「なんだなんだそうだったのか、早く言えよ」は、加藤典洋さんの本のタイトルだけど、わたしも時折りそうつい呟いてしまう出来事に遭遇することがある。知らぬは亭主ばかりなり。わたし以外には、周知のことなのかもしれないけれど、立て続けに遭遇したふたつの事柄について書いておきたい。
先週のこと、新聞でジョン・ネイスンの『ニッポン放浪記』という新刊本の広告を見て、「ああ、やっと翻訳されたのか」と思った。ネイスンは、加藤さんの『小さな天体』という本に出てくるカリフォルニア大学サンタバーバラ校の「同僚」で、三島由紀夫の評伝*1の著者として知られる。『ニッポン放浪記』は、以前、ここで『小さな天体』についてふれた際に、翻訳されるといいなあと書いたことがあるネイスンの回想録Living Carelessly in Tokyo and Elsewhereである *2。
ちょうど都心に出かける用があったので、書店に立ち寄って購入した。ちなみにその日は、三島由紀夫自決の日の2日前だった。47年前か。あと3年で三島も著作権が切れるんだな、と感無量。
『ニッポン放浪記』は、寝る前に1章ずつ読んでいる。「おお」と思ったのは第3章の『潮騒』について書かれた個所。ネイスンは「三島の書斎でこの小説の純粋さ、その無垢な素朴さにどれほど心動かされたか」について熱弁をふるった。すると、
「三島は私に最後まで話をさせてから、笑ってこう言い放った。「あれは読者を騙したんだよ。こうやって書いたのさ」。三島は左手で目をおおい、右手を体の正面に出し、ペンを握ってサラサラと書くふりをした。私は無邪気さをむき出しにされ、呆然とした。この後でもう一度『潮騒』を読みなおしてみると、そのラブシーンは、プルーストとおなじように、同性愛の幻想をカモフラージュした場面なのだと強く感じられた。」
「なんだなんだそうだったのか、早く言えよ」。ネイスンの三島の評伝では、『潮騒』は「読者への冗談」であり、三島は「その冗談がうまくゆきすぎたにちがいないと痛恨の念を」示した、と仄めかされているだけである。そのくだりの前に「『潮騒』は、三島が書いた唯一の倒錯的でも諷刺的でもない恋愛小説である」とも書かれており、その「冗談」は「倒錯的でも諷刺的でもない」何かを意味するように読みとれる。
わたしは同性愛を「倒錯的」と思わないが、三島が「痛恨の念」を示したというのなら、読者にその「寓意」を享受してほしいと願っていたのだろうか。『私の遍歴時代』で三島は、『潮騒』の「通俗的成功と、通俗的な受け入れられ方」に冷水を浴びせかけられたと述懐しているので、「ちぇっ、わかってねえな」といささか不満には思ったのかもしれないけれど。そのうちに『潮騒』を読み返してみよう。
もうひとつは、先頃、刊行が始まった岩波文庫の『源氏物語』。校注のメンバーを見て、以前の文庫の改版ではないだろうとは思ったけれど、源氏なら「新潮日本古典文学集成」版を持ってるしなあ、と思って横目で通り過ぎていた。文庫版の原典よりも、このところ文庫版が出始めた林望の『謹訳 源氏物語』が「改訂新修」とも謳われているので、こちらを購入することにした。
と、思っていたところ、「リポート笠間」*3の最新号が届いて、岩波文庫版源氏の書評が載っていた。評者は法政大学の加藤昌嘉氏。のっけから、これは岩波の新体系版全5巻を文庫化したものだが「大幅に加筆され修正されていて、別のテキストが誕生したと言ってよい」と書かれている。「なんだなんだそうだったのか、早く言えよ」。
校注については、数ヵ所の「ユニークな注」が紹介されていて、たとえば「帚木」巻で、光源氏が紀伊守邸を訪れた場面の「思ひ上がれるけしきに聞きおき給へるむすめなれば」の「むすめ」を、従来の注釈は「空蝉」と解していたが、本書では「のちに軒端荻と呼ばれる、紀伊守の妹。別解に伊予介の後妻である空蝉」としている。これは最新研究の「主張を容れたもの」だそうだ。ちなみに、「新潮日本古典文学集成」版では空蝉としている。評者の加藤昌嘉氏も「私も“空蝉のことを「娘」と言うのかしら?”と疑問視していたので、今回、スッキリしました」と賛同している。
あるいは、「若紫」巻の、光源氏と藤壺との密会場面について、光と藤壺の「性交渉」はこれが初手だっかたどうかの「諸説紛々」についての「独自の見解」とか、新体系版では「生硬で説明不足の観があった」という「末摘花」巻の注への「しかるべき加筆」であるとかの目を瞠る注を取り上げて、さすが研究者だけあって簡にして要を得た書評である。
この書評を読まなければ、通り過ぎたままだったかもしれない。最新の角田光代訳はまだ見ていないけれど、林望訳とも併せて、この新注文庫版と照合してみるのも一興か、とも思う。
- 作者: ジョン・ネイスン,前沢浩子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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