『神聖喜劇』独語



 大西巨人神聖喜劇』を読み終えた。全五巻全八部(400字詰原稿用紙約4700枚)を読了するのにおよそ二ヶ月かかったことになる。一巻につき十ないし十五ヶ所に附した附箋のうち、幾つかについて(このたびも)心覚えにしるしておきたい。
 第一巻第二部「第三 現身の虐殺者」、第三内務班長大前田文七が「生きたまんまの人間様を丸焼きにするとにゃ、たった二分間ありさえすりゃええ」と語る場面。いま大前田は東堂太郎の四、五メートル前にたたずんで、去ってゆく白石少尉を見送っている。


 「彼の五体が陽光をしりぞけて常ならぬ濛気(もうき)を集めたとみえたのは、むろん私が落ち込んだ一瞬の幻視であって、もはや天頂に近い日輪は、彼の上にもわれわれの上にもひとしく小止みなく垂直に照りつづけていた。長靴の音がへだたってゆくのに従って大前田の顔面がわずかずつ右にめぐると、庇の影の向こうから鼻の頭だけが光の中に真ん丸く浮かび出て鬼燈(ほおずき)の熟れた実のように赤く尋常に輝いた。」(p450、光文社文庫


 立ち去る白石少尉の行く手に沿って、大前田の顔がすこし右に傾き、後ろにいた東堂にその大前田の横顔が認められる。陽光に照らされた大前田の横顔の、軍帽の庇が形作る影から免れた鼻の頭が、ただそれだけが陽の光を受けてほおずきの熟れた実のように赤くてらてらと輝いている――。
 ここに読者は芥川龍之介の俳句「水洟や鼻の先だけ暮れ残る」の余響をたしかに聞きとめるにちがいない。大西巨人はかつて「詞の由来吟味」において、斎藤茂吉の書く「お蔭を蒙った詞の由来」に言及しつつ、自作の表現のあれこれについて、それが先行する文学作品の何に「お蔭を蒙った」かについて語ったことがある。大西は幾つかについて具体的に引例しているのだが、ここではその一、二のみを挙げておこう。
 第二巻第三部「第二 十一月の夜の媾曳」。


 「――たわわに撓う大輪の牡丹花を折り取って横たえるように、浴槽外の私は、彼女の浴槽内に立ち上がる(鎖骨がほとんど目立たずに胸乳が小さからず大きからずふくよかな)五体を抱き受けて化粧瓦張りの真白い床の上に用心深く仰臥させた。」(p160、同上)


 大西は、執筆する際には「必ずしも気づかなかった」が、のちになって考えると高校生(旧制)の頃に読んだ谷崎潤一郎の短篇「兄弟」のある場面が記憶に残っていたという。谷崎の短篇「兄弟」の一節は下のとおり。


 「たわわに撓った牡丹の大輪をゆり起すやうに、女房たちが御遺骨(おんなきがら)を抱き参らせると、夕顔の花のやうな白いお顔には、おん悩みの影だになく、らふたけたおん眉根の神神しさは、御生存中と変りがない。」


 大西はまた、森鷗外の短篇「寒山拾得」中の「蒼白い日」という表現に「鮮烈な印象を受け」、自作に「青ざめた冬陽の色」と書いた。それは「――その執筆現場において私が鷗外のそれをただちに意識的に借用または模倣したのではなかったけれども、――私の記憶の底に鷗外のその一句が潜んでいて、それが私の表現活動を手つだってくれたことの結果でもあろう」と述べる。
 「詞の由来吟味」は「新日本文学」(1969年10月号)に発表され、単行本『遼東の豕』(1986年)に収録された。これは、単行本での初読時に「鮮烈な印象」をわたしに与えたエッセイで、すこし前に「孤立と連帯」*1で、冨澤有為男の「地中海」の一節と『神聖喜劇』のある情景とが「はるかに照応しているように思え」ると書いたのも、この「詞の由来吟味」を念頭においてのことである。


