誰に見しょとて…… 悼詞・加藤典洋

  

 「ぼくはぼくであることについてはたして自由だろうか?」

                ――J.M.G.ル・クレジオ『物質的恍惚』

 先月の5月16日、加藤典洋さんが亡くなった。突然のことで、驚いた。新聞の訃報記事に死因は肺炎とのみ書かれていて、肺炎にいたる病がなにかはわからなかった。数日後、都心に出たついでに書店に立ち寄り、新刊の『完本 太宰と井伏』(5月10日刊・講談社文芸文庫)を購入した。(おそらく)最後に書かれた文章を読みたかったからだ。

 3月に記された「自筆年譜」には、去年の11月21日、「先月より続いていた息切れが貧血によるもので実は病気を発病していたことが発覚し衝撃を受ける」とある。同月30日、病院に入院し治療を始める。翌年の「一月中旬、治療の感染症罹患による肺炎となり一週間あまり死地をさまよう。二月上旬、ようやく肺炎をほぼ脱し、中旬、都内の病院に転院。以後、入院加療を続ける(三月下旬まで)」。続けて「今後はストレスのかかる批評のたぐいからは手を引くこととする」と書かれていて、身を削るように執筆されていたストレスが病の原因もしくは遠因だったのかもしれない、と推察する。

 同じく3月に都内の病院で執筆された「文芸文庫版のためのあとがき」にも、病気を経験してようやく「老人」になることができたとして、「これからはしっかりと「若い人」に場所を譲り、そういう人に活躍してもらう助力をすることが「老人」たる自分の役割であると思っている」と今後の生き方について述べている。こう書いてから2か月たらずで死を迎えるとは、本人にも思いもよらなかったろう。

 その後、橋爪大三郎さんの追悼文「不在を受け止めかね、うろたえる」(「週刊読書人」2019年6月7日https://dokushojin.com/article.html?i=5498)を読んで、病名が急性骨髄性白血病であることを知った。3月にいったん退院し、四月に再入院、と「一進一退を繰り返した」とある。その追悼文のなかに、加藤さんが東大教養学部に在学中の19歳で銀杏並樹文学賞に応募し、第一席に入賞した小説「手帖」の一節が引用されている。銀杏並樹文学賞は、かつて大江健三郎蓮實重彦氏らが受賞した学友会誌「学園」が募集する文学賞である。

 「水の中で水が沈む。波がためらいながら遠のいていく。弱々しい水の皮膚を透かすと、ひとつの表情が、その輪郭を水に滲ませてぼんやり微笑んでいる。」

 橋爪さんが「相当に早熟で、かつ生意気な文体と言うべきだろう」と評しているように、ここには当時、60年代半ばから70年代にかけて文学青年たちをとらえたフランスのヌーヴォーロマンの影響が明らかにうかがえる。先述の自筆年譜にも1965年、17歳で『現代フランス文学13人集』によってヌーヴォーロマンを知り、東大入学後の18歳でル・クレジオの『調書』に刺戟を受ける、と記されている。

 この「手帖」という小説、そしてその変奏であるような「男友達」「水蠟樹」という三部作については、瀬尾育生氏が講談社文芸文庫版『日本風景論』の解説「はじまりの加藤典洋」で引用をまじえながら詳細に紹介している。わたしが実際に読んだのは「犯罪」(第1号、構造社、1970年9月刊)というリトルマガジンに掲載された「水蠟樹」だけだ。男のモノローグによる散文詩のような観念小説。ヌーヴォーロマンやカフカ倉橋由美子らの影響も仄見える。「男友達」の登場人物Jは、二十歳で「母から受け継いだ被爆の後遺症によって死ぬ」。カルテには「慢性骨髄性白血病ト認定」と記されている、という。暗然とする。

