『青白い炎』へのなくもがなの注釈――ナボコフ再訪(6)



 つい先日のこと、電車に乗って吊革につかまり鞄から文庫本を取り出して読んでいたら、となりで小学生の女の子の声がした。「シャーロック・ホームズが…」と、少女は若い母親らしき女性に語りかけていた。おそらく子ども向けの探偵小説でも読んだのだろうと思い聞き耳を立てるでもなく聞いていたら、「コナン・ドイルってすごいよねえ」と感に堪えぬ口調で少女は感想をもらした。ほう、作家に注目するとは子どもながら目の付けどころがいい、と思ったが、わたしの子どもの頃も杉浦茂とか寺田ヒロオとか武内つなよしとか山根赤鬼・青鬼とか、といったふうに作品とともに作家の名前が幼いあたまに印象深く刻み込まれたものだ。最近、歳のせいで固有名詞が記憶からナイヤガラの滝のように脱落しているけれども、幼少期におぼえた漫画家の名前はふしぎにいまも忘れることはない。そんなことを思いながら手許の文庫本に目を落とすと、そこには「シャーロック・ホームズ/わし鼻の、やせて骨ばった、かなり人好きのする私立探偵で、コナン・ドイルのさまざまな物語の主人公である」といった文字があった。この「驚くべき偶然の一致」にしばし茫然とする。
 ところで、このいかにも凡庸な注釈は、ある長篇詩章の「一つの点、後方を示す一本の矢印……雉子の足跡!/首に羽毛の輪のある美しい鳥、優美な雷鳥よ、/おまえはわが家の真後ろに中国を見つけた。/その仲間は『シャーロック・ホームズ』に登場するのではないか、靴を逆向きに履いて後退する足跡をつけた男は?」という一節に附されたものなのだが、注釈者はさらにこう続けている。「いまのところこれがどの物語への言及なのかを確かめる手だてはないが、われらの詩人が、この〈後退する足跡の事件〉をでっち上げたのではないかと、わたしは疑っている」。むろんこの物語は『バスカヴィル家の犬』に相違なくて、文庫本の翻訳者はこの注釈にさらに『バスカヴィル家の犬』である旨の注釈をほどこしている。この一例から察するに、チャールズ・キンボートと名のる男は注釈者としてはかなり凡庸な人物であるかのように思われもするのだが、そのひとつ前に附された注釈の記述に、わたしはべつの意味で茫然としてしまったのだった。
 まずは長篇詩の一節を以下に掲げる。


 「降る雪をもう一度撮り直そう。ゆるやかに落ちる無定形で、
 不揃いで不透明な、吹き寄せられる雪片の一つ一つを
 昼間の淡い白色 くすんだ灰色の光のなかの
 抽象画風な落葉松 それらを背景にしたどんよりと暗い白色を。
 それから見る者と見られるものとを夜が一体化するにつれて、
 徐々に二重写しになる青色(ブルー)を。
 そして朝には、霜のダイヤモンドが
 驚嘆の言葉を発する。白いページのような道路の上を
 蹴爪のついた足で左から右へと横切ったのは誰か?」


 さて、注釈者はこの一節の「徐々に gradual」と、引用した少し後に出てくる「灰色 gray」とについて一括して長い注釈を施している(引用箇所の「灰色」は dull dark)。「驚くべき偶然の一致(おそらくはシェイドの芸術の対位法的な特性に固有なものだろう)のせいだろうが」と注釈者キンボートは書いている(シェイドはこの長篇詩の作者ジョン・シェイド)。「詩人はここで(徐々に〔グラジュアル〕、灰色〔グレイ〕というように)ある男の名前を挙げていると思われる。詩人はその男に三週間後命を奪われる一瞬のみ出会うことになるのだが、その当時(七月二日)は男の存在については知るよしもなかった」。つまり、詩人は詩のなかでのちに自分を殺害する犯人の名を暗示しているのだ、と注釈者はいう。犯人ジェイコブ・グレイダスは、ジャック・ディグリーとかジャック・ド・グレイとかジェイムズ・ド・グレイといったさまざまな名を使っていたのである。注釈者キンボートはつづけて犯人グレイダスの身許調べにページを費やしたのち、こう記している。先に「べつの意味で茫然としてしまった」と書いたのは、以下の注釈文についてである。いささか長くなるけれどもそのまま引用しよう。


 「汚らわしい目的を胸に秘め、弾丸を込めた銃をポケットに入れて、彼が西ヨーロッパへ向けて出発したのは、まさに無心な詩人が無垢な国で『青白い炎』の詩章第二篇を開始した日であった。われわれは遠いぼんやりとかすむゼンブラから緑なすアパラチアへと進むグレイダスに、その詩の全篇を通じて、絶えず付き添ってゆくことになるだろう。そのリズムの道を辿り、ある押韻で追い越し、追い込み詩行の曲がり角で横すべりし、中間休止で一息つき、まるで枝から枝へと飛び移るように行から行へとページの末尾まで調子よく進み、二つの言葉のあいだに隠れ(五九六行への註を参照)、新たな詩篇の地平線上にふたたび姿を現し、弱強格〔アイアンピック〕の動きで規則的にどんどん前進し、街路を横切り、五歩格〔ペンタミター〕のエスカレーターにスーツケースを持って上昇し、そこから降りて、新たな思考の列車に乗り込み、ホテルのロビーに入り、シェイドが言葉を消しているあいだにベッドライトを消し、詩人がその夜の仕事を終えてペンを置くときにぐっすり眠り込むのだ。」