 「詞の由来吟味」の続篇というべき「論理性と律動性」(「新日本文学」同掲載及び『遼東の豕』収録)*2において、大岡昇平の「『俘虜記』および『野火』における論理性・論理的骨格の逞しさ」を指摘した箇所もまた初読時のわたしに大きな肝銘を与えたが、ここでは触れない。当該エッセイで大西は、文章においては明確な論理性と同時に「音楽的な[?]律動性」を重んじるが、その双方を同時に成り立たせることはなかなかに困難である(むろんその双方を同時に成り立たせることを目標にしているが)と述べる。その困難は「日本語・日本文の伝統的・歴史的な現実に由来する」のだが、「日本の散文(口語体の文章)において、われわれが漢語・漢文脈的表現の採用(多用)に頼るとき、そこに緊張性ならびに律動性が出現しやすい、という情況」がある。しかし、なるたけ「漢語・漢文脈的表現」に頼らないことが必要・大切であるとして『神聖喜劇』のなかから「漢語・漢文脈的表現」をいかに改訂したかという一例を挙げる。
 「なるたけ漢語(的表現)をより少なく用いること・なるべく漢文脈(的表現)の利用に寄りかからないことが、必要でもあり大切でもある」ということの理由は必ずしもわたしに明確でない。その事訳を推測することは可能だが、推測の正否の判断はなかなかに覚束ない。大西の意図にもかかわらず、『神聖喜劇』には「漢語・漢文脈的表現」が頻出するとわたしは認める。そしてわたしは『神聖喜劇』における(『神聖喜劇』に限らず、大西巨人のすべての小説における)「漢語・漢文脈的表現」の頻出をむしろ多とするものである。『神聖喜劇』にあらわれる文章上の特徴は、「漢語・漢文脈的表現」だけではない。修飾語として用いられる和歌の枕詞や、会話における九州方言・俗語やもまた「音楽的な[?]律動性」を効果的に醸しているにちがいない。さらに引用における古文・漢文(白文、訓読文)・英文・独文の混淆が文章のジョイス的展覧として一つの小宇宙を形作っている。
 大西にあっては「漢語・漢文脈的表現」はきわめて自然ななりゆきであり、それゆえに意識的な抑制が意図されたのであろうが、現在の「日本の散文(口語体の文章)」において「漢語・漢文脈的表現」はむしろ払底しており、「漢語・漢文脈的表現」の導入は読者にかえって新鮮に見えるのではあるまいか。そうした一例をわたしは西村賢太の小説に認めることができる*3
 寺田透は、そのもっとも初期の『神聖喜劇』論*4において、「さるにても」や「……にあらざるなし」といった『神聖喜劇』中の「文語的表現」を指摘し、「言語といふものは、なかなか統一的方針で処理して行けないもの、文章といふのは不純なのが普通といふことの証拠」と述べている。「統一的方針」とは、「日本の散文(口語体の文章)」における「漢語・漢文脈的表現」の排斥とも重なる大西の意図を忖度してのことだろう。すなわち、大西の意図はどうあれ、「日本の散文(口語体の文章)」には「漢語・漢文脈的表現」やら「文語的表現」やらが交じるのはきわめて当然である、と寺田は述べているのである。
 わたしには、大西の意図はどうあれ(もしくは大西の意図に反して)、「日本の散文(口語体の文章)」を更新するには、むしろ「漢語・漢文脈的表現」やら「文語的表現」やらを積極的に導入することが肝要ではないかと思われる。以前、丸谷才一の「批評家としての谷崎松子」*5にふれて書いたように、谷崎の文体を「典雅で充実した新文体」へと変えた和文脈の導入もまた「日本の散文(口語体の文章)」の更新に寄与するのではあるまいか。それは鷗外や潤一郎とはまた別の「日本の散文」にならなければならないのだけれども。

*1:id:qfwfq:20140413

*2:この二篇はNHKのラジオで二日にわたって放送されたものを文字化したもの。いずれも大西巨人文選2『途上』みすず書房に収録

*3:id:qfwfq:20110821

*4:「『神聖喜劇』(第一部・第二部)をめぐって」、「新日本文学」1971年4月、寺田透の評論集『戦後の文学』他に収録。ここでは大高知児編著『『神聖喜劇』の読み方』晩聲社、1992より引用

*5:id:qfwfq:20121021