デンマークの貴種流離譚――『小さな天体』を読みつぐ



 前々回書いた『小さな天体』をまだ読んでいる。読み始めてひと月以上になる。理由ははっきりしている。寄り道をするからである。この本は加藤典洋さんの海外での日々の暮しが綴られている。起った出来事、会った人たち、考えたこと、そして、書いている原稿や読んだ本のことなど。デンマークではイサク・ディーネセンを繙くことになる。コペンハーゲン郊外にあるカレン・ブリクセン博物館で買ったディーネセン(ブリクセン)の短篇集にふれて、加藤さんはこう書いている。


 7月23日(金曜)
 (略)午前から午後にかけて、「バベットの晩餐会」を読みつぐ。夕食後の散歩にも持ち出し、帰宅後、読了。子供の頃に夢中で物語を読んだ、その感じと似ている。最後、「次善のものにつくよう促されること」、それほど芸術家にとって「恐ろしい、耐え難いこと」があろうか。そう語るオペラ歌手パパンの嘆きが、私の心を刺した。
 ブリューゲルの絵の中で独自の混淆と和合とせめぎ合いを演じているヨーロッパの北と南の対位が、ここにも顔を見せているだろう。ブリクセンでそれは、ノルウェイ北端のピューリタニズムとフランス、ラテンのカトリシズムとの対立、禁欲主義と快楽主義、北の極寒とアフリカの灼熱の対位を背景に、何とも魅力的な主人公像を造型するうえでの骨格となっている。


 興をそそられてわたしも書棚からディーネセンを引っ張り出して読み耽ることになる。ブリクセンはイサク・ディーネセンという男性のペンネームをもちいて英語で作品を発表し、それをデンマーク語に自ら翻訳し、本名で刊行した。『バベットの晩餐会』(ちくま文庫)の翻訳者、枡田啓介さんによると、「バベットの晩餐会」のデンマーク語版には英語版よりもかなりの分量の書き足しがあるという。邦訳はデンマーク語版に拠っている。
 アンデルセンを別格として、ブリクセンはデンマークの作家としてはもっとも知られたひとだろう。映画『バベットの晩餐会』や『愛と哀しみの果て』(『アウト・オブ・アフリカ』の邦題)などの原作者として著名だが、日本に紹介されたのはそれよりずっと早い。わたしが学生のころ、短篇集『ノルダーナイの大洪水』(カーレン・ブリクセン名義)が山室静さんの訳で新潮社から出た。もう四十年以上前のことだ。これが最初のディーネセンの紹介だったが、その後、『アウト・オブ・アフリカ』の映画化のおかげか(ロバート・レッドフォードメリル・ストリープ共演のハリウッド映画だからね)、晶文社からディーネセンの選集(4巻)が出た。ちなみに、『アウト・オブ・アフリカ』には二種の邦訳がある。晶文社版の『アフリカの日々』(横山貞子訳、池澤夏樹編集の河出版世界文学全集にも再録)と筑摩書房版(元は工作舎)『アフリカ農場――アウト・オブ・アフリカ』(渡辺洋美訳)。
 山室静さんは前掲書のあとがきで、ブリクセンの「彗星」のようなデビューについて次のように書いている。


 「その名がそれまではまったく未知であったこと、しかも文体は極度に知的で衒学的でさえありながら、強烈鮮明な感覚性をもち、かつはふしぎな香気にあふれていたこと、題材はまたいずれも奇怪で異様で、読者を煙にまくていの屈曲と謎にみちていて、それまでのどんな作家の作とも類似点がなかった点において。」


 ブリクセンのデビュー作は『七つのゴシック物語』という短篇集だが*1――『ノルダーナイの大洪水』はそこから数篇が採られている――「こんな原稿を送りつけられた出版社が、多少とも目のきく、そして勇気のある出版社だったとしたら、作者の名前が有名であろうとまったくの未知であろうと、全作品を読みとおすまでもなく、刊行にふみ切る決意をかためたにちがいない」と山室さんは書いている。仰せの通りである。しかし、世の中には眼力のない編集者や出版社も少なくない。いまでは文学史に残る名作でも、最初に持ち込んだ出版社から門前払いを喰わされたといった例も少なくない。自戒自戒。
 『バベットの晩餐会』で、パリからやってきて屋敷に棲む老姉妹の家政婦となるバベットは、パリコミューンの闘争で夫と息子を亡くしたのだった。最愛の家族を無残に殺した者たちがバベットの「芸術」の最大の理解者であったというアイロニー。十数年のあいだ封印してきた芸術家としての自分を、バベットは、一夜、解き放つ。一万フランを料理のために一夜で費消してしまったバベットに「なにもかも使ってしまうことはなかったのに」と声をかけるフィリッパ(老姉妹の妹)。バベットはフリッパをじっと見つめる。


