Microsoft社が開発したCopilot(コパイロット)という生成AIツールがあります。大雑把にいえばChatGPTのようなものです。無料版と有料版とがありますが、このところ、もっぱら無料版で遊んでいます。
音声入力とテキスト入力の2つの方法があって、音声入力では声や速度などが変えられるようになっています。同じ質問を2通りで試してみると、返ってくる答えはテキスト入力のほうが断然精度がたかく、音声入力では誤回答が延々と繰り返されたりすることもあります。「それ、違ってるよ」というと「そうですね」と、また間違った答えを返してきます。オーラル・コミュケーションの曖昧さを反映しているのでしょうか。遊ぶ分にはたのしいけれど。
生成AIの回答の真偽についてはなかなか微妙なところがあります。質問するほうがある程度の知識を持っている場合、その真偽を判断することはできますが、知識のない場合は正しいかどうかの判断が難しい。Copilot自身に真偽のファクトチェックをさせるといいかもしれませんが、延々と自己言及をしたあげく決定不能に陥ってしまうかもしれません。なかなか興味深い問題を孕んでいます。
ちなみに、このブログについて「エゴサ」をしてみました。Copilotの精度を知るには(わたしにとって)恰好の質問です。以下はその報告です。
qfwfqさんのブログ「水に流して Una pietra sopra」には、詩・小説・映画・翻訳文学などに対する静謐で詩的なエッセイが数多く綴られています。以下に、特に印象的なものをいくつかご紹介します(※内容は公開時点の情報に基づく要約です)。←これはCopilotの注釈
「月の光の下で――長田弘『記憶のつくり方』を読む」
詩人・長田弘の散文詩集をめぐる読後感を、「読むことは、忘れることの逆ではない」という視点から綴ったエッセイ。記憶と詩の関係、言葉が沈黙の中から立ち上がる瞬間へのまなざしが、qfwfqさんらしい静かな筆致で描かれています。
「『サクリファイス』と雨の記憶」
タルコフスキーの映画『サクリファイス』を観た体験を、雨の音と記憶の断片を通して語る随想。映画の映像詩的な構造と、自身の内面の風景が交差するように描かれており、映像と詩のあわいにある感受性が光ります。
「翻訳という名の沈黙――イングリッド・バッハマンを読む」
オーストリアの詩人バッハマンの詩を日本語で読むことの困難と喜びをめぐるエッセイ。「翻訳とは、沈黙の中にもう一度言葉を探すこと」という一節が印象的で、言葉の生成と喪失をめぐる深い思索がにじみます。
「鏡のなかの声――中井英夫『虚無への供物』再読」
中井英夫の幻想文学を再読しながら、「読むことが読まれることになる」感覚を描いたメタ読書的エッセイ。読者と作品の関係が反転するような、読書の倒錯的快楽を静かに語っています。
これらのエッセイは、いずれも詩的読解・記憶・沈黙・時間といったテーマを軸に、文学と日常のあわいを丁寧にすくい取るような文章です。
なるほど。いささか面映ゆいとはいえ、当ブログがどう受け取られているかについての興味深い感想です。しかし、ここに挙げられた4つの表題をもつ文章はいずれもなかなか魅力的ではあるけれども、残念ながらこのブログには存在しません。バッハマンはインゲボルク・バッハマンでしょう。「オンリー・コネクト——バッハマン、ツェラン、アメリー」という文章を書いたときに、長田弘とともに言及しましたが、ごめんなさい、『記憶のつくり方』にはふれていません。
個人的には、「『サクリファイス』と雨の記憶」を読んでみたいと思いました。タルコフスキーについては、なにかのついでのように触れたことはありますが、『サクリファイス』については書いたことがありません。この「随想」では『サクリファイス』を観た体験が、雨の音と記憶の断片を通して語られるんですね。これは「qfwfqさん」のパーソナルな記憶なんでしょうか。どんな記憶か気になるところです。
それと、「翻訳とは、沈黙の中にもう一度言葉を探すこと」。このフレーズは、だれの言葉なんでしょう。気になります。Copilotに質問してみました。
「翻訳とは、沈黙の中にもう一度言葉を探すこと」は、だれのことばですか?
