チャンドラーを訳すのはやっかいだ――片岡義男・鴻巣友季子『翻訳問答』を読む



 片岡義男鴻巣友季子『翻訳問答』を読んだ。これは、オースティン、チャンドラー、サリンジャー等々著名な七人の小説家の代表的な作品の一部分を、お二人がそれぞれ日本語に翻訳し、それらについて語り合う、という刺戟的な試みである。当然、既訳も複数ある作品ばかりで、それらも俎上に上がることになる。
 まずはオースティンの『高慢と偏見』、冒頭の有名な一節。


 It is a truth universally acknowledged, that a single man in possession of a good fortune, must be in want of a wife.


 この ” truth” をどう訳すか。既訳五種類*1は、いずれも「真理」「真実」といった訳語を当てているけれども、それが「真理」であるならことさらにuniversally acknowledged(あまねく認められている)という必要はないだろう、というのが鴻巣さんの意見。「真理」「真実」といった言葉をなるべく使わずに訳せないかということで、鴻巣訳は「世間一般にきまりきったこと」となった。はからずも片岡訳も「世のなかの誰もが認めるところ」となっている。オースティンが” truth”の一語に込めた(反語的)ニュアンスをいかに伝えるか、がここでの眼目となる。
 もう一ヶ所、奥さんのする噂話に乗ってこない夫に奥さんがじれて(cried his wife impatiently)問い質す箇所。This was invitation enough.を片岡訳は「我が意を得たとばかりに喋り始めた」、鴻巣訳は「待ってましたとばかりに、妻は喋りだした」。他の訳では「これは、十分に誘いの水であった」(富田彬訳)、「呼び水はこれで十分」(中野康司訳)。ここには挙げられていないが、中野好夫訳は「待ってました、というところだ」(『自負と偏見新潮文庫)。ちなみに、この『翻訳問答』では、既訳を参照せずに訳すというのがルールで、鴻巣訳と中野好夫訳の一致は偶然である。
 さて、富田訳の「誘いの水」、中野康司訳の「呼び水」、いずれも「水」の比喩表現となっているが、片岡義男はこれを「僕がしきりに言う国内仕様の日本語」だという。cried his wife impatientlyの ” impatiently” を鴻巣さんは「しびれを切らして」と訳したが(片岡訳は「勢いづいて」)、これも「国内仕様」であるという。「国内仕様」であるからどうだ(いいとか悪いとか)というわけではない。ただ、自分の流儀でないということなのだろう。
 「誘い水」「呼び水」「しびれを切らす」はユニヴァーサルなものでなく、日本国内、日本人のあいだ、でしか通用しない比喩表現であり紋切型である。邦訳は当然日本国内向け、日本人向けのものなので、「国内仕様」でいいといえばいいのだけれど。むしろ、積極的にどんどん「国内仕様」にしたほうが「こなれた良い訳」といわれるかもしれない。中野好夫さんなどは、さしずめ「国内仕様」の代表的翻訳者といっていい。「素頓狂」とか「実家」に「おさと」のルビを振るとか、いまではやや時代を感じさせる表現も中野好夫訳には散見されるけれど、流暢といえばこれほど流暢な訳文を操る翻訳者もまたとあるまい。
 話がすこし逸れたが、片岡義男の「国内仕様」を排した「フラットな訳」は、原文と訳文とができるだけ近似値であるような翻訳である、といえるだろう。その邦訳を英訳しなおすと元の原文とそれほど差異がないというような。一方、「国内仕様」になればなるほど日本語としてはこなれた文章になるけれども、それを英訳すると原文とは懸け離れたものになるかもしれない。
 鴻巣さんによれば、日本でいう「透明な翻訳」と欧米でいう「透明な翻訳」とは正反対で、日本では原文が透けて見えるovert translation を「透明な翻訳」といい、欧米では最初からその言語で書いたかのようなcovert translation を「透明な翻訳」というそうだ。まえに「犬と狼のあいだに」*2で書いた「夜は若く、彼も若かった」が日本でいう「透明な翻訳」overt translationで、「夜はまだ宵の口だった」が欧米でいう「透明な翻訳」covert translationということになろうか。いまの日本の翻訳も、おおかた日本流の「透明な翻訳」の方向へ向かっているのだろう。たとえば、清水俊二訳『長いお別れ』がcovert translation であるとすれば、村上春樹訳『ロング・グッドバイ』がovert translation であるといったふうに。


 『翻訳問答』で二番目に取りあげるのが、そのThe long goodbye。冒頭の4パラグラフ、ペーパーバックなら1頁ほどか。ここには幾つかの(興味深い)問題が存在するが、一つだけ取り上げてみよう。
 第4パラグラフの最後、車の中で酔いつぶれたテリー・レノックスを邪険に扱った駐車場の係員の男を、レノックスの連れの女が睨みつける。男はそんな視線にはいささかも動じない。


 At The Dancers they get the sort of people that disillusion you about what a lot of golfing money can do for the personality.