 「不思議なまなざしだった。多くのことを語っていた。同情をしてくれる者にたいする憐れみ、その底には軽蔑とみなされかねないものすらあった」


 「わたしはすぐれた芸術家なのです」と昂然と言い放つバベットは鎖に縛られたアンドロメダである。晩餐会でただひとりバベットの芸術を理解したレーヴェンイェルム将軍はペルセウスということになろうか。レーヴェンイェルムがグラスを口元に運び、はっとして「不思議だ、アモンティリャードではないか。それも極上の」と訝り、スープをひと匙口にして「これは正真正銘の海亀のスープだ」とパニックに襲われる場面は、読者を引きつけてやまない。満座のなかで唯一主人公の真価に気づく者がいる。これは洋の東西を問わず昔から語り継がれてきた英雄物語の定型である。ノルウェーの寒村に流れてきた〈カフェ・アングレ〉の料理長とは、いうまでもなく貴種流離譚の主人公にほかならない。『バベットの晩餐会』の解説者田中優子や『運命綺譚』(ちくま文庫)の解説者西成彦が口を揃えて「物語」と呼ぶのはそれゆえにである。


 ハンナ・アレントがディーネセンについて書いていたことを思い出し、書棚から『暗い時代の人々』(阿部斉訳、河出書房新社)を取り出す。文庫版も出ているが、これは1972年刊行の単行本。ディーネセンはパリで(のちにアフリカでも)料理を学んだそうである。また、ディーネセンの父親はパリコミューンに共鳴していたという。それらがバベットの造型に生かされているわけである。アレントもまた「物語」をキイワードにしてディーネセンについて論じている。


 「物語は彼女の愛を救い、不幸が見舞ってからは彼女の生を救った。「あらゆる悲しみは、それを物語に変えるかそれについての物語を語ることで、耐えられるものとなる」。物語は、それ以外の仕方では単なる出来事の耐え難い継起にすぎないものの意味をあらわにする。」


 ディーネセンは若き日々の体験によって、人生について物語を語ることはできるが、人生を芸術作品であるかのように生きたり「観念」を実現するために人生を用いたりすることはできない、ということを学んだのだとアレントはいう。この批評文でもうひとつのキイワードとなっている「激しい情熱」―― grande passionとフランス語で書かれている。エピグラフに掲げた「激しい情熱は傑作のように稀である」というバルザックのことばに由来する――に身をゆだねた「苦い体験」がディーネセンにそれを教えたのだ、と。
 物語を語ることは彼女を賢明にしたとアレントはいう。それにつづく結びの一節はわたしのような者にはひとすじの光明といっていい。「智恵は老年の徳であり、それはただ若いときに賢明でも慎重でもなかったものにのみ現われるように思われる。」
 アレントの文章にやや文意の不明なところがあったので、ペーパーバックの英語版をアマゾンで取り寄せる。このディーネセン論はパルメニア・ミゲルのディーネセン伝の書評として「ニューヨーカー」に書かれたものだが、かなり手厳しい評のとおり、この伝記には問題が多いらしい。そこで、ジュディス・サーマンのIsak Dinesen: The Life of a Storyteller もついでに注文する(サーマンは映画『愛と哀しみの果て』の原作者としてもクレジットされている)。こちらは届くまでにひと月近くかかる由。
 こうして寄り道をし、蛇行しながら、今日も『小さな天体』を読みついでいる。

バベットの晩餐会 (ちくま文庫)

バベットの晩餐会 (ちくま文庫)

小さな天体―全サバティカル日記

小さな天体―全サバティカル日記

*1:晶文社の〈ディネーセン・コレクション〉では『夢みる人々』『ピサへの道』の二分冊になっている。