 『青白い炎』とは、詩人ジョン・シェイドによって英雄対韻句(ヒロイック・カプレット)で書かれた999行の長篇詩。シェイドの隣人で同じ大学で教えるキンボートが、詩人の遺した長篇詩の原稿を整理し、注釈をほどこしたのである。キンボートは生前のシェイドにたいし、自らの祖国ゼンブラから革命によって追放された国王のことを詩に書いてほしいと懇願していた。その願いをシェイドはとりあわなかったが、キンボートは遺された詩稿『青白い炎』に、その国王についての奇怪な物語を読み込んだ長い注釈を綴る。ゼンブラ革命政府の暗殺者ジェイコブ・グレイダスの追跡に怯える国王とはキンボート自身であり、詩人ジョン・シェイドはジャック・グレイという男に誤って射殺されるのである。あたかも国王をつけ狙っていたジェイコブ(ジャック)・グレイダス(グレイ)に暗殺されたかのように。あるいは、キンボートの妄想が現実を浸蝕したかのように。そして、いうまでもなく、このシェイドの長篇詩とキンボートの注釈とによって構成される『青白い炎』という作品は、ウラジーミル・ナボコフの「最高傑作の一つ」にほかならない。 文庫版『青白い炎』の訳者あとがきで富士川義之は書いている。


 「一言で言えば、これは文学というフィクションの世界を構築すること、すなわち小説を書くという一見虚妄な営みにどのような意味があるのか、ということを、キンボートのゼンブラ幻想を通じて探った作品ではなかろうか。註釈者が書きとめるように、「〈現実〉は真の芸術の主題でも対象でもないし、真の芸術は共同体的な眼によって知覚された月並みな〈現実〉とはまったく無関係な、それ自体の特別なリアリティを創造するのだという基本的事実」を明らかにするという特性を、この小説は深く刻み込んでいるからだ。」


 この注釈者キンボートのことばは、むろん、小説家ナボコフの信条(クレド)でもある。わたしが上述のキンボートの注釈文を読んで「茫然」としてしまったのは、長篇詩『青白い炎』の詩行のなかをひとりの男がかろやかに自由に往き来するさまがあたかも目に浮ぶように描かれていたからだ。つまりそれは、われわれが生きている現実世界とは「まったく無関係」に存在する「それ自体の特別なリアリティ」をもつ世界なのだ。読者の脳裡に、「ある押韻で追い越し、追い込み詩行の曲がり角で横すべりし、中間休止で一息」つく男の姿が行間から立ちのぼる一瞬に、ナボコフは小説家としてのすべての技量を賭けているのである。


 先日、GINGKO PRESSから刊行されたPaLe FIreがようやく届いた。近刊予告を見て予約をしてから刊行までにおよそ一年かかったが、その出来栄えは予想をはるかに上回るものだった。シェイドが詩を筆記したインデックス・カードが凹型に刳り抜かれた函に納められ、印刷された「PaLe FIre」の文庫版小冊子と、Brian BoydとR.S.Gwynnによる論攷を収録した冊子とが函をくるんだ漆黒の帙におさまっている*1
 キンボートが前書きに記しているように「(八十枚の中判索引カードの一枚一枚の上に)シェイドは見出し(詩篇数、日付)用にピンク色の上部罫線を使い、先の細いペン先を用いたすこぶる明瞭な筆跡で、十四本の薄い青色の罫線に詩の本文を清書しているが、ダブル・スペースを示すため、一行飛ばして書いたり、新たな詩篇を始めるたびにいつも新しいカードを使用している」。
 インデックス・カードは時日の経過を示すようにふちの四辺が黄ばんでおり、「彼(シェイド)の死の当日に使用された最後の四枚のカードは、〈清書原稿〉ではなく〈修正原稿〉となっている」とあるように、ペンで書きなおした跡や、ペン先からこぼれたインクの染みも認められる。ナボコフ自筆のインデックス・カードはThe Original of Laura(及びその邦訳『ローラのオリジナル』)でみることができるが*2ナボコフ自身はもっと先の太いペン先を使っていた。
 この「作品」(「PaLe FIre」)の日本語版はまず出ないだろう。

青白い炎 (ちくま文庫)

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Pale Fire: A Poem in Four Cantos by John Shade

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  • 作者: Vladimir Nabokov,R S Gwynn,Brian Boyd,Jean Holabird
  • 出版社/メーカー: Gingko Press Inc.
  • 発売日: 2011/10/01
  • メディア: ハードカバー
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