水の中で水が沈む――『水』そして『いのち』

 

 北村薫さんの新しい作品集が出ました。タイトルは『水』、サブタイトルは「本の小説」です(新潮社)。前作『雪月花――謎解き私小説』(同)と同じく、本や作家をめぐるエッセイ風の小説です。今回の趣向は、一冊の本が別の本につながり、ある作家が別の作家とつながる。もちろん、北村さんのことですから、話題は本の世界にとどまらず、映画、歌舞伎、落語、漫談……と「謎」を縦糸に縦横無尽に話がつながっていきます(この本の文体を模して、今回は敬体で書くことにします)。

 読み進めていると、チェーホフの『かもめ』が出てきました。このブログで『かもめ』について書いたばかりだったので、北村さんの本とこのブログが細い糸でつながっているかのようで思わず頰が緩みました。

 田端文士村記念館で催される河童忌の企画展に、「現代作家が選ぶ芥川龍之介のことば」というアンケートを求められた北村さんは、「風呂に入るのは簡単なのに、それを文章で生き生きと書くのは難しい」という芥川の言葉を思いだします(「湯」)。中学生の時になにかで読んだ文章の一節で、『六の宮の姫君』にも引用したのだけれど、さてその出典がわからない。探索のてんやわんやがあって原典は判明するのですが、『六の宮の姫君』には芥川のその一節の引用の後に、こう書かれていました。

 それに続けて《チェーホフは、水車小屋の側で壜の割れた口が光っている、というだけで月夜を作ってしまう》というくだりがあったような気がする。記憶違いかもしれない。

 いかにも芥川が書きそうな一節ですが、結局これは北村さんの「思い込み」だったようです。

『かもめ』第4幕にこういう台詞があります。

 トレープレフ (略)月夜の描写が長たらしく、凝りすぎている。トリゴーリンは、ちゃんと手がきまっているから、楽なもんだ。……あいつなら、土手の上に割れた瓶のくびがきらきらして、水車の影が黒く落ちている――それでもう月夜が出来あがってしまう。 (神西清訳)

 そういえば、『六の宮の姫君』(創元推理文庫)もまた「書物探索の旅」(北上次郎の評)を主題とした小説でした。初期からみごとに一貫しています。

 さて、『水――本の小説』の最終章で、北村さんはトークイベントに呼ばれて北陸金沢の徳田秋聲記念館を訪れます。金沢の個人出版社龜鳴屋の社主も登場して、つい「おおっ」と声が出ます(「いかにもお金儲けが苦手そうな方」というのが北村さんの人物評)。わたしも少し関わりのあった龜鳴屋本『犀星映画日記』も登場するのですが、この章の最後(本書の最後から2頁目)に、「秋声から始まった金沢の水の話です。最後は、秋声について語る犀星で閉じましょう」と、室生犀星の「徳田秋聲の文章」からその一節が引用されます。北村さんは明記されていませんが、これは犀星の『庭をつくる人』に収録された随筆です。これもまたわたしに縁のふかいウェッジ文庫で、またしても「おおっ」と声が出ました。

 犀星といえば――。

 北村薫さんに『ユーカリの木の蔭で』(本の雑誌社)という本があります。『雪月花』の前に刊行された本で、帯文に「本から本への思いがけない旅」とあるように、次から次へと本の話題がつながってゆきます。今回の『水』と同じ趣向ですが、こちらは「本の雑誌」の1頁の連載エッセイをまとめたものなので1回分の分量が短く、「数珠つなぎ」感がより強く感じられます。連載はいまも続いていますが、その「本の雑誌」の2023年1月号の《2022年度ベスト10》という特集をぱらぱらと見ていたら、佐久間文子さんの「現代文学ベスト10」にこういうくだりがありました。佐久間さんは瀬戸内寂聴の『あこがれ』(新潮社)を第4位に挙げています。

『あこがれ』は、昨年、九十九歳で亡くなった瀬戸内寂聴の最後の小説集。

 その前に読んだ『いのち』は、すでに亡くなった同時代の作家大庭みな子、河野多惠子の描かれ方に飲み込めないものがあった。文芸誌に発表された表題作を読んで、まだ見ぬ外の世界への最初の「あこがれ」が、夢見るようなうつくしさで描かれているのがちょっと意外でもあり、心うたれた。(以下略)

 この『いのち』(講談社)の「大庭みな子、河野多惠子の描かれ方に飲み込めないものがあった」という箇所がちょっと気になり、図書館で『いのち』を借り出して読んでみました。

 これは、瀬戸内寂聴が親しく交流したふたりの女性作家を回想した私小説で、瀬戸内寂聴という特殊なフィルターを通して見たある意味独断的な人物評であり、「死人に口なし」といった感もなきにしもあらずですが(とくにカリカチュアライズされた河野多惠子について)、瀬戸内寂聴のモデル小説はいずれにせよ独断的なものであって、『いのち』だけがとりわけ偏見に満ちているという印象は受けませんでした。

 それより『いのち』で「おおっ」と思ったのは、つぎのくだりです。

 私や吉行淳之介さんは井上靖さんと一緒に毎年、室生犀星賞の選者として金沢へ出かけていた。五木寛之さんの夫人の父上が金沢市長の時、生れた地方文学賞第一号だったので、その賞のあれこれは、ほとんど五木さんの肩にかかっていた。(112頁)

