孤立と連帯――大西巨人と花田清輝



 大西巨人の『神聖喜劇』は当初、第1部〜第3部が光文社カッパノベルスより刊行された(1968〜69年)。光文社より刊行されるにあたっては以下の事情が介在したとウィキペディアに記載がある。


 「本作は連載当時から反響を呼び、筑摩書房講談社から刊行の声がかけられていた。松本清張が、光文社の社長・神吉晴夫に、同作を光文社から刊行するよう薦めたことを契機に、光文社が大西に接触花田清輝も、大西に「光文社でやるのがいい」と発言した。」


 松本清張の推薦があったことは以前より知られていた。洛陽の紙価を高からしめた『点と線』の出版社である光文社にたいして松本清張の発言力が大きく作用したことはありうるだろう。清張は『神聖喜劇』に推薦の言葉を寄せており*1、そのなかの「この小説は雑誌に連載中から私は愛読した」という言葉は、福岡県久留米市で教育召集され入隊、その後補充兵として戦地へ赴いた清張であってみれば、いつわりのないものと言ってよいだろう。
 光文社の元編集者であった新海均の著書『カッパ・ブックスの時代』*2によれば、カッパノベルス版の担当編集者・市川元夫は「清張の一言がなければ、あるいは光文社からの出版はなかったかもしれない」と述懐したという。
 「新日本文学」誌上で「神聖喜劇」の連載が始まったのが1960年10月。講談社文芸文庫版『五里霧』の年譜(齋藤秀昭編)によれば、「七〇年一〇月まで九五回」連載されたが、十年の歳月をかけてもまだ五巻全八部の半分にも達していなかった。ウィキペディア記載の「連載当時から反響を呼び」の典拠はわたしに不明であるが、こうした遅々として進まぬ、なかんづく一般の文芸誌でない「新日本文学」誌上での連載小説が「反響を呼」んだとは到底思えない。せいぜい一部で注目された、といったところが実状に近いにちがいない。「筑摩書房講談社から刊行の声がかけられていた」(『カッパ・ブックスの時代』にその旨の記載がある)については、大西巨人自身の証言がある。大西はあるインタビュー*3に答えて次のように語っている。
 「新日本文学」に十一回ぐらい連載した頃、というから1961年8月頃であろうか*4、光文社から「往復葉書の速達」が届いた。葉書は「現在『新日本文学』に連載中の『神聖喜劇』は社内でも愛読している。ついては他にお約束がなければ、ぜひ本社で出版したいから、お尋ねします」という内容だった。大西は光文社にたいしてよからぬイメージ(「あざとい仕事をする」)を抱いていたので、先約があるのでと即座に断った。「先約がある」というのは口実で、事実ではなかった。
 それから1ヶ月ほどたった頃、ある集まりで大西は花田清輝に光文社からの出版の申し出を断ったと語った。花田はそれにたいしてこう言った。


 「それは、僕はちょっと別の考え方をする。神吉は文芸ジャーナリズムでは孤立している。それから君も孤立している。しかし、本来ならば、神吉の出版における仕事、あるいは君の物書きにおける仕事こそ大衆化しなければならない。その意味で、君と神吉は結びつくべきであると思う。今からでも考えを変えて、君、その話をやり直したらどうか」


 大西は花田の考えにも一理あると思った。さらに野間宏に質すと、野間は「僕も賛成だ。ただし、僕は花田とは違う。他の会社と違って光文社は金持ちで、君は貧乏人だから、お金の面でプラスになりそうだから賛成する」と言った。大西は前言を翻し、光文社から出版することに同意した。
 わたしが思うに、おそらく花田も野間と同じ考えだったのだろう。光文社からの申込みを断るとはなんとモッタイナイことをするやつだろう、と呆れたにちがいない。だが、そうとは言わず、志において連帯せよ、と言うところにレトリシャン花田清輝の真面目がある。大西もまた花田の真意を知ったうえでその言葉を額面通りに受け取り、困窮生活を慮る花田の思いやりに応えたのだろう。
 ちなみに『カッパ・ブックスの時代』によれば、神吉晴夫は印税の前払いという形で「大西の赤貧洗うがごとき生活を、全面的にバックアップした」。中野重治は大西に「君の小説はいつ終わるかわからないけど、光文社はそれまで持つのかね?」と冗談交じりに言ったという。


