われがもつとも惡むもの――高橋順子『夫・車谷長吉』を読む


 車谷長吉の小説を初めて読んだのは20年ほど前、たしか1996年前後だったかと思う。当時住んでいた京都市内の図書館の書架で見つけた『鹽壺の匙』(1992)を借り出したのが車谷の小説との最初の出遭いだったはずだ。『鹽壺の匙』は第一短篇集で、芸術選奨文部大臣新人賞と三島由紀夫賞を受賞しているからそれまでに名前ぐらいは目にしていたはずだがそのあたりの記憶は曖昧で、刊行後3〜4年経って出合い頭といった感じで手に取り、その独特の世界に惹かれて『贋世捨人』(2002)あたりまでは熱心に読んだ。『鹽壺の匙』を読んでみる気になったのは、塚本邦雄の短歌からタイトルが取られていたためだったろうか、それも定かではない。


 われがもつとも惡むものわれ、鹽壺の匙があぢさゐ色に腐れる (『日本人霊歌』)


 車谷の露悪的であけすけな私小説塚本邦雄の短歌の世界とはかなり径庭があるように思われたが、のちに物議を醸した「刑務所の裏」を掲載誌(「新潮」)で読み、車谷は学生時代に春日井建の『未青年』に心酔したと知ってなんとなく腑に落ちた。「刑務所の裏」は裁判沙汰となり、固有名詞を変えるなどしたうえ、別の短篇と合体して「密告」というタイトルで『飆風』(2005)に収録された。改作した「密告」では、春日井建の(『未青年』を含む)第二歌集『行け帰ることなく』の出版を企画した出版社の男が別人とされ、小説の末尾に、歌集はその出版社から出ずに深夜叢書社から上板された、と付け足しのように記されている。この程度のものならいっそ没にすればよかったと思わないでもないが、「刑務所の裏」を機に「私小説作家」の廃業宣言をしたから小説家として行き詰まっていたのかもしれない。
 短篇「漂流物」が1995年上半期の芥川賞候補となり(受賞したのは保坂和志の「この人の閾」で、車谷は保坂を忌み嫌い、芥川賞の選考委員たちの藁人形に丑の刻参りの五寸釘を打ったと小説に書いた)、96年に刊行された同作をタイトルにした第二短篇集『漂流物』が翌97年に平林たい子文学賞を受賞、長篇『赤目四十八瀧心中未遂』が98年の上半期の直木賞を受賞、そして単行本でいえば、98年の『業柱抱き』、99年の『金輪際』、2000年の『白痴群』、とこのあたりまでがピークで、書くべきものは書き尽したのだろう。


 車谷長吉とは一度すれ違ったことがある。高橋順子の『夫・車谷長吉』を読んでいて、古い記憶がよみがえってきた。車谷は大学を卒業した後、しばらく雑誌「現代の眼」(現代評論社)の編集部に勤めていたことがある。エッセイに総会屋の手下をしていたと露悪的に書いているが、版元の経営者が総会屋で内容は左翼論壇誌である(わたしは車谷が編集部にいた頃、「現代の眼」を毎号購読していた)。その後、会社を辞めて東京を離れ、関西の料理屋を転々と流浪する。その頃の体験が『赤目四十八瀧心中未遂』に生かされているのは周知のとおり。その後、ふたたび上京して、西武セゾングループに職を得る。『夫・車谷長吉』に「(96年4月27日)長吉の取材のため、セゾングループで面識を得た東大経済学部教授の橋本寿朗氏に氏の古里・埼玉県加須を案内していただく。この方は学生時代剣道部で、正眼の構えをもってしたが、車谷さんの小説は横にはらうヤクザ剣法だね、と言ったそうだ」の記述がある。わたしは当時勤めていた出版社の仕事で橋本寿朗を知り、2002年に55歳で急逝した橋本の葬儀に参列した。葬儀には車谷夫妻も参列しており、「ああ、車谷長吉がいる」と思った。車谷は冬場にいつも着ているという綿入れ半纏を着用し、場にそぐわない異様な雰囲気を醸していた。
 この本でもう一つ「ああ」と思ったのは、高橋順子の所属する詩誌「歴程」の例会が神田神保町の喫茶店「ペコパン」で行われていたという記述で、「(2000年)五月五日、長吉も気に入って時々訪れていた神田神保町の喫茶店「ペコパン」のマダム、山田祐子さんが乳癌のため亡くなった。まだ六十前だった。濃やかな気づかいをする人で、ビルの地下にあるお店を花でいっぱいにしていた」とも書かれている。
 わたしは二十代の終わり頃、神保町にある編集プロダクションで仕事をしていた。すずらん通りから少し横道に入ったところにあった「ペコパン」で、昼休みに時折り珈琲を飲んだ。静かで落ち着きのあるカフェで、壁にフランス映画の大きなポスターが貼ってあった。ある時、ウェイトレスが運んできた珈琲をわたしの膝にぶちまけた。マダムはいたく恐縮した。それを機に、というわけでもないけれど、すこし距離が縮まったような気がして、知り合いから託された映画の前売り券を厚かましくもマダムに預かってもらったりした。
 神保町での仕事が終わると足が自然に遠のいたが、十数年後に勤めた出版社の同僚の女性が、多摩美の学生時代に「ペコパン」でアルバイトをしていたと言った。彼女はわたしより二十も年下なので、わたしが通っていた頃よりずいぶん後のことになるけれど、奇遇に驚いた。映画のチケットを売ってもらったという話をしたら、「ママは映画評論家の山田宏一さんの奥さまなのよ」というのでさらに驚いた。その出版社に勤める前に携わっていた映画雑誌の編集でわたしは山田宏一さんと毎月のように会っていた。山田さんとの会話に「ペコパン」の名が出たことは一度もなかった。
 『赤目四十八瀧心中未遂』が直木賞を受賞したとき、なぜ直木賞かと不思議な思いをしたけれど、あらかじめ直木賞に照準を合わせ、「新潮」に預けていた原稿を取り戻して加筆の上、「文學界」に連載したそうだ。この小説を読んだとき、異様な迫力のある傑作と思ったが、それまでの車谷の私小説にくらべると筋立てがいささか作り物めいていると感じた記憶がある。直木賞を獲るためだったのかもしれない。車谷は「九十パーセント作り物だ」と高橋順子に語ったという。2010年、全3巻の『車谷長吉全集』が三浦雅士の斡旋で新書館より刊行される。車谷は「死ぬ準備」と語っていたそうだが、堅牢な函入りの全集は墓標のようにも見える。これ以降、小説に手を染めることはなかった。
 『夫・車谷長吉』の奥付の日付は、2017年5月17日、車谷長吉三回忌の当日である。享年六十九。


夫・車谷長吉

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