジナルをなにほどか伝えているだろうか。
 山城むつみは「24 改行の可・不可」の冒頭で「僕は中野重治の次の考え方をまっとうだと思い、その姿勢を甚だ立派だと考えている」と中野の以下の文を引用している。


 《プーシキンは翻訳できないという説がある。日本語にはおろかヨーロッパ諸国の言葉にもほんとうにはうつせない、うんぬん。そうでもあろう。しかし小泉八雲の説がある。私は八雲にしたがう。真のうちの真、美のうちの美は、最悪の条件のもとでの翻訳をとおしてにしろ必ず伝わる。プーシキンにおける無限のやさしさ、激情、それから冷徹、それが比類のないその質の高さで素人にも伝わる。そこのところでの酩酊、これこそが人類をやしなうのであろう。》


 山城によれば、これは八雲でなくトーマス・マンの言葉の「中野の思い違い」であるそうで、マンはある書簡で「実質のある作品なら、まずい翻訳でも、その実質のかなりの部分は失われずに残ります。それはそれでよいのでは無いでしょうか」と述べている。山城はマン/中野にしたがっておおむね同様に考えるという。そして前々回書いたように、丘沢静也によるカフカの新訳の提起する問題をおもに「改行」に焦点を当てて論じるのだが、そこで書き残したことについてすこし触れてみたい。
 たとえば吉田健一の文章を適宜改行したとしよう。たしかに、ある意味で、読みやすくはなるだろう(わかりやすくなるかどうかはさておき)。だがそれはもう吉田健一の文章ではない。あるいは金井美恵子の『柔らかい土をふんで、』の延々と何ページにもわたってつづくワンセンテンスの文章をいくつかに切断したとしよう。ある意味で読みやすくはなるがそれはもうオリジナルとは別物といっていい。
 芳川泰久金井美恵子の『岸辺のない海』について、その「言葉の紡ぎ方」を「統辞論上の失調」という観点から論じ、「通常の(いったい何が通常なのか)統辞法=シンタックスは、同じ個所で引っかかり何度も反復するレコードのように、あるいは、同じ個所を何度も貼り付けたワープロ画面のように、ある種の停滞というか失調に見舞われている」と述べる(このレコードの比喩は若い読者にはもう伝わらないだろう)。


 《それが金井美恵子の小説の書法(エクリチュール)ということだろうか。失調が起こると、少なくとも、読書の流れが変わる。注意深く読む、というのか、読む速度は遅くなる。人によってはそこだけ読み飛ばすかもしれないが、しかしそのとき、遅い速度のおかげで、読者(われわれ)は、それが言語でできているという素材感に突き当たる。言語などないかのように、意味に促されて物語を読んできた読者(われわれ)が言語という素材に突き当たるのだ。作者は一見遊んでいるように見えて、物語機能とは別の次元へ読者(われわれ)を誘っているのだろう。》*1


 金井美恵子の小説に改行を加えたとき(「統辞論上の失調」ではないけれど)、それでも伝わるのは物語の「意味」(のある部分)であって、芳川泰久のいう「言語でできているという素材感」を読者は素通りするかもしれない。「別の次元」へといざなわれることなく意味に自足させられた読者は、それでも金井美恵子の小説を読んだといえるだろうか。
 小説のことばは読者につたえる物語の乗り物であって、読者にその乗り物を意識させないようにことばはできるだけ透明であるのが望ましい、という立場もあるだろう。いっぽうで、小説とはなによりもことばで書かれたものでありことばの運動に身をゆだねることが小説を読むという体験であって、物語はことばの運動にとって仮りそめにしつらえられた乗り物にすぎない、という立場もあるだろう。二つの立場は一見相反するように見えるけれども、必ずしもそうとばかりはいえない。ある小説に引き込まれてまるでその世界にはいり込んでしまったかのように思えるとき、小説のことばはほとんど読者に意識されず透明であるかのように思えるが、その場合においても読者がその小説に引き込まれたのは物語の力によってなのかことばの運動によってなのかは判然としないからだ。あるいは、金井美恵子の小説とは逆の意味で「(粗雑な)言語でできているという素材感」に邪魔されて読み進めることのできない小説も少なくない。村上春樹の小説が多くの読者を得たのは物語の力によってなのかそれともことばの力によってなのか。


 閑話休題
 かつてカフカの新訳についてふれた際に池内紀の翻訳に疑問を呈したけれども、池内訳で伝わるのは物語の「意味」(のある部分)であるといえば言い過ぎになるだろうか。読みやすくなったとき、そこから何かが抜け落ちてはいまいか。
 「ぼくはほんとうに幸せだ。そして、君との関係もちょっと変化した。といっても、君にとってごくありきたりな友人ではなく、幸せな友人になったということにすぎないのだが。いや、それだけじゃない。婚約者が君によろしくと言っている」(原文に忠実な丘沢静也訳)を「ぼくは幸せだ。だからといって君との友情に変わりはない。彼女は君によろしくと言っている」と訳したとき、池内紀は抜け落ちるものなど「物語」にとって瑣末なものだと考えたのかもしれない*2
 山城むつみ柴田元幸の次のようなことばを引いている。


 《僕自身は翻訳者として、段落をいじるということは絶対にやらないんですね。別に原典は神聖だ、とかいうふうに思っているわけではなくて、それをいじりだすとあらゆる自由が可能になってしまって、(略)だからその自由は放棄するんですね。それでとにかく原文どおりにする。》


 「あらゆる自由が可能」になった池内訳カフカは、かつてベストセラーになったシドニー・シェルダンの「超訳」とあるいはそれほど径庭はないのかもしれない。そういえば、ニーチェの「超訳」もベストセラーになったという。中野重治が生きていたら、たとえ超訳であってもニーチェの「真のうちの真」は伝わると言っただろうか。もし超訳マルクス超訳レーニンという本があれば中野重治はそれを歓迎しただろうか。

連続する問題

連続する問題

*1:金井美恵子の創造的世界』水声社、2011年

*2:id:qfwfq:20070915