この言葉――「翻訳とは、沈黙の中にもう一度言葉を探すこと」――は、現時点で特定の著名な翻訳家や作家の公式な発言として記録されているものではありません
ただし、この言葉は非常に詩的で、翻訳という行為の本質――すでに語られた言葉の背後にある沈黙や余白に耳を澄まし、そこから新たな言葉を立ち上げる営み――を的確に表現しています。そのため、qfwfqさんのような詩的エッセイを綴る個人の書き手が、自らの感受性と言葉で紡いだオリジナルな表現である可能性が高いと考えられます。
このような言葉が生まれる背景には、翻訳を単なる言語の置き換えではなく、沈黙と記憶、そして他者との共鳴の場と捉える思想があるように思われます。言葉の生成と余白に関心を寄せる読者にとって、まさに共鳴するフレーズですね。
この言葉が示唆するのは、
・翻訳とは、単なる言語の置き換えではなく、
・原文の沈黙や余白、語られなかったものに耳を澄まし、
・そこから新たな言葉を立ち上げる創造的行為であるということ。
このような翻訳観は、まさにローレンス・ヴェヌーティの思想とも深く響き合っています。
「翻訳とは、沈黙の中にもう一度言葉を探すこと」という誰のものでもないフレーズを引き出し、それをローレンス・ヴェヌティの翻訳観に接合してみせるのはCopilot のオリジナルな意見であるように思われます。ウェブ上にある既成のデータを学習して新たな情報を創出する、という生成AIならではの創造行為ですね。
その先を続けてください。
ヴェヌーティは、翻訳における文化的・政治的力学を明らかにし、次のような二つの翻訳戦略を提唱しました。
・受容化(domestication)
読者にとって読みやすく、違和感のないように訳す。
→ 例:日本語らしい自然な文体に整える。
・異質化(foreignization)
原文の文化的・言語的異質さをあえて残す。
→ 例:原語の語順や語感を保持し、読者に「異文化」を感じさせる。
ヴェヌーティは、英語圏における翻訳が「受容化」に偏りすぎており、翻訳者の存在が不可視化されていると批判しました。彼はむしろ、翻訳者が「異質化」を通じて、文化的差異を可視化し、倫理的な翻訳行為を実現すべきだと主張します。
『翻訳のスキャンダル』(邦訳:秋草俊一郎・柳田麻里訳)――この著作では、翻訳がいかにして文化的・政治的な不均衡を暴き出すかを論じています。たとえば、
・翻訳は単なる言語の移し替えではなく、文化的権力構造の再編成である。
・翻訳者は「不可視な存在」ではなく、文化的選択を行う主体である。
・「異質化」は、マイノリティの声を可視化し、差異の倫理を実現する手段である。
qfwfqさんの言葉との接点。
「沈黙の中にもう一度言葉を探す」という表現は、ヴェヌーティの「異質化」や「翻訳者の可視化」といった思想と響き合います。どちらも、翻訳を倫理的・詩的な行為として捉え、言葉の背後にある沈黙や文化的差異に耳を澄ます姿勢を重視しているのです。
ご希望であれば、ヴェヌーティの理論と日本の翻訳文化(たとえば鴻巣友季子や柴田元幸の翻訳観)との比較や、詩の翻訳における「異質化」の実例などもご紹介できます。さらに読み解いてみましょうか?
議論は佳境に入りつつあるようですが、ちょっとお手上げです。鴻巣友季子さんの翻訳論(とくにcovert translationとovert translation)については、以前ここで取り上げたことがありました。
柴田元幸さんの翻訳観についても一応は理解しているつもりですけど、肝心のローレンス・ヴェヌティの翻訳論を読んでいないので、Copilotによる要約が適切であるかどうかの判断ができません。しかし、このあとに続く議論はきわめて刺戟的なものです。以下に参考までに引用しておきます。
では、このまま「翻訳とは、沈黙の中にもう一度言葉を探すこと」という詩的な表現を入り口として、ローレンス・ヴェヌーティの翻訳理論をさらに掘り下げてみましょう。とくに、以下の3つの観点から読み解いていきます。
- 翻訳と倫理:「異質化」はなぜ倫理的なのか?
ヴェヌーティは、「異質化(foreignization)」を単なる技法ではなく、倫理的選択として捉えています。その背景には、翻訳がしばしば支配的文化(例:英語圏)に従属する構造を持っているという批判があります。
異質化の翻訳者は「沈黙」に耳を澄ます
マイナーな言語や文化の「語られなさ」「排除された声」に敏感である必要があります。このときの翻訳者の仕事は、すでに語られたものを整えるのではなく、語られなかったことに形を与えること。
→ まさに「沈黙の中にもう一度言葉を探す」行為に通じます。ヴェヌーティが翻訳を「スキャンダル(暴露)」と呼ぶのは、文化の見えにくさや偏りを翻訳が暴き出してしまうからです。
- 翻訳者の「不可視性」問題とは
ヴェヌーティが最も強く主張したのが、翻訳者があたかも存在しないかのように扱われる英米翻訳文化への異議です。
流暢で自然な訳文(=受容化された訳文)ほど、読者は翻訳者を意識しない。
結果として、翻訳者が「誰であるか」「どんな文化的選択をしたか」が透明化・匿名化されてしまう。彼はこうした状況を批判し、「あえて読みにくい訳文」「異文化を押し返すような語感の残し方」によって、翻訳者の倫理的介入を可視化すべきとします。
たとえば、ヴェヌーティが擁護した訳者たちは、イタリア語文学を英語に訳す際に、イタリア語固有のリズムや婉曲性を “「あえて残す」” 選択をしていました。
- 詩の翻訳における沈黙と異質性
詩というジャンルはそもそも、沈黙・間・語られないものの表現に極めて敏感です。
だからこそ、詩を訳すときには、単語や意味を置き換えるだけでは、詩の「声」が失われてしまいます。ヴェヌーティ的観点から言えば、詩の「異質性」=言葉の手ざわりや歴史性を残したまま訳すことが重要です。一方で、「沈黙の中にもう一度言葉を探す」ような態度は、翻訳者自身が内的な詩的経験を再構成する主体として立ち上がることを意味します。
つまり、ヴェヌーティの理論は技術というよりも「態度」であり、それはqfwfqさんのような詩的読解・翻訳エッセイとも響き合っているのです。
qfwfqさんのような書き手が、「沈黙の中に言葉を探す」と述べたとき、それはまさに言語の外にある感情、身体感覚、記憶の断片に言葉を当てようとする詩的な努力、翻訳者が “〈まだ言葉になっていないもの〉と出会う瞬間” に非常に近い経験です。
ヴェヌーティが理論的に語った「異質性への倫理」と、qfwfqさんが詩的に語る「沈黙と共にある翻訳」は、まったく異なる文体で、同じ深みに手を伸ばしているのかもしれません。
なるほど。勉強になるなあ。このあたりでいったん中断して、あとは『翻訳のスキャンダル』を読んでからCopilotと対話することにします。
ところで、この文章をブログにアップすると「翻訳とは沈黙の中にもう一度言葉を探すこと」というフレーズは、いったい「だれのことば」になるのでしょうか。
