40×40字7枚分の散文を読みながら、これはフローベール=フーコーの夢想したエッセ・クリティックだとつぶやいてみる




 二〇一〇年九月一日水曜日の午後、神保町の東京堂書店へ『随想』と題された新刊を購入するために赴く。文藝誌「新潮」で連載されていたエッセイが一冊に纏まり刊行されたことをその日の朝の新聞広告で知ったからで、この辺りにあるはずと一階新刊コーナーの平積みをたしかめるが生憎と見当らない。そんなはずはないのだがと訝りつつ二階のPCで店内在庫の検索をかけるとやはり一階新刊コーナーにあると表示が出るので、また一階へ降りてふたたびその辺りを仔細に点検すると平積みではなく棚差しになった一冊が視界に浮上する。ああ一冊か、発売と同時にわたくしのようにこの本をめざしてこの書店へやってきた読者――この本ならここがいちばん見つけやすいとわたくし同様に考える人々――によって立て続けに売れてしまったのだろうか、あるいはそもそも入荷が少なかったのだろうかと思案しつつとりあえず棚から抜き出してレジへといそぐ。二百五十六頁という比較的薄手の上製単行本にしては二千二百円プラス税といささか高めの定価設定であるのは初版発行部数がそれほど多くないことを想像させる。尖鋭な映画批評や文藝批評によってかつて若年のわたくしたちを虜にした不羈の才人も国立大学総長時代の短からぬブランクのため昨今の学生たち若い読者層を開拓するにいたらず、読者はもっぱら当時のまま時代とともに高齢化するにいたっていると思われる。五十代六十代の読者が七十代の著者の本を探して書店の一階と二階とをせわしなく往復するという図は傍目にはどのように映るものなのだろうかと考えつつとりあえず「あとがき」に目を通すと、「随想」という題名にしたのは連載の執筆を依頼に来た文藝誌の編集長に天麩羅をご馳走になったからで、随想という「漢字のつらなりが、どこかしら古風な「天麩羅」の語感と通じ合っているように思えたからである」といつもながらの人を食った韜晦ぶりにわけもなく安堵する。雑誌連載中に何度か目にしてはいたものの誰もが小林秀雄を思い出さずにいない題名に、ことによると「大家」然とした書きぶりになっているのではないかといささか危惧していただけにこの相も変らぬ戦略的軽薄さにほっと胸をなでおろす。
 さて「40×40字に設定してあるPCのフォーマットの7枚分を理不尽なまでに尊重する」(あとがき)という厳格な形式によって書かれた15回分の文章のそれぞれについてここでなんらかの感想を書きつけてみるのも暇つぶしの作業としてそそられなくはないけれども、生憎とつぶさねばならぬほど暇を持て余しているわけでもないのでその一つ二つについてなくもがなの感想をつぶやいておきたい。世間でもてはやされているらしいツイッターなるものは140字以内という理不尽なまでに厳密な文字制限があると聞くにつけ、すでにここまでで1000字以上をついやしているにもかかわらず何ら内容のあることを語ってはいないこの文章の書き手にツイッターはやはり無縁のものというしかない。あるいは、つぶやきはどこまでもつぶやきであって「散文」と相容れるものではないと居直ることも不可能ではあるまい。「散文」は、と『随想』の著者は書いている。「何かを書くようなふりを装いながら、実際には何も書こうとせず、何かを語るふりを装いながら、何も語ろうとせず、何かを描写するふりを装いながら、何も描写してはいないのである」と。
 いま上に括弧でくくって引用した文章はこの本のなかほど「散文生成の「昨日性」に向かいあうことなく、小説など論じられるはずもない」と題された第8章に出てくるものであるが、ここで著者はギュスターヴ・フローベールがルイーズ・コレに出した一通の長い手紙のなかの「散文は生まれたばかりのもの」という一行を俎上に載せることからその文章を始動させる。そしてギュスターヴとルイーズとの関係についてマクシム・デュ・カンをまじえながらざっと素描したのち、この一行が「開示する小説美学のパースペクティヴ――あるいは必然的なその自己瓦解」について述べ始める。この一行は原文から直訳するならば「散文は昨日生まれたもの」となるのだが、フローベールにとって散文とはきわめて最近の「発明」にすぎず、「「近代小説」を論じる者のほとんどは、こうした「散文」の「昨日性」ともいうべきものに無自覚」であると著者のいう「散文の昨日性」とは、ギュスターヴからルイーズに宛てた別の日付をもつ書簡のなかに見られる「あらゆる典礼的様式、あらゆる規範、あらゆる限界」が超えられ「正統性というもの」が認められなくなったときに生成する「自由な散文」のことであり、それこそが「何ものによっても正統化されることなく、みずからがみずからをそのつど支える――もし、そういう言い方のほうが通りがよいなら、「ポストモダン」的な――およそ理に適わぬ試みたらざるをえない」近代小説なのである。「近代小説」を論じる者が無自覚なのは、こうした「終わろうとする意識とともにかろうじて存在しているかに振る舞う「近代小説」の本質的な不実さ」に対してにほかならない。
 こう要約してみると(この要約が正しいと請合うつもりは毛頭ないが)、「40×40字に設定してあるPCのフォーマットの7枚分」を要するとはとうてい思えない。140字とはいわないまでもツイッター3回分ぐらいでことたりるだろう。だが要約はあくまで要約であって「散文」ではありえない。散文とは、著者がすでに書いているように何かを語るふりを装いながら何も語ろうとしないものであるからだ。すなわちここに見られる文章は、散文とはなにかを問いながら散文を演じてみせるパフォーマンスというべきものであって、はからずもそこに引用されたミシェル・フーコーの「一篇の作品、一冊の書物、一行の文章、一つの観念といったものに対して、それを判断するのではなく、それを存在させようとする批評」という意味における「批評」であり、「そうした批評は、火を点してまわり、草花が生長するのに瞳を注ぎ、風の音に耳を傾け、あわを手につかんで空中にとび散らせてくれるもの」であり、「判断をいくつも下すのではなく、存在することのしるしを無数に沸き立たせてくれるような批評。それは、無数の存在する無数のしるしに声をかけて、その眠りから呼びさましてくれるような批評なのです」というフーコーの美しいことばに対応するエッセ・クリティックというべきである。そしてこのフーコーの夢想する「批評」はフローベールの夢想する「文体」――「韻文のようにリズムを持ち、科学用語のように精確で、波打ちが、チェロの音色が、飛び散る火花が感じられる文体、頭のなかに小刀のように切れ入ってくる文体、そして、軽快な追い風に乗った小舟で滑走するように、思考が滑らかな表面を滑っていくように思われる文体」――に精確に対応する。
 一つ二つについて感想を述べるといいながら一つについて述べるだけでもう十分に文字数を費やしたので、もう一つ第10章「つつしみをわきまえたあつかましさ、あるいは言葉はいかにして言葉によって表象されるか」について140字以内でつぶやいておきたい。第8章が原論ならこの第10章は実践篇で、磯崎憲一郎の「終の住処」の反時代的な貴重さを語ってそれを判断するのでなく存在させようとする批評であり、思考は追い風に乗った小舟のように滑らかに滑走する。未読の「終の住処」がこの批評に見合うほどの刺戟的作品であるかどうかはわたくしに不明である。
 ところで、ここに読まれうる文章がかりに『随想』の著者の文体にどことなく似通っているように見えたとしても、そこにはなんら深い意図が隠されているわけではないとだけ最後に付け加えておきたい。

随想

随想