『魂のまなざし』――音と映像のマスターピース

 

 ヘレン・シャルフベック。フィンランドを代表する画家だという。この画家の存在を映画で初めて知った。邦題の『魂のまなざし』は、2015~16年に開催された展覧会「ヘレン・シャルフベック――魂のまなざし」を踏襲したもの(原題はシンプルにHELENE)。

 映画は、ヘレン・シャルフベックの50代から60代の8年間の日々を事実に即して描いた伝記映画だ。中年を過ぎて画家として脚光を浴びるヘレン、画家志望の年下の青年との実らぬ愛、女友だちとの友情、母親との確執。それらが坦々と描かれる。監督はアンティ・J・ヨネキン。2020年のフィンランドエストニア映画で、日本公開は2022年の7月。Bunkamuraル・シネマを皮切りに順次全国公開された(わたしが見たのは先月の10月25日にWOWOWで配信されたもの。細部を確めながら録画を繰り返し見た)。

 フィンランドの田舎の質素な一軒家で、年老いた母とふたりでひっそりと暮らすヘレン。好きな絵を描いているが、もう若くはない。そこへ突然、画商が青年をつれて訪れる。青年は森林保護官で画家志望のエイナル・ロイター。ヘレンの絵のファンで何点か所持しているという。画商と青年は、部屋の隅で埃をかぶっていたキャンバスを引っ張り出し、すべて買い取るという。ヘレンは世間から忘れられた画家だった。「あなたには類まれな才能がある。きっと世に知らしめてみせる」。

 なんといっても音と映像が素晴らしく、近年見た映画のなかでは突出していた。

 画面に流れる音楽と効果音――。

 鳥の鳴き声。木の床を歩く靴の音。キャンバスの絵の具をナイフで削る音。珈琲カップを受け皿に置く擦過音。揺り椅子に坐って編み物をする母親のぎいぎいと鳴る椅子の音。雑誌の頁をめくるかすかな音さえ聞こえてくる。

 そして、抑制された色調の画面。自然光と照明のみごとなバランス。完璧なコンポジション。すべてのショットが計算され尽した美しいシークェンス(画面の連鎖)。ヘレンの顔にフラットな照明が当てられることはなく、窓側と逆の片頰につねに陰翳がほどこされる。部屋に射し込む陽の光も風にゆれる木の葉によってわずかにちらちらと揺らいでいる。人工照明がまるで自然光を思わせる。画面の繊細な表情。だれの映画にいちばん近いかと考えると、タルコフスキーの名前が思い浮かぶ。

 ヘレンが室内でひとり佇むショットは、フェルメールハンマースホイの絵画を想起させる。古典的均整とでも評したくなる端正で深みのある画面。

フェルメールを思わせる画面。このシーンにバッハ/ジロティ編「前奏曲第10番ロ短調」が流れる。

 バッハのアダージョ(協奏曲ニ短調BWV.974)の哀愁に充ちた旋律が二度流れる。これは、ゴールドベルク変奏曲(BWV988アリア)とともに、わたしのもっとも好きなバッハの曲だ(ほかに、モーツァルトドビュッシー、ヴィヴァルディ、エリック・サティなども流れる)。

 一度目は映画の序盤、年下の青年エイナルが別荘でいっしょに絵を描かないかとヘレンを誘い、車で遠出をする場面。海辺の小さな町タンミサーリで、ひとときを過ごすふたり。かよいあう親密な感情。海辺にひとり佇むヘレンの後ろ姿をとらえたミディアムショットは、陽炎のようにおぼろげにゆらめいて夢幻的だ。

 エイナルとならんでキャンバスに向かうヘレン。海でひと泳ぎして上がってきた裸のエイナルにヘレンはいう。

「あなたを描きたい、船乗りのようなあなたを」

 二度目は映画の中ほど、病床のヘレンを見舞いに来た女友だちのヴェスターが枕元で詩を読み聞かせる場面に流れる。フィンランドの詩人エイノ・レイノの「自由の書」をヴェスターが朗読する。

「若い僕の国 若い僕自身 暁が両者に訪れた 山あいに昇る日を見る……」

 ヘレンは目をとじて回想する。ヴェスターの声は遠のき、ヘレンは回想に没頭する。タンミサーリでエイナルと過ごした日々――。エイナルとの仲がいまだ破局に至らなかった幸せなひとときの思い出。

 キャンバスに向っているヘレンにエイナルが問う。

「何を見てる?」

「海よ」

「あなたの本が書きたい」とエイナルがいう。ヘレンはそれには条件があると応える。

「あなたを描かせて」

 病室のベッドの上でひとり紙に鉛筆でデッサンをしているヘレン。窓ガラスの外で雪が舞い散り、戸外の電燈が風に揺れてちらちらとした灯が病室のヘレンを間歇的に照らしだす。薄暗い部屋のなかで真っ白な部屋着とシーツが――それだけが青白く浮かび上がる。

