映画のなかのナボコフ
最近みた映画にたてつづけにナボコフが出てきたので「おやおや」と思った。1本はスティーヴン・ソダーバーグ監督の『アンセイン~狂気の真実』(2018)。
全篇アイフォンで撮影されたというサイコスリラーで、ストーカーにつけ回されたヒロインが病院の一室に監禁される。ストーカーは気の弱そうなオタクっぽい感じの男で、それほど怖そうではない。最近起こったアイドルストーカー事件を思い浮べたりもする。
男は「君の好きなものは全部知ってるよ」と彼女にいう。
「好きな本はPale Fireだ。好きな歌はWalkin'after midnight」
「そうよ。父がよく聴いていた」
Walkin'after midnightは、カントリーミュージックの歌手パッツィー・クラインの1957年のヒット曲。おそらくヒロインの父親が少年時代に好んだ曲だろう。だとするとこの映画の時制はほぼ現在ということになる。
Pale Fireはむろんナボコフの小説『青白い炎』だが、Pale Fireが好きな小説だということが彼女のキャラクターにどう関わるのかがイマイチよくわからない。脚本家か監督はなんらかの意図があってPale Fireをもってきたのだろう。かりに好きな本が『重力の虹』だというと「おっ」と思うけれど、それにくらべるとPale Fireの偏差値というか、コノテーション(含意)がはっきりしない。まあべつに悩むほどのことではないのですけど。
最近みた映画じゃないけれど、『ブレードランナー2049』(2017)にもPale Fireが出てきた。 帰宅したジョー(K)にジョイが「本でも読む?」と差し出すのがPale Fireのペーパーバック。こんなシーンです。
こちらは、もうすこし物語と関わりが深いのだけれど、それにしてもなぜPale Fireなのか。ロバート・フロストでもいいじゃないかという気はしないでもない。きっとなにか深い意味がかくされているのでしょうけど。
最近みたもう1本の映画は『さよなら、僕のマンハッタン』(2017)。原題はThe Only Living Boy in New York、サイモン&ガーファンクルの「ニューヨークの少年」で、映画のなかでも劇中歌として使われている。
のっけから男のモノローグで始まる。
The best lack all conviction, while the worst are filled with passionate intensity.(「最良のものが信念を失い、最悪の者が活気づく」―字幕より)
W.B.イェイツの「再臨」The Second Comingの一節だ。
「ルー・リードもボトムライン(NYのヴィレッジにあったライブハウス)で引用していた」とモノローグはつづく。
「ルー・リードもボトムラインも亡き今、残されたソウル(魂)は高級ジムの“ソウルサイクル”だけだ」と皮肉っぽく語るのはジェフ・ブリッジス演じるW. F.ジェラルドという中年の小説家。アパートの彼の隣の部屋に住むのが主人公の青年トーマス(カラム・ターナー)で、ジェラルドがトーマスに、付きあっているガールフレンドとどこで出会ったのかと訊ねる。
「Pale Fireという名の書店だ。店名の由来は…」とトーマスがいうと「ジョン・シェイドの999行詩か。ナボコフの」とジェラルドが続ける。
「そう。珍しい古本が揃ってる。僕の好みに合うんだ。アルバイト店員だった彼女が薦めてくれた本が最高だった」
何の本だったかは言わないけれど、おそらくジェラルドの本だったにちがいない(トーマスは小説家をめざしているが、ジェラルドが作家だとはまだ知らない)。
ここでのPale Fireはたんなる文学(衒学)趣味にすぎない。Moby-Dickという名前の書店であってもかまわないけれど、アメリカでもPale Fireのほうが幾分高踏的な感じがするのだろうか。「ジョン・シェイドの999行詩か。ナボコフの」という科白は蛇足だけれど。以前書いたことがあるけれど、ナボコフも『ロリータ』で酒場にウィリアム・ブレイクをもじった名前をつけていた*1。
ジェラルドの書きつつある小説がThe Only Living Boy in New Yorkで、それはトーマスのことだとジェラルドはいう。映画はモノローグが随所にはいり、ストーリーを語ってゆくのだけれど、モノローグはジェフ・ブリッジスすなわちジェラルドの声であり、この物語がすなわちジェラルドの小説そのものだという構造になっている。
トーマスの父の若い愛人ジョハンナ(ケイト・ベッキンセール)とジェラルドが、高層ビルからマンハッタンの夜景を並んで見下ろすシーンがある。
ジェラルドがつぶやく。
「私は高い窓からその街を見下ろす。
すると巨大なビル群はリアリティを失い、魔術的な力を帯びる。
無数の窓の四角い光だけが浮かんで見える。これは我々の詩――」
彼女があとを続ける。
「星々を地に下ろした我々の。――エズラ・パウンドね」
前回書いた『オリーヴ・キタリッジ』のジョン・ベリマンやロバート・フロスト、あるいは『ミリオンダラー・ベイビー』のイェイツや『レナードの朝』のリルケなど、映画に引用される詩が物語と緊密に結びついて効果を上げている例は少なくないが、この場合はどうだろうか。古書店のPale Fireと同様、やや取って付けた感はいなめない。
『さよなら、僕のマンハッタン』は、本来もっとビターなテイストの物語のはずだが、シュガーコーティングされたぶん底の浅い映画になってしまっている。くらべるのは酷だけれど、おなじくサイモン&ガーファンクルの歌を用いた名作『卒業』にははるかに及ばない。