『神聖喜劇』そして/あるいは『ボヴァリー夫人』



 『神聖喜劇』読了の余熱のなかにいまも佇んでいる。文章を書くと、つい、パーレン(この丸カッコのこと)のなかに補足説明をしたり、自分の書いた文章をカギカッコで引用したり、と大西巨人的文体にどっぷりと浸っている。影響を受けやすいんだね。才子ならねど軽薄なり。わたしだけかと思ったら、河出から出た『大西巨人――抒情と革命』に千野帽子さんもそう書いていた。恐るべし、大西巨人的文体の伝染力。近々『日本人論争――大西巨人回想』も出るので、この熱はしばらく醒めそうにない。以下に書くのは、その余熱のなかで考えた由無し事である。


 「エディターシップ」(Vol.3、日本編集者学会)という冊子に、井出彰氏が「「日本読書新聞」と混沌の六〇年代」という文章を寄稿している。セミナーでの講演を文字に起こしたもので、なかなかに興味深い内容だったが、ひとつ、肝銘を受けたエピソードを紹介しておきたい。
 大学生が「日本読書新聞」を卒論のテーマにしたいと井出彰氏を訪ねたときのこと(井出氏は同紙のかつての編集長)。大学生君いわく「戦前の『読書新聞』や戦後出発したばかりの『図書新聞』は、やはりそうとうお金に困っていたのですね」。何故と問い返したら彼は「誤植ばかりで校正の人が足りなかったのでしょう」と答えた。井出氏は誤植の「真相」を次のように明かす。


 「それはどういうことかというと、検閲を逃れるために、あちこちわざと誤植にしているというのが真相なんです。たとえば毛沢東を毛沢西にしたり、ヒットラーヒドラーにしたり、そういうふうにしているところがいっぱいあります。今の若い人から見れば、誤植ということになるけれども、そういう形で何とか戦争の時代を切り抜けてきた、そういう前史があるのです。」


 まあ、本当の誤植も少なくはなかったろう(週刊紙で、締切ぎりぎりに原稿が上がることもあり、また専門の校正者がいなくて編集者が校正を行なっていたはず)。だが、意図的に「誤植」をしていたという指摘には虚を突かれた。事情を説明されるとなるほどと思うけれども、これは果たして「誤植」なのか、あるいはそうでないのか。
 筆者が(人名などを)正しく書いたのに誤って植字する、これを誤植という。あるいは、筆者が(人名などを)誤って書いたのを正さずにそのまま植字する、これは正しくは「校正ミス」というべきだろうが、一般に誤植と同様に見なされる。では、筆者が意図的に毛沢西やヒドラーと書いたものをそのまま植字すると、これは誤植なのかそうでないのか。
 おおかたの読者は、くだんの大学生と同様にこれを誤植と見なすだろう。あるいは慧眼の読者がいて、わざと「毛沢東」を「毛沢西」と書いたのだと見抜くかもしれない(検閲官にはそうした具眼の士がなかなかにいたらしい)。だが、ここで問題なのは、いずれが「真正のテクスト」なのか、ということである。実在の人名に徴して「毛沢東」と修正を施したものが「真正のテクスト」なのか、それとも「毛沢西」と文字に書かれたとおりのものが「真正のテクスト」なのか。
 こういう言い方もできるかもしれない。テクストは、現実を参照したり、テクストの背後にいる作者の意図を忖度したりして、読者が補って読むべきものなのか。あるいは、いまここにあるテクストのみがすべてであり、それ以外になにものも附加するべきでないものなのか。これはいわゆる「テクスト主義」にかかわる通俗的な議論と同じ問題構成に帰結するのだろうか。


 フローベールの『ボヴァリー夫人』に奇妙な一語が存在する。物語が始まってまだそれほど間がない第一部の中ほど、エンマとシャルルがダンデルヴィリエ侯爵の招待を受けヴォビエサールの館へ赴く。大理石を敷きつめた玄関を入り、廊下を通って客間へ行く途中に玉突室があり、玉突台の周囲の壁に金縁の額がいくつも掛けてある。エンマは額の下に書いてある画中の人物(戦没した侯爵ら)の説明書きを次々と読んでゆく。


