微笑の思い出



 年の瀬には人がよく亡くなる。実際にはどうかわからないが、そんな印象がある。12月に入って竹村和子さんに続いて森田芳光さんの訃報に接して驚いた。お二人ともわたしの同世代である。森田芳光がメジャーデビューするきっかけとなった8ミリ映画『ライブイン茅ヶ崎』を、当時、わたしが担当していた書評紙の映画欄で取り上げたことがあった。かれはそれを後々まで多としていた、といつだったか夫人から聞いたことがある。かれと直接話したのは二、三度だったが、同世代では抜群の才能の持ち主だった。『家族ゲーム』の公開時に、当時編集をしていた映画雑誌でインタビューをした松田優作伊丹十三も、かれの才能には一目置いていた。森田芳光についてはいずれまた書く機会もあるだろう。
 竹村さんと会ったのは、そのずっとのち、いったん休刊した映画雑誌を装いも新たに復刊することになり、ふたたび編集に携わることになった。その創刊準備号で「映画とジェンダーセクシュアリティ」という特集を組むことにしたときのことだ。
 時代はすでにポスト・フェミニズムのステージにあり、いまさらなぜジェンダーセクシュアリティを問題にするのかといった声も聞こえてきたが、英米では70年代から80年代にかけて隆盛をきわめたフェミニスト映画批評も、もはや21世紀を迎えようとする日本ではいまだその片鱗さえ窺えなかった。ポスト・コロニアリズムカルチュラル・スタディーズも日本では端緒についたばかりですでにポスコロ、カルスタと冷笑的に軽んじられていた。そうした風潮に抗して、愚直に映画のフェミニズムを取り上げておきたいと思ったのが企画の趣意だった。
 ちょうどお茶の水女子大学ジェンダー研究センターの客員教授として来日していたトリン・T・ミンハをカバー・インタビューとし、その聞き手を引き受けてもらうためにわたしはお茶大の竹村さんの研究室をたずねた。
 トリンとは、その8年ほど前に会っていた。日本で開催することになった「アジアン・アメリカン映画祭」の招待作品30本ほどの映画のなかに彼女の『姓はヴェト、名はナム』があった。娘は父に服従し、妻は夫に服従し、寡婦は息子に服従する――そうしたヴェトナムの因習の物語を「英語」で語るヴェトナム人女性。戦争の悲惨な記憶、虐げられた女性の過酷な状況。だがそれは彼女の体験ではなく、女優の「再現=代行」によるものであることが映画の途中で明かされる。「他者の言語」で語られる「サバルタン」のストーリー。それは脱構築されたドキュメンタリーであり、映画にとってリアルとはなにかを鋭く観客に問いかける映画だった。わたしは「アジアン・アメリカン映画祭」のプログラム代りにつくることになった雑誌のおよそ半分をトリンの紹介と批評にあてた。日本でトリンの映画のはじめての紹介だった。ぜひこの映画を見てもらいたいと思った藤本和子さんは期待にたがわず「鳥瞰的ドキュメンタリーへの反措定」という見事な批評文を寄稿してくれた。
 トリンが初来日したのは映画祭の翌年のことだった。著書『クレオール主義』でかねてよりトリンに関心を示していた今福龍太に連絡を取り、トリンとの対談を設定し、それは岩波の雑誌「へるめす」に「差異の政治学」として掲載された(その際に、ベトナムの姓名は日本とおなじく姓と名の順であり、わたしの編集した雑誌で「ミンハ」と表記しているのは礼を失している、と誌上で今福氏に批判された。わたしは赤面したが、その後、ヴェトナムについて多少知識をえて、彼の地では姓の種類がすくなく、混同を避けるためもあって「ラストネーム」で呼ぶのが慣例となっていると知った。ここでは姓のトリンを用いる)。その数年後、「へるめす」は「トリン・T・ミンハの旅」という特集を組み、竹村和子さんは「ポスト・コロニアリズムのなかのトリン」という論攷を寄稿する。竹村さんの翻訳になるトリンの著書『女性・ネイティヴ・他者』が岩波より刊行されるのはそのまた翌年である。
 竹村さんにインタビュアーを依頼したのは、トリンへインタビューするなら聞き手は竹村さん以外にない、そう思ったことと、それ以上に『女性・ネイティヴ・他者』を読み、アメリカを主要な活動の場とするポスト構造主義の尖鋭な思想家へのインタビューはわたしの任ではないと思ったからだった。竹村さんは快諾してくれた。それは、わたしの新雑誌にかける思いに共感してくれたせいも少しはあったかもしれない。トリンへのインタビューの冒頭、竹村さんは編集者の意図を汲んで代弁してくれている。


 トリンは長時間のインタビューと撮影に誠実に応対してくれた。来し方を語り、自作について論じ、日本について語った。そのなかで、いつまでも心にながく残ったふたつの発言がある。ひとつは、セネガルの首都ダカールの国立芸術院で音楽について教えていたときのことである(彼女はソルボンヌ大学民族音楽について学び作曲もよくする)。
 その学校では学生たちに古典的な西洋音楽を学ばせることを教育の主旨にしていた。トリンは非西洋音楽について教え、「もしすべての物体が固有の音とバイブレーションを持っているとしたら、西洋的な約束事である音楽とノイズとの境目はどこにあるのか」と学生たちに問いかけ、ために校長から厳しく警告されたという。だが、学生からは「音楽を専門的な知識としてではなく、人間の生活に到来するモノ(オブジェクト)、あるいは出来事として聞くようになった」と感謝された。トリンは「どこで、どのようにそのモノと接触するかによって、それは固有の音を発する」、「つまり、音楽とは日々の生活の音のなかで、そうしたやり方で彼らに語りかけてくる現実(リアリティ)なのです」と語る。こうした、日常の生活のなかに到来する出来事としての音楽=現実(リアリティ)、という考えはその後のわたしに少なからぬ影響を及ぼした。
 そしてもうひとつ。彼女はインタビューの最後で、日本で撮影する映画のためのリサーチを行なっているといい、こう語っている。