 紙をこする鉛筆のかさかさいう音。そしてピアノが奏でるアダージョ。たとえようもなく美しいシークエンスだ。

 ベッドから転げ落ちたヘレンをローアングルでとらえた場面。ヘレンの横に、床に転がったコップが窓からの光を浴びて白く輝いている。おそらくコップにピンポイントで照明を当てるか、コップの中に光源があるのだろう。ミルクの入ったコップに豆電球を仕込んで白く輝かせた『断崖』のヒッチコックを思い出す。

 めずらしい映像を見た。部屋でデッサンをしているヘレンをとらえたミディアムクローズアップ。被写界深度が浅く、顔の表情はぼやけている。ヘレンが前に向って体を少し乗り出すと、焦点が合って表情がくっきりとする。カメラのピント送りではなく、被写体が焦点を合わせるのだ。あまり見たことのないショットなので、おおっと思った。

 全篇を通して、ヘレンを演じたラウラ・ビルンの意志的なまなざし(「魂のまなざし」というにふさわしい)、凛とした美しい表情に魅了された。

 ラスト、タイトルロールの前にヘレンの絵がいくつも映し出される。心にくい演出だ。彼女の絵をもっと見たいと思いネットで検索すると、展覧会カタログがさいわいまだ入手可能だったので取り寄せた。求龍堂から刊行された大判の本は、図録を兼ねているため書籍としては飛び切り安価だ。カバーや「映画公開」を謳った帯は、書店での販売のためにあとで附けたものだろう。

 帯に志村ふくみのことばが引用されている。「すべてが好きだ。自画像も、静物も、風景も、人物も。」(『母なる色』求龍堂、1999年所収の「ヘレン・シェルフベック」より)。志村は、ヨーロッパを旅行した際、ヘルシンキアテネ美術館で未知の画家ヘレン・シェルフベック(と表記されている)の絵と出遭う。それは、出会い頭の運命的なできごとだった。

どんな人なのか、世評もしらない、生い立ちもしらない。まるで謎のような人だ。知らないのがいい、この画集だけをたよりに私はこの人に出会おう、文章も読めないからただこの人の絵だけがたよりだ。

 志村ふくみは、美術館で入手したヘレンの画集を京都に持ち帰り、「何べんも何べんも」繰り返し飽かず眺めた。「見れば見るほど魅きつけられ」た。とりわけ自画像に、老年をむかえた自身の内面をかさねて没入した。画集には自画像が24点あった。「もし自画像がこれほどなければ、私はこの画家にこんなに魅かれたとは思えない」。

 自画像は「彼女の内面に入ってゆく扉である」と志村はいう。

魂の光の射す地下室へその黒い扉をあけて入ってゆく気がする。それはある時、怖気のふるうほど人間の酷薄な、おぞましい世界を垣間みせる。

 ヘレンの内面を手探りで探索する志村の熱を帯びた文章は、ひとりの女性の内面の奥底にまでよく届いているように思われる。

 ふたりの芸術家の時と所を超えたcorrespondance。

 おそらく、ヘレンにとって自画像を描くことは、自己の内面をexploreすることだった。そして、エイナルに対する「あなたを描きたい」という申し出は、「あなたのことをもっと知りたい」ということだ。志村ふくみはヘレンの自画像を見てそれを直感したにちがいない。

 キャンバスをあたかも「自傷行為」のように引っ搔いた異様な『未完成の自画像』について、ヘレンは破局後のエイナルに手紙でこう記している。

「私の冬を静かに埋めてくれるだろう何かを――そう、私は鏡のなかにそれを見つけたのです。きっと私の最も美しい自画像になるでしょう――でもあなたは信じないわね」「おそらく、芸術家は自分の中に入り込むことしかできない。私はそう思う。そう、固くて氷のような、ただの私の中に入っていくこと。――私はこれらの絵がひどく痛ましくなってきたので、投げ捨てました」「私の肖像画は、死んだような表情になるでしょう。こうして画家というのは魂を暴くのかしら、仕方がないわね。私は、もっと恐ろしく、もっと強い表現を探し求めているのです」

  (佐藤直樹、図録『ヘレン・シャルフベック――魂のまなざし』より)

 ちなみに、この映画の繊細なテクスチュア、フェミニストふうの立ち位置から、監督は女性かと思っていたが、ネットのインタビュー記事を見ると1968年生れの男性だった*1。この映画とヘレン・シャルフベックの生涯については、サイトTOKYO ART BEATに掲載された野中モモさんのレビューが手際よく書かれている*2。参考にさせていただいた。

 今月(11月)もWOWOWで放映されるようなので、機会があれば見てください。


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