 さて、この大西巨人インタビューを読んで面白く思ったことをもう一つだけ附記しておこう。
 石川淳の「普賢」と同時に芥川賞を受賞した冨澤有為男の「地中海」について、大西はこう語っている*5


 「『地中海』の書き出しのところなんか、なかなかうまい、上手に書いてあると思ったがね。「十一月、雨が来た」という書き出しだったな。「十一月、雨が来た。既に五日間巴里は深い雲煙の中にあった。屋根屋根の煙は低く歩道に垂れ、もはや見分け難くなった窓窓のあたりに、……警鐘をうちならす船のような、一つの連帯的な運命が徐々にこの街を包んでいるように思われた」というなかなか洒落た書き出しでね。
 そしたら、これを(正宗)白鳥は、「十一月、雨が来た。云々という書き出し。それも下手な書き出しの小説を」と、そう批評しとった。それで、ああ、と思ったが。なかなかあれはちょっと面白い小説だった」


 「地中海」の冒頭を正確に書けば以下のごとくである。
 「十一月、雨が来た。既に五日間巴里は深い雲煙の中にあった。屋根屋根の煙は低く歩道に垂れ、もはや見分け難くなった幾つかの中空の窓窓のあたりに、寺院の鐘のみが止度もなくさまよい……警鐘をうちならす船のような、一つの連帯的な運命が徐徐としてこの街を包んでいるように思われた」
 大西巨人の驚異的な記憶力にいまさら驚いてみせようがために引用したのではない。そうではなく、この「地中海」の一節が『神聖喜劇』のある情景とはるかに照応しているように思えたからである。第三部運命の章の「第二 十一月の夜の媾曳」の一節である。
 東堂太郎は入営直前の1942年1月4日、新聞社の窓から雨の海峡を眺めている。「数隻の汽船が落莫と憩っている」なか、小型の連絡船一隻だけが「西方へおもむろに遠ざかってゆく」。


 「私は、新聞を机上に置き広げたまま、椅子を立って、そばの窓ぎわに寄った。私が見下ろす市街の屋根屋根は新年の煙雨に濡れて静まっていて、そのかなたに、ここと中国地方西南端の都市との狭間の海が一帯の刃金色となって横たわっている」


 東堂太郎は室生犀星の詩を思い出す。
 「雨は愛のやうなものだ/それがひもすがら降り注いでゐた/人はこの雨を悲しさうに/すこしばかりの青もの畑を/次第に濡らしてゆくのを眺めてゐた/雨はいつもありのままの姿と/あれらの寂しい降りやうを/そのまま人の心にうつしてゐた/人人の優秀なたましひ等は/悲しさうに少しつかれて/いつまでも永い間うち沈んでゐた/永い間雨をしみじみと眺めてゐた」
 室生犀星の眺めた雨もいま自分が見ているような煙雨であったかもしれない、と東堂太郎は思う。
 「地中海」の主人公が眺める雨にかすむパリの屋根屋根をつつむ深い雲煙もまた、『神聖喜劇』の主人公や室生犀星やと等しい情動によって彩られた情景のようにわたしに思われるのである。

*1:光文社文庫版『神聖喜劇』第1巻の巻末に収載。もとはカッパノベルス版のカバーに印刷されていたもの。

*2:2013年、河出書房新社

*3:山口俊雄「大西巨人氏から見た石川淳文学―大西巨人インタヴュー―その二」、愛知県立大学文学部論集、2007

*4:インタビューの注に、連載当初は「ほぼ毎月」発表していた、とある。

*5:山口俊雄「大西巨人氏から見た石川淳文学―大西巨人インタヴュー」、愛知県立大学国文学会『説林』第56号、2008