 ちなみに『現代フランス文学13人集』は新潮社から出た全4巻のシリーズで、フィリップ・ソレルスミシェル・ビュトールナタリー・サロート、アラン・ロブ=グリエ、クロード・シモンといったヌーヴォーロマンを代表する作家たちの小説の翻訳が収録されており、フランスの新しい小説の息吹きを、当時の若者たちのだれもがこのシリーズで知ることになった。それは、ゴダールトリュフォーらのヌーヴェルヴァーグの映画のように新奇できらきらと輝いていた。わたしもまた加藤典洋に数年遅れて、70年代に入ってからこれらの作品にふれた。ル・クレジオ豊崎光一訳『物質的恍惚』のカッコよさにいかれてわけもわからないままノートにその文章を書き写したりした。加藤典洋はわたしにとって、2、3年上級のとてつもなくよくできる先輩のようであり、50冊を超える著書の大半をとおしていつも変らぬ導きの糸のような存在だった。

 加藤さんの本は、最初の単行本『アメリカの影』(河出書房新社、1985年)からずっと読んでいるけれど、本当に腰を据えてじっくりと読まなければいけないと思ったのは、7年前に『小さな天体』を読んでからだ。この本については、このブログで3回にわたって書いた。この本によってはじめて、わたしは批評家加藤典洋だけでなく、ひとりの人間としての加藤典洋に出遭ったような気がした。むろん、それ以前の著書においても、ひとりの人間としての素顔をうかがうことはできるはずだが、それを読み取る力がわたしに備わっていなかっただけだ。このひとの思考はこういうふうにして形づくられてくるのだな、ということが『小さな天体』を読んではじめて了解された。思想はそれじたい完成されたものでなく、つねに鍛え上げられなければならない。それが生きた思想だということ。「鋼鉄はいかに鍛えられたか」が、現在進行形で伝わってくるスリリングな書物だった。この本を読んだあと、以前読んで手離した加藤さんの本を古本屋で買い戻したりした。

 訃報を知ったのち、加藤さんの著書を書棚から取り出して、あれこれと読み耽った。そのなかで、つよく印象に残った文章をひとつだけ引いておきたい。めずらしく映画について書かれた文章で、深夜、タルコフスキーの『ストーカー』のビデオを見て衝撃を受けたと書き出される小文で、『なんだなんだそうだったのか、早く言えよ』(五柳書院、1994年)に収録されている。映画館で観客とともに見る映画が、ビデオの登場によってその経験の質が変ってきたという。そのことじたいはありふれた知見だが、そこから引き出される「夢想」はありふれてはいない。

 「ぼくはこんな夢想をしてみる。ぼくはそっと「ストーカー」のビデオを手に入れ、誰にも黙って「ストーカー」を見る。そしてそれに甚大な衝撃を受ける。しかしぼくはそのことを誰にも話さない。誰にも話さず、どこにも書かず、人がそれについて語り、書く時にも、虫の音を聞き、空を飛ぶ鳥を見るように、それを聞き、眺め、ただ時々その映画を思いだし、その映画の語りかけてくるものについて考え、死んでいく。」(「映画、ひとりにしてあげる」)

 そうなのだ。衝撃を心のなかに秘めて、その衝撃の意味するものを繰り返し繰り返し反芻する。そして黙って死んでゆく。そういうひとにわたしはなりたい。そういっているかのようだ。本当は、批評などいらないのだ。書かなければそれに越したことはない。ただ、時折り思いだし、考えをめぐらせる。それでじゅうぶんではないか?

 わたしもパソコンにむかってこんな文章を書きつらねながら、そう自問したことは数え切れないほどある。誰に見しょとてベニカネつきょうぞ、か。このつたない文章を、「向う側への旅」(ル・クレジオ)の途中の加藤典洋氏に捧げる。

 追悼文はほかにもいくつか読んだが、扉野良人さんの〈ぶろぐ・とふん〉の「鎖の両端」(2019-05-24 https://tobiranorabbit.hatenablog.com/entry/2019/05/24/055314)が心に沁みた。

完本 太宰と井伏 ふたつの戦後 (講談社文芸文庫)