カフカ翻訳異文 その1


 おどろいた。いやあ、そうだったのか。ふうん。というようなことは、何かにつけて無知な私には日常茶飯事であるけれども、いや、これにはびっくりした。
 カフカの短篇が丘沢静也さんの新訳で出たので買ってきた。『変身/掟の前で 他2編』(光文社古典新訳文庫)。ほかの二篇は「「判決」と「アカデミーで報告する」。帯のキャッチコピーが「カフカカフカになった」(この翻訳によってカフカの真の姿が現れた、といった意味かと思ったが、そうではなく、これは「判決」によってカフカの文学が確立された、といった意味合いのことであった。訳者解説に出てくる。紛らわしいコピーですね)、そしてボディに「最新の<史的批判版カフカ全集>をピリオド奏法で」と小さく謳われている。
 よく知られているように、カフカは生前ごくわずかな短篇を作品集として出版しただけで、長篇草稿や日記、手紙の類を友人のマックス・ブロートに託して自分の死後は焼却してほしいと言い残した。いまわれわれが何巻もの全集でカフカの長篇や断章、日記などを読めるのはカフカの遺言を守らなかったブロートのおかげなのだが(丘沢さんの本書解説によると、焼却云々はブロートがつくった「神話」らしいとのことであるけれども)、従来のカフカ全集は編集作業に携わったブロートの意思というか思惑というか、要するに彼の流儀が反映されたものであった。新潮社から出ているカフカ全集は、旧版も、決定版と謳った新版もブロート版全集を元にしたもので、このブロート版全集によってカフカは世界的な作家になったわけである。
 ブロートの死後、カフカの手稿に基づいて研究者たちが校訂を施し、カフカの手稿に忠実なテクストによる全集が刊行された。このクリティカル・エディション(批判版)を元に翻訳したのが、池内紀個人訳のカフカ小説全集(白水社)で、したがって従来ブロートによって「アメリカ」と題されていた未完の長篇も「失踪者」というタイトルに改訂されている。しかしこの<批判版>もテクストを確定する際に編集という作業を経るわけで、まったくカフカの手稿そのままというわけではない。そこで一切の編集を放棄して手稿を写真に撮って翻刻したのが<史的批判版カフカ全集>と呼ばれるもので、この光文社文庫版の翻訳はこれに基づいている、というわけである。
 もうひとつ、宣伝文句にあるピリオド奏法とは、クラシック音楽の演奏で、その曲が作られた「時代」の演奏の仕方に忠実に演奏するということで、丘沢さん自身も解説で書いているように、ここには「オリジナル」とは何か、「忠実」とはどういうことか、といったやっかいな問題があるけれども、それはひとまず措いて、ここでは「自分が慣れ親しんできた流儀を押し通すのではなく、相手の流儀をまず尊重する」といった意味合いで、翻訳の姿勢に適用されている。訳者あとがきに「ビクターの犬のように、ヒズ・マスターズ・ボイスにしっかり耳を傾けよう」と書かれているように。


 さて、おどろいたのは、その訳者あとがきである。
 丘沢さんはある時『城』の邦訳を見て驚いた、という。池内紀訳の白水社版である。妙にページが白っぽい。池内さんが底本とした批判版全集は文字がぎっしり詰まって黒っぽいにもかかわらず、である。つまり、池内さんはカギカッコの会話が出てくるたびに律儀に改行を施した。そのせいで紙面が白っぽいのである。丘沢さんはここでミラン・クンデラを召喚して、フランス語訳カフカに対するかれの批判を紹介する。丘沢さんは出典を記していないけれど、これはずいぶん前に読んだ記憶があるなあ、と本棚を探すと出てきた。カバーに山本容子によるカフカの肖像が描かれた『裏切られた遺言』(西永良成訳・集英社)である。
 この本はクンデラカフカヤナーチェクを中心に「一つの小説のように書いた」評論で、タイトルは反ロマン主義カフカロマン主義者に仕立て上げたマックス・ブロートにたいする批判を含意している。クンデラは、「カフカが書いたもっとも美しいエロティックな場面」であり「彼の小説のポエジーの独創性がそっくり凝縮されている」『城』第三章の仏訳――ヴィアラット/ダヴィド訳、ロルトラリ訳――をドイツ語原文と対照し、その翻訳の「裏切り」ぶりを逐一剔抉してゆく。きわめて興味深い指摘だが、ここではふれない。
 カフカは、自分の本を大きな活字でゆったりと組んでほしいと望んでいたが(邦訳でも吉田仙太郎訳『観察』高科書店刊などはカフカの原典を踏襲して大きな活字で印刷している)、それは段落の少ない原稿でも読みやすくしたいと願ってのことだった。
 さてその『城』第三章だが、カフカの原稿ではたった二つのパラグラフだという。ブロートはそれを五つのパラグラフとした。クンデラは、ヴィアラット/ダヴィド版には九十、ロルトラリ版には九十五、「カフカのものではない文節が強制されている」という。そして「私が知るかぎり、どの国語のどの翻訳もカフカのテクストの元の分節を変えてはいない。なぜフランスの翻訳者たちが(全員そろって)そうしたのか?」と問いかけているけれども、ブロート版を底本にした新潮社全集版では七十九ある、と丘沢さんはいう。クンデラは日本語版は見なかったのね。クンデラがこの文章を書いたとき新潮社全集版は出ていたはずだが、白水社版は出ていなかった。もし、クンデラ白水社版を見たら腰を抜かすだろう。丘沢さんによれば、段落数は百六十二である(しっかり数えたんですね)。
 『城』の「ワンセンテンスを、7つの短文で処理している」白水社版を、丘沢さんは「短文をうまく連ねることによって、意味がすっきりと伝わり、リズムも生まれている」と評価しつつ、「しかし、改行を翻訳に反映させることは簡単なのに、なぜオリジナルの段落を無視したのか」と首をひねり、「たぶん、日本の文芸物の改行の慣行にしたがって、読みやすくしようと思ったのだろう」と推測している。私は編集者の要請かとも思ったが、白水社版小説全集に先行する池内紀訳『カフカ短篇集』(岩波文庫)でもカギカッコの会話はすべて、一冊まるごとすべて判で押したように律儀に改行しているから、これが池内さんの「流儀」なのだろう。丘沢さんは池内訳を「ざくっと切り取り、すっきり描いて、わかりやすい絵にしている」と言いつつ、「オリジナルの楽譜を踏まえてはいるが、あまり神経質にならず自分の流儀をくずさない。往年の大家の演奏みたいだ」とやや皮肉っぽく述べている。


 ところで、本当におどろいたのは実はそのあとであった。
 ここからが本題になるのだけれども、残念ながら時間の余裕がない。続きは次回に。ということで、興味のある方は直接光文社文庫に当たられたい。
                                             (この項つづく)