2006-10-01から1ヶ月間の記事一覧

時のきざはし、あるいは棒の如きもの

1 川崎長太郎の条でふれた平出隆の「遊歩のグラフィスム」、今回は「日記的瞬間」と題して森鴎外の日記と河原温の美術作品とを接続し、それを詩の問題に引きつけて考察して読みごたえがある(「図書」十月号)。 日記は私的な断章であるがゆえに統一的な脈…

フィアルタの春――ナボコフ再訪(2)

1 前回とりあげた『小説のストラテジー』で佐藤亜紀は「作品」とは何かと問いかけ、絵画の場合は「一定の面積の上に配置された、色彩とマチエールを持つ線と面の集まりだ」と定義したうえで(「かなり旧弊な定義だ」と断りつつ)、受け手にとって「今日、問…

世の中にまじらぬとにはあらねども

「ファッション誌の人たちは、ジーンズと言わない」と、林真理子が週刊誌の連載エッセイ「夜ふけのなわとび」で、最近の言葉遣いについて書いている(「週刊文春」10月19日号)。ファッション誌の人とは、林が寄稿するファッション雑誌の編集者の謂だろ…

鶴   à Céori

鶴は止まり木にちょこんと坐っていた。 スツールにのせた尻が安定しないのか、時折り、滑り落ちないように尻をもぞもぞと動かせている。その様子がおかしくて、僕はしばらく横目でちらちらと盗み見していたが、とうとう辛抱できなくなって話しかけた。 「あ…

みそっかす

以前、ある映画の試写に招かれたときのことである。試写といっても、評論家や新聞記者・雑誌編集者のために映画会社の試写室で行なうものや、一般客に見せるホール試写ではない。ごく内輪のスタッフやキャストに仕上りを見せるための、編集や、科白・効果音…