水道を止めた男――河林満『渇水』を読む

 

 

 4、5日前の朝刊に懐かしい名前を見つけておっと思った。角川文庫の全5段新刊広告で、河林満の『渇水』が発売されるという。映画化原作をキャッチフレーズに、内容紹介のかわりに映画のスタッフ・キャスト、公開日などが記されていた。河林満の名前と『渇水』という書名は記憶にあった。単行本のたたずまいもおぼろげながら思い浮かべられそうで、あるいはかつて所有していたのかもしれない。ただ、読んだ記憶はなかった。

 その日、出かけたついでに近くの書店に立ち寄り購入した。160頁の薄い文庫本で、帯に朱色で映画化原作と大きく書かれ、主演の生田斗真の横顔のスティル写真が添えられている。表題作のほかに2作収録されており、単行本にあったもう1作は削除されていた。

一般に、電気ガス水道の料金を滞納した場合、水道が最後に停止されると言われている。停止執行までの猶予時間の長さは、水を止めることが直接、命にかかわるという判断からだろう。

と巻末の解説に佐久間文子さんが書いている。なるほど。「それでも水が止められることはある。何度促しても未納分を支払わない場合は執行される」。水道料金を滞納している家を訪問し、水道栓を止める仕事をしている男が「渇水」の主人公である。

 著者は高校を卒業後、市の水道局に勤め、停水執行の仕事にも携わったという。それだけに、止水栓にも新旧の違いがあり、古い建物に取りつけられた旧式の止水栓の場合は停水にもそれなりのコツがいるといったディテールや、停止に行った家の住人から投げつけられる罵声などにもリアリティが感じられる。だが、河林満はその経験をもとに小説をこしらえてみようと思ったのではなく、マルグリット・デュラスのエッセイで「水道を止めた男」の話をたまたま読んだのがきっかけであったという(文庫解説)。これはわたしの推測だが、河林は自分の経験が小説になるとは思いもしなかったのではないだろうか。他愛のない経験を他人に話すと妙に面白がられて、それを機に自分でもその面白さを初めて認識するといったことは誰にでもあることだ。河林はデュラスのエッセイにインスパイアされて、これをテーマに書いてみようと思ったのだろう。「渇水」の悲劇的な結末は河林の実際の経験ではなく、デュラス由来のものにちがいない(芥川賞選考委員の河野多恵子は、選評でこの結末に否定的な意見を述べている。アイデアが「借り物」であることを微妙に嗅ぎ取ったのかもしれない)。

 河林は「水道を止めた男」の話を、止められる側の視点から「ある執行」という作品に仕上げて同人誌に発表し、自治労文芸賞を受賞した。翌年、それを執行する男を主人公にして改稿し「文學界」新人賞を受賞、同年(1990年)の芥川賞候補に挙げられた。「文學界」新人賞は選考委員の満場一致で決まったという。たしかに「渇水」は、内容は地味ながら力のある作品である。文庫本に同時収録された習作とおぼしい「千年の通夜」や、「渇水」の4年前に同人誌に発表して吉野せい賞奨励賞を受賞した「海辺のひかり」などと比べても文章の精度は格段に上がっている。たとえば、寝ている主人公(岩切)を妻がゆり起こすという場面。

背の高いわりにはふっくらとしたやわらかい妻の掌の感触は、はじめてさわったときから岩切が惚れていたものではなかったか。目覚めるまぎわのその感触を独り寝の床で岩切は期待していた。深酒をした翌朝など、自分がまるで盲人で、掌でしか妻を知らないもののような、不意の人なつかしさに陥ることもあった。

といった描写のやわらかな官能性。あるいは、主人公が水道料金の滞納家庭を車で訪ねに行く個所。

信号でとまった。五本の交差点ほどさきまで、いっせいに信号の赤がともっている。すぼまっていく道路のむこうに、山並みがみえた。冬なら雪を被った富士山がのぞめる。信号が青にかわる。

 どうということのない場面で、かりに削除しても話に支障はない。だが、ここはシーンとシーンの転轍機の役目をする重要なポイントで、美しいロングショットである。

渇水」の3年後、「文學界」に発表した「穀雨」で再度、芥川賞候補となる。芥川賞選考委員の大庭みな子はこの作品をこう評している。

古風なようだが、あっという間に古びる新しそうに見える風俗に彩られた作品群の中ではむしろみずみずしく、命の手ざわりがある。

 残念ながら受賞は逸したが、大庭みな子の評は幾度も芥川賞の候補に挙げられながらついに受賞することのなかった多田尋子を思い出させる。ちなみに「渇水」は、1990年上半期・第103回芥川賞候補作だが、1988年下半期・第100回から3回続けて候補になり落とされたのが多田尋子である。

 河林満は2度芥川賞候補となり、受賞することなく2008年に亡くなった。享年57。生前の著書は『渇水』1冊のみだが、2021年に文芸評論家・川村湊の編で『黒い水/穀雨 河林満作品集』がインパクト出版会から刊行された。『渇水』収録作品を除く小説20作を納めた全集に準ずる作品集である。A5判530頁余の大冊でやや値は張るが、単行本2~3冊に相当するのでむしろ安いぐらいだ。

 佐久間文子さんは文庫版の解説で、こう書いている。

「古風」と言われた河林の小説をいま読むと、今日的なテーマだと感じられることにおどろく。貧困が社会問題化し、見過ごせない段階まで来ていることも大きい。

 時代が小説にようやく追いついたということか。いや、こうした問題はいつの時代にも潜在的にはあることで「多くの人にはそれが見えなかった」だけだろう。それを声高でなく静謐な筆致で描いたこの作品の意義は大きい。

 河林満はわたしより2か月ほど年長の同学年だ。これを機に多くの人に読み継がれてほしいと願う。