 《日本で、「主人と客」という明確に定義された関係を享受してきた多くの外国人旅行者のように、わたしはパフォーマティヴ(行為遂行的)な技術としての生活感覚に引き寄せられています。それは社会の成員がそれぞれある状況のもとで創意を凝らし参与する(コミットメント)ときに演じる役割、もしくは文化的なコンテクストにおいてそれぞれの要素がいかに活発に機能するか、といったものです。
 日本で撮るということは、生活のなかの儀式――つまり、社会を結合する伝統的な力であり、現在と過去の刺激的で新しい相互作用が可能になる関係の場を作り出すダイナミックな構造――を扱うということでもあります。儀式とは、たとえば人々のふだんの身ぶりのなかにあります。日本の伝統的建築の可動性と外観のなかに、また正確に運行される鉄道網、祭事の舞踊、京都料理の芸術性、そして商店街の躍動感あふれる色鮮やかなディスプレイのなかにあるのです。》


 トリンは、風には自然をととのえるリズムがあり、呼吸には身体に生命を吹き込むリズムがあるという。「リズムは精神と身体とのあいだにある扉」であるといい、文楽の黒子を例に出して見えるもの見えないものといった二元論を打ち破る方法は、「周縁に追いやられた人々のポジティヴなイメージを構築しようとする作品(自らの著作や映画)の場合のように、見えないとされてきたものを見えるようにするといった単純なものではなく、その存在自体が、見えるもののなかに隠されているもの、あるいは、見えないもの自身のなかの目に見える表象として、働くのです。存在のなかの不在と不在のなかの存在という複雑な戯れを持ち出すのは、リズムと親密に関わるためです。見ることができるもの、見ることができないものを創造する動き(ムーブメント)のなかで、リズムは大切な役割を果たすのです」と語る。
 そして、精神と身体とのあいだにある扉のように「儀式的なものに固有のリズム、あるいは寺院建築の外観のリズムは、セクシュアリティスピリチュアリティのあいだに一つの通路を開く」可能性があり、「わたしが情熱的に関わるにつれて、その場所は同時にわたしにとって親しみのある、不思議な場所になるのです」という。
 わたしのなかでトリンのこのふたつの発言はひとつに混淆し、「儀式」とは日常のなかに到来する出来事としての現実(リアリティ)である、という想念を形づくった。そしてそれは、ロラン・バルトのいう「空虚のひとつの実践」*1としての日本人のお辞儀、さらにバルトに来日をうながしたモーリス・パンゲの「小津安二郎の透明と深さ」*2における「純粋で厳格な小津の形式」とあいまって、「儀式」のなかにひそむ生のリアリティという想念をさらに強固にすることになった。パンゲはこの比類なく美しい小津論の末尾に『東京物語』の原節子を召喚してこう述べる。


 《『東京物語』の最後の部分で原節子は、はっきりとこう打ち明ける。「ええ、人生っていうのは、空しいものですわ」――だが彼女は、なんとも素晴らしい微笑をこの言葉に添える。この微笑の中にこそ小津の寛容の心がよく現れている。それは、我々が、胸のはり裂けるような出来事に対しても、静かな深い眼差しをもちつづけることができるようにとの、小津の心遣いを示している。この微笑の思い出は、我々が誕生とともに打ち捨てられたこの世界を憎みたくなったときにも、悲しみにくれる我々をそっと励ましてくれるであろう。このような微笑は、生きるとは許すことだということを、我々に思い出させてくれるのである。》


 この原節子の微笑を「儀式」と呼んでもパンゲは寛容の心でゆるしてくれるだろう。
 さて、季刊でスタートした新雑誌は一年、四冊を出して頓挫した。竹村さんの協力を得て行なったこのインタビュー記事が頓挫のひとつの遠因になるとはわたしは予想だにしなかった。わたしは二度とこの世界には戻ってこないだろうと思い、最終号に「エディターズ・ノート」*3を書き、トリンや竹村さん、その他の協力者に謝辞を述べた。
 「98年の夏、わたしはトリン・T・ミンハと再会した。8年ぶりの対面だった。(略)以前お会いしたことがある、と言うと、彼女はあの透きとおった繊細な声で、おぼえている、と言って微笑んだ。お世辞にちがいあるまいが、心がなごんだ」
 トリン・ミンハがそうであるように、竹村和子さんも微笑の美しいチャーミングな女性だった。心より哀悼の意を捧げる。


女性・ネイティヴ・他者――ポストコロニアリズムとフェミニズム (岩波人文書セレクション)

女性・ネイティヴ・他者――ポストコロニアリズムとフェミニズム (岩波人文書セレクション)

*1:『記号の国』石川美子訳、みすず書房

*2:『テクストとしての日本』竹内信夫ほか訳、筑摩書房

*3:この「ノート」においても、わたしはトリンのことばを借りて、映画とは日々の生活の中でひとつの出来事として到来し、わたしたちに語りかけてくる現実(リアリティ)なのだ、と書いている。