 「あとの絵は、ランプの光が玉突台の緑のラシャを照らすばかりで、部屋じゅうに影をただよわせていたので、はっきりとは見わけかねた。光は水平な画面全体を褐色に染めてはいたが、画面に当たるとワニスの亀裂に従い、きらきらした細かい稜角を散らし、そのため、これらすべての金縁の、大きな黒い四角形のなかからは、ところどころ、絵の明るい部分が――蒼白な額や、じっと見つめる両眼、赤い上着の肩に髪粉を降らせてひろがる鬘の気、肉づきのいい脹脛の上の靴下どめの留め金などが浮き出ていた。」(山田𣝣訳、河出文庫


 あたかも金縁の額をミドルショットでとらえていたキャメラが一幅の絵にズームしてそのテクスチュアから絵のディテールまでを執拗に舐めまわしているかのような微細な描写である。だが不思議なのは、光が褐色に染めている画面がなぜ「水平な」と形容されねばならないのか。読者は「水平な」という形容詞に一瞬方向感覚を失って躓く。しかしキャメラは読者のそんな躓きになど目もくれずに絵のディテールに目を奪われているかのようである。『ボヴァリー夫人注釈』の著者レオン・ボップもまたこの一語に躓いたらしく「壁にかけた画面がどうして『水平な』と形容しうるのか、どうもよくわからない」と首を傾げるばかりだ(同上河出文庫、訳注)。
 同じ箇所を別の翻訳書で見てみよう。中村光夫は次のように訳している。


 「ランプの明かりは、玉突き台の緑のラシャだけを照らし、部屋のなかには闇が漂っていた。水平に並んでいるカンバスを褐色に染めながら、光はワニスの割れ目にそって細い葉脈の模様をつくって画面で砕けていた。(以下略)」(講談社版世界文学全集37『フロオベエル』)


 伊吹武彦訳ではこうなっている。


 「(画をはっきりとは見わけかねたのは)ランプの光が玉突台の緑のラシャに集中して、部屋じゅうに闇をただよわせていたからである。横にならべてかけた画を黒褐色に染めながら、光はワニスの亀裂に従い、細い線となって画面にくだけていた。(以下略)」(『フローベール全集』第一巻、筑摩書房


 中村光夫も伊吹武彦も金縁の額が壁に並べて掛けられている、すなわち「水平な」とは、額が床に対して水平な位置を保っている、と解している。中村光夫は「水平な」という原語を生かして並んでいると補足し、伊吹武彦は原語をあっさりと無視し意訳している。いずれの訳書もこの箇所に訳注をほどこしていない。(三者のなかでは)山田𣝣のみが「水平な」と意味不明の(もしくは意味の曖昧な)形容詞をそのまま訳し、レオン・ボップを援用してテクストの不明さのなかにあえて身をおいている。
 たしかに現実の光景を想像すれば、幾つもの金縁の額が麗々しく壁に並べて掛けられていたにちがいない。だれもが映画などでよく知っている光景だ。だから中村光夫も伊吹武彦も著者フローベールの意を汲んでそう訳したのだろう。意を汲んで? だがフローベールがかりに「横にならべてかけた画」を意図したとするならば、かれは必ずそう書いたにちがいない。山田𣝣訳・河出文庫の解説に蓮實重彦は「一篇の長編小説の執筆に五年もの歳月をかけたフローベールの「文体の苦悩」はつとに有名であり」と書き、『フローベール全集』第一巻『ボヴァリー夫人』の解説に伊吹武彦は「わずか数行、ときには一字一句のために幾日かを苦しみ抜き、「関節の一つ一つに鉛の玉を附けてピアノをひく」思いで筆を運んだ」と書いた。そうであってみれば、フローベールの書く「水平な画面」はあくまで「水平な画面」でなければならず、「水平に並んでいるカンバス」や「横にならべてかけた画」とは異なる何物かでなければならない。それが「真正のテクスト」であり、それを蓮實重彦に倣って「テクスト的な現実」*1と呼ぶべきかどうかは、このたび満を持して刊行された大著『『ボヴァリー夫人』論』を精読してのちのことになるだろう。
 そしてこの「真正のテクスト」あるいは「テクスト的な現実」が、「一篇の長編小説の執筆に二十五年もの歳月をかけた」大西巨人の『神聖喜劇』においてどのように顕現しているのか。おそらくそれは『神聖喜劇』という異形のテクストを読み解くもっとも根幹の視座になるはずだが、いささか長くなりすぎたのでこの続きは次回に持ち越すことにしたい。


神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)

神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)

ボヴァリー夫人 (河出文庫)

ボヴァリー夫人 (河出文庫)

*1:id:qfwfq:20131215