不器用に生きる娘の物語――成瀬巳喜男『めし』

 

 成瀬巳喜男監督の映画『めし』をDVDで見た。久方ぶりで見直して新たに気づいたことがあったので、それについてすこし書いてみたいと思った。

 映画は1951年公開で、映画のなかの設定もほぼ同じ頃だ。大阪の庶民的で質素な長屋に住む上原謙原節子の夫婦(おそらく実年齢とそれほど隔たりのない三十代前半~後半の年恰好)の家庭がおもな舞台となる。専業主婦である三千代(原節子)は、単調なおさんどんの繰り返しの日々にいささか倦んでいる。家計をやりくりするのにカツカツの夫・初之輔(上原謙)の安月給や、食事のときもろくに会話もしないで新聞から目を離さぬ夫に、こんなはずではなかったと結婚生活に幻滅さえ覚えているようだ。

 そんなある日、夫の姪の里子(島崎雪子)が東京から家出をして転がり込んでくる。潑溂とした姿態と無鉄砲で自己中心的な考えをもつ「アプレゲール」の二十歳の女性だ。屈託もなく叔父に甘える里子のコケティッシュな振舞いが三千代には目障りでならない。三人で大阪見物に出かける予定だったが、直前になってへそを曲げてわたしは行かないと言い出す始末。妻の苦労も知らないで、でれでれと鼻の下を伸ばしている夫への不満。かててくわえて、十歳も年下の里子の若さへの嫉妬もあるだろう。しかし、それ以上に里子によって直面させられた、里子のようには素直に夫に甘えられない不器用な三千代の性格、そこにこそ鬱屈のほんとうの原因があるのだが、それはこの映画の後半で明らかになるだろう。

 片岡義男は『映画の中の昭和30年代』で1950年代に撮られた成瀬巳喜男の映画16本を論じた。『めし』もそのなかの1本で、シナリオと映画とを照合しながら詳細に論じた文章には教えられることが多かった。だが、「里子の造形は失敗している。彼女がなぜ登場しなければならないのか、少なくとも映画の画面を追っているかぎりでは、その必然性がまったく感じられない」とか、「竹中という男性の役割はなになのか、なぜ彼は登場するのかなど、里子の場合よりもさらにわかりにくい」といった断定にはいささか首をかしげた。

 竹中(二本柳寛)は東京に住む原節子のいとこで、ふたりは一夕、料亭で食事をともにする。ふたりの間にかよう感情は幼なじみの親密なもので、お互いに淡い好意のようなものを寄せているのが伝わってくる。片岡義男が引用するシナリオによれば、竹中はかつて三千代に求愛していたらしいのだが、映画ではそれほどの因縁があったとは匂わせない。竹中は年長の親しい友として、いとこを気にかけているといったふうで、それゆえに物語のなかで彼の存在がいかに機能するかという点では曖昧だ、という片岡義男の指摘は一応納得できなくはない。

 竹中がシナリオ(共同脚本/井手俊郎田中澄江)のように料亭で性的な接触を迫り、三千代がそれを拒むといった場面があれば、片岡のいうように「三千代が感じて久しい不幸感は、何倍にも増幅されてより強く不幸感がつのることになる」だろう。だが、それは物語としてはわかりやすくなるかもしれないが、より生臭く通俗的になるのは避けられまい。成瀬巳喜男は物語の起伏に重点を置いたシナリオを、この映画が求めているものは「これではない」と、撮影するさいに改変したのだろう。里子についても、初之輔を誘惑する、もしくは、初之輔が里子に言い寄るといった場面があれば、夫婦の危機をより際立たせることになったかもしれない。しかし、成瀬はそうはしなかった。

 ちなみに、この映画の美術監督である中古智によれば、成瀬はシナリオの台詞を大幅に消すことがよくあったそうだ。「たしかに消されて映画が生きてくるってことは多くありましたね」と中古は述懐している(中古智/蓮實重彦成瀬巳喜男の設計』筑摩書房、1990年)。おそらくシナリオにあった里子と竹中の台詞を大幅に削り、ふたりの人物造形が変容したために、片岡義男のような感想を惹起したのかもしれない。

 三千代は、里子を送りがてら上京する。それは、夫とのあいだにしばらく距離を置き、別居も辞さない覚悟を伴ったものであった。洋品店を営む妹夫婦と母の住む実家は、三千代にとって身も心も休まる場所だった。うちに着くなり昏々とねむり続ける姉を案じる妹(杉葉子)に、母(杉村春子)は微笑んでいう。「ねむいんだよ、女は」。娘がなぜ上京してきたのか、心のうちにどれほどの屈託を抱いているのか、語らずとも母には手に取るようにわかるのだ。

 長逗留していっこうに大阪へ帰ろうとしない娘に母は笑いながらいう。「わたしが初之輔さんのお母さんだったら、あんな嫁のどこがいい? さっさと離縁してしまいなさい。そういうかもしれないよ」。三千代は、憮然として曖昧に笑みを浮かべるしかない。そこへ銭湯から妹が帰ってくる。その快活な様子を見た母は、目の前で畳に坐って所在なげに雑誌の頁を繰っている三千代に、繕い物をしながら視線を投げかける。かたくなで、張らずともよい我を張って自らを生きにくくしている娘。姉妹の対照的な性格が人生を左右しているのだ。その有り様に、いかんともしがたい諦念と表裏一体となった慈愛にみちたまなざしを送る、杉村春子のさりげない視線の演技がすばらしい。

 外出していた三千代は、戻ってくると玄関土間に揃えられた夫の履き古した靴を目にして動揺し、踵を返して出て行ってしまう。心配する妹に「ほっておきよ。気を静めてから会いたいんだろ。そういう子なんだよ」という母。

 あてもなくうちを飛び出した三千代は通りで風呂帰りの夫と出遭う。そのときの原節子の表情が絶妙だ。驚きとなつかしさ、愛しさとすまなさとが渾然一体となった表情を一瞬見せたかと思うと、顔をそむけて、すたすたと歩いてゆく。夫の胸に飛び込んでいけたならもっと生きやすいだろうに。つくづく可愛げのない女だ、との思いをおそらくは胸に抱きながら。

 祭りの神輿が通り過ぎ、ふと立ち止まった三千代は夫に尋ねる。「いついらしたの?」「けさ」「まっすぐここへ?」「急に出張でね」。「出張?」と問いかける妻に「うん」と屈託なく応じる夫。「そう」と妻の顔から思わず笑みがこぼれる。嘘でもいいから「君を迎えに来たんだ」とでもいえばいいのに。そういえないのが夫なのだ。不器用なのは妻だけではない。

 軽食堂でビールを飲むふたり。三千代の心がほぐれて、手紙を書いたのに出さなかった、と告白する。「どうして」という夫の問いには答えず「わたし、東京へ来て2500円も使っちゃった」と笑っていう。それが、三千代にとっての精一杯の甘えの表現なのだ。

 ふたりはいっしょに汽車で大阪へ帰ってゆく。隣でねむる夫の横顔を見ている妻に、「夫とともに幸福を求めながら生きていくことが女の幸福なのかもしれない」といった意味の原節子のナレーションがかぶさる。おそらくシナリオ通りの台詞なのだろうが、起伏を抑えた物語にこの凡庸なモノローグはいかにも不似合いだ。それよりも、脚本家にも監督にもその意図はないのだろうが、「ねむいんだよ、女は」という杉村春子の台詞に、家父長制社会への静かな異議申し立てのひびきを聞いたように思った。