 もちろんこれは「室生犀星賞」でなく、泉鏡花文学賞でなければなりません。瀬戸内寂聴自身もかつて受賞したことのある文学賞です。室生犀星賞はあまり聞いたことのない賞なので調べてみると、一般公募の文学賞で、2012年に創設され5回で終了したとのことでした。泉鏡花賞の選者を長く務め、選者をしりぞいたあと自身も受賞した瀬戸内さんがなぜ間違えたのか不可解ですが、講談社校閲の目をすり抜けたのも不思議といえば不思議です。

 校閲といえば――。

本の雑誌」の《2022年度 私のベスト3》というアンケートに、岸本佐知子さんと内堀弘さんがそろって挙げているのが『文にあたる』(亜紀書房)という本です。著者は牟田都子さん、校正校閲を生業とされている方です。校正で、ゲラと原稿とを照合することを「原稿(原文)にあたる」という言い方をします。「文にあたる」とは、そういう意味です。

 内堀弘さんは『文にあたる』について、校閲は「職人の世界だ。それでも、「あの本、校正がよかったよね」と言われることはない。いや、特に気づかれないことが成果なのだ」と書いています。校正・校閲は黒衣の世界で、いわゆる「縁の下の力持ち」という仕事です。

 ちなみにアマゾンのサイトでこの本の書影を見ると、帯文にこう書かれています。

人気校正者が、書物へのとまらない想い、言葉との向きあい方、仕事に取りくむ意識について――思いのたけを綴った初めての本。

「人気校正者」なんですね。そういえば、石原さとみさんの主演で「校閲ガール」という連続TVドラマもありました。これからは、××さんが校正した本だから読んでみようという読者も出てくるかも。というのは冗談で、この「人気校正者」はきっと出版社に「人気」のある有能な校正者という意味なのでしょう。よく売れているようで、サイトには「3カ月で5刷21,000部を突破」とありました。こうした「地味にスゴイ!」(「校閲ガール」のタイトル)本が売れるのは頼もしいかぎりです。

 ちなみに『ユーカリの木の蔭で』に「校正の妖精」という文章がありました。『北村薫の創作表現講義』(新潮社)という本の校了間際、北村さんがたまたま新聞で見た新刊書の情報を「注」として急遽書き加えたら、それが意図したこととまったく逆の「誤植」になってしまった。やぶ蛇というやつですね。

 北村さんはその書き加えた部分をファックスで確認していました。しかし「見ていたのに、全く見えなかった」。それで間違ったわけですが、これはよくわかります。思い込みで文章を読むと、実際は違っていてもそう見えてしまう。「誤植」(というよりも校正ミスというべきですが)の原因の何割かはこの「思い込み」によるものです。だから、校正(生原稿とゲラの照合)をするときは1字1字文字ヅラを照合し、文章を読んではいけないといわれたものです(いまはもう生原稿というものがほぼなくなり、従って照合するという作業もほとんどなくなりましたが)。校正ミスについて、北村さんはある編集者の「活字の上に妖精がいて、見えないようにするんですよ」という言葉を伝えています。わたしはそんな洒落た言い回しは知りませんでしたが。

 わたしの読んだ『いのち』は2017年12月1日発行第一刷の単行本ですが、瀬戸内さんが亡くなる前年の2020年に文庫化されました。著者によって一部加筆訂正が行われたと講談社文庫の巻末に記されていますが、「室生犀星賞」は訂正されずそのままでした。どんな妖精がいたずらしたのでしょう。

 最後に、「水」にちなんだ校正の話で、この長い話を閉じましょう。

 3年前に亡くなった文芸評論家の加藤典洋さんを追悼する文章をこのブログに書きました。そこで、加藤さんが東大に在学中に学内の文学賞に応募して第一席に入賞した「手帖」という題の小説についてふれました。

qfwfq.hatenablog.com

 加藤さんの友人の橋爪大三郎さんが「週刊読書人」に書かれた追悼文から「手帖」の一節を孫引きしました。こんな文章です。

水の中で水が沈む。波がためらいながら遠のいていく。弱々しい水の皮膚を透かすと、ひとつの表情が、その輪郭を水に滲ませてぼんやり微笑んでいる。

 当時――1960年代半ばから70年代、文学青年のあいだで熱狂的に持てはやされたフランスのヌーヴォーロマン(アンチロマンともいいます)の影響をもろに受けた前衛的な小説です。瀬尾育生氏によれば、それは「全編に水、雪、落下、沈殿などのイメージ」が充ちた「異様に稠密な細部を持つ小説」であり「あきらかに「書くこと」についての小説」であったそうです(加藤典洋『日本風景論』解説、講談社文芸文庫)。

 受賞した「手帖」は「学園」という学内の機関誌に掲載されました。ところが、この「水の中で水が沈む」が「水の中でが沈む」と誤植されていたそうです。どこで読んだのか忘れましたが、加藤さんはこの「誤植」にげっそりしたと書いていました。「水の中で氷が沈む」ではありきたりで、作者の意図した鮮烈なイメージはまったく伝わりません。学内誌なので、ちゃんとした校正者もつかず、著者校正もなかったのでしょう。

「水の中で水が沈む」は、おおかた作者の書き誤りと見なされてしまったのかもしれません。