 「このget の解釈がひとつのポイントで、これの主語、動詞、目的語などの訳しかた次第でまったくちがった訳になりますね」と鴻巣さんがおっしゃるとおり、それぞれの訳文にはかなりの違いが生じている。まずは既訳の清水俊二。「“ダンサーズ”では、金にものをいわせようとしても当てがはずれることがあるのだ」。清水訳チャンドラーにおおむね共通する、大意を取った大ざっぱな訳。英文和訳の試験ならせいぜい50点ぐらいでしょうか。次は村上春樹訳。「金にものを言わせようとしても人品骨柄だけはいかんともしがたいことを人に教え、幻滅を与えるために、〈ダンサーズ〉は、この手の連中を雇い入れているのだ」。村上さんはget を「雇う」と解釈している。the sort of people は駐車場の係員、「よくいるうわべばかりタフぶった男」(村上訳)のことになる。
 ところが、片岡訳ではこうなる。「ザ・ダンサーズの客はかねまわりの良さが人の性格をいかに歪めるかの見本のような人たちで、彼は店の客にはすでに充分に幻滅していた」。片岡さんはこういう。「「ザ・ダンサーズに行くとこういう人たちが客にいますよ」ということです。そういう人たちが客筋だ、という意味です」。つまりthe sort of people は〈ダンサーズ〉の「客筋」ということになる。そして「幻滅」するのは「彼」すなわち駐車場の係員である。
 「片岡さんは、get を「雇う」などではなく、「ザ・ダンサーズにいるとこういう連中に出食わす」という意味で訳しているのですね」と鴻巣さんが問うと、片岡さんは「そうでしかあり得ないからです」と答え、さらに「しかし、どうしてこんなに意味のちがいが出るのでしょう」という問いには「英語の構文を理解しないままに意味を取ろうとしているからです。構文こそが意味なのですが」と答える。明快といえば明快、にべもない返答だ。
 だが、鴻巣さんも指摘しているように、片岡訳は駐車場の係員の視点で一貫しており論理的に無理がない。係員の男は客に「幻滅」しているというより、どだい〈ダンサーズ〉に来る客に高潔さを求めるような幻想illusionとは無縁だ、というようなニュアンスなのだろう。〈ダンサーズ〉の経営者にとっては、どんな客であろうと金さえたんまり落としてくれるなら上客であり、「タフぶった男」をわざわざ雇い入れて教育的配慮を施さねばならない義理はないのだから、村上訳はよく考えるとちょっと変だ。
 鴻巣訳は以下のとおり。「なにしろ〈ダンサーズ〉なんかで働いていれば、人間いくらお金に余裕があっても、人柄が良くなるわけではないという残念な例に山ほどお目にかかるのだから」。「なにしろ」の前の文が「係員はそんな目にも動じない」であるから、「残念な例に山ほどお目にかかる」のは係員であり、the sort of peopleは〈ダンサーズ〉の「客筋」になる。基本的に片岡訳と同じ方向といえるだろう。
 ちなみに、「犬と狼のあいだに」でもふれた『R・チャンドラーの「長いお別れ」をいかに楽しむか』での山本光伸訳は「〈ダンサーズ〉がこの手の連中を雇い入れているのは、どれだけ遊び金を持っていようとお里は知れているということを思い知らせるためなのだ」と、村上訳と同様に経営者の教育的配慮説をとっている。
 英語の構文については、わたしの貧弱な語学力ではよくわからないが、意味の上からは片岡訳が理に適っているように思われる。それを認めたうえで、若干異をとなえれば、「ダンサーズには、金に余裕がありさえすれば人柄も良くなるといった迷妄を醒まさせるような類いの人間たちがいるものだ」といった訳文も可能ではあるまいか。disillusion は what以下についての迷妄からyou(一般的な人)を醒まさせる、という他動詞として。
 「本当にチャンドラーを訳すのは難しいのですね」という鴻巣さんに、片岡さんは「難しいのではなく、やっかいなのです」と応じ、さらに「この原文の表現はすべて陳腐なものです」と手厳しい。「翻訳問答」はこのあと、サリンジャーの「バナナフィッシュ」、モンゴメリーの「赤毛のアン」、カポーティの「冷血」、エミリー・ブロンテの「嵐が丘」、ポーの「アッシャー家」と続くのだけれど、この調子で書いているときりがない。片岡さんの発言で気になった数か所からひとつだけを以下にピックアップしておくことにしよう。


 「日本語を無理にあてはめることで、原作者の文章が持つ論理の動きを止めてしまいます。これは翻訳でいちばんやってはいけないことです。文章は言葉が先頭から後ろに向かってひとつにつながっているのですから、言葉をつなげばつなぐほど、先頭は前に向けて進んでいきます。この動きを止めてはいけません。そしてこの動きが書き手の論理なのです。書き手が言葉を選んでつないでいくことが文章の前進力になるのです。その動きを可能なかぎり止めないようにするのが、良い翻訳です。文章の論理をよく理解して、それに反しないように、日本語をあてはめる必要があります」


 本書は、「彼」が「枯れ」になっていたり(p.144)、spiritがspritになっていたり(p.183)、その他少なからぬ誤植にdisillusionを感じるけれども、なに、そんなものは玉に瑕だ。じつに面白くてためになる。本書に片岡さんがつけた英語のタイトルはLost and Found in Translation。道に迷ったり見つけたり。なかなか含蓄のあるタイトルだと思う。ちなみにlost and found は遺失物保管所のことでもある。


翻訳問答 英語と日本語行ったり来たり

翻訳問答 英語と日本語行ったり来たり

*1:最近あらたに小山太一訳・新潮文庫が加わった。これまでの中野好夫訳『自負と偏見』はお役御免となるのだろう。

*2:id:qfwfq:20140511