鶴   à Céori


 鶴は止まり木にちょこんと坐っていた。
 スツールにのせた尻が安定しないのか、時折り、滑り落ちないように尻をもぞもぞと動かせている。その様子がおかしくて、僕はしばらく横目でちらちらと盗み見していたが、とうとう辛抱できなくなって話しかけた。
 「あの」
 鶴がこちらを振り向いた。長い嘴で頬を平手打ちされそうになった僕は思わずのけぞって嘴をかわした。嘴は僕の鼻先十センチぐらいのところにあった。鶴は僕の言葉をうながすように真ん丸の目を大きく見開き、細く長い頸に載った顔を心もち斜めに傾けた。僕は鶴に訊ねた。
 「なにをお飲みですか」
 質問に意味はなかった。鶴が飲んでいる透明の液体が何であろうと、そんなことにそれほど切実な関心をもっているわけではない。このバーではあまり見かけない客と少し言葉を交してみたかっただけだ。妙齢の長い黒髪の女性が隣で愁いに沈んでいたとしても僕は声をかけたりなんかしない。そんなことはよくあることだ。だが、鶴と隣り合ったのはこのバーに通うようになって初めてのことだった。
 「もし差支えなかったら、教えていただければと思って」
 ありふれた質問に失望したとでもいうように鶴はそっけなく答えた。
 「白鶴」
 それがジョークなのかそうでないのか、鶴の表情からはどちらとも判断がつかなかった。僕は質問のくだらなさに自分でもなかば呆れながら言葉を継いだ。
 「ここへは、よくいらっしゃるのですか」
 初めてだと鶴は答えた。そして、自分に見覚えはないか、と逆に聞き返してきた。
 僕はどう答えればいいかわからなかった。どこかの動物園で会ったのだろうか。だけど、いま目の前にいる鶴とサファリパークの鶴とを区別することは僕にはできない。もしかすると、どこかですれちがったのかもしれないけれど、生憎と記憶に残っていなかった。気を悪くしないでほしい、と僕はすまなそうな顔で答えた。気にしなくていい、だが、ひとつ頼みごとがある、と鶴は言った。僕は鶴の仕草をまねて心もち顔を傾けて言葉を待った。鶴は言った。
 「わたくしをあなたの女房にしてくださいませんか」
 僕はなにか聞き違いをしたのかと思ったが、鶴は真剣な表情で続けた。
 「あなたのおそばにいたいのです」
 僕は思いがけないなりゆきに困惑した。だって初対面じゃないか。少なくとも僕にとっては初対面も同然だ。それに、相手の性別すら僕にははっきりしないのだ。第一、僕にはまだ結婚する意思もその用意もない。鶴は僕の困惑を察したかのように続けて言った。
 「突然のことでさぞ吃驚なさったでしょう。でもわたくしはいますぐ結婚したいと申し上げているわけではありません。それに」
 鶴は一拍おいて、僕に言い聞かせるように言った。
 「わたくしは法的な手続きや形式には拘りません。おそばにおいていただければそれだけで満足です」


 その夜から僕は鶴と暮すようになった。
 鶴は僕が会社から帰ってくる足音を察して、アパートの狭い玄関で迎えてくれた。そして、かいがいしく僕の背広を脱がせ、温かい湯気の立つ料理を並べた食卓に僕をつかせた。僕たちは向い合って言葉少なに食事をした。僕はひとりで暮していたときの味気ない食卓を思い起こし、満ち足りた気分になった。何事につけつつましい鶴の挙措は僕の好みに合った。嘴で食事をつつく様子は可憐にさえ見えた。
 夜が更けると「おやすみなさい」と言って鶴は隣の部屋へ行った。僕はベッドでひとりで眠った。
 ある夜、隣の部屋のドアをそっと開けて中をうかがったことがある。鶴は部屋の真ん中で一本足で立ったまま、すやすやと寝入っていた。自分の羽を抜いて機織りでもしてはいまいかと気になっていたのだけれど、隣の部屋にはむろん織機もミシンもなかった。第一どう記憶をたどっても、僕には鶴を助けた記憶などない。
 あの夜、バーで初めて鶴と出会ってからもう数ヶ月がたった。僕たちの同居生活もいくらか慣れてきた。この暮しがいつまで続くかわからないけれど、僕はなかなか悪くないと思っている。僕も形式には拘らないたちだし、差別意識はあまりないほうだと自分では思っている。鶴だとか人間だとか、そんなことはどうでもいいじゃないか。
 もしかすると、僕は鶴に恋しているのかもしれない。このごろ時々そんなふうに思ったりもする。