三十年目の向田邦子



 もう三十年も経ったのか。1981年8月22日、向田邦子が五十一歳で亡くなったのは晩夏の、いまと同じように蒸し暑い日だった。夏休みをとって田舎に帰省していたわたしは、墜落した台湾の航空機の乗客のなかに向田邦子らしい人物がいると伝えるTVのニュースを、なにかありえないことのように茫然と聞いていた。三十歳の夏だった。
 最初のエッセイ集『父の詫び状』を手にしたときのことは、いまでもよく憶えている。当時、わたしは東横線で渋谷から二十分ほどの駅の、そこからまた歩いて二十分ほどのくたびれた借家に住んでいた。小さな平屋をふたつに区切った二軒の片方に間借りしていた。六畳に二畳ばかりの台所、厠はついていたが風呂はなかった。たしか月三万ほどの家賃だったと思う。二十代の後半から三十代の初めまで、六、七年は住んでいたはずだが、壁ひとつ隔てた隣人と顔を合わせたことは一度もない。その部屋には父も母も泊ったことがある。まだ一緒に住む前の家人も。よくそんな辺鄙なところまで来たものだ、といまになって思う。
 駅前にある小さな書店で仕事帰りにたまたま手にした新刊が『父の詫び状』だった。すこし立ち読みして、まよわず購入した。著者の名に見覚えはあったが、「寺内貫太郎一家」や「冬の運動会」(これは好きで欠かさず見ていた)といったTVドラマの脚本家としてであって、文章家としては未知の人だった。躊躇わずに購入したのは、そして購入したときの情景をいまも記憶にとどめているのは、数ページ読んだだけで強く惹かれるものがあったからだろう。それ以降に出たエッセイ集、小説集、脚本集はすべて新刊で買った。
 『父の詫び状』が出た二年後に、最初の小説集『思い出トランプ』が刊行されている。そのなかの短篇三つで向田邦子直木賞を受賞した。授賞にあたって銓衡委員だった山口瞳がいかに熱弁をふるったか、そして小説家になどなったために早世したと久世光彦山口瞳を恨んだ、ということはよく知られている。『父の詫び状』が出てから三年で亡くなったとはいまでも信じがたい。天性の作家だった。
 思いおこすと、脚本家向田邦子との付き合いは古い。デビュー作の「ダイヤル110番」シリーズも、一部脚本を手がけた「七人の刑事」シリーズも、出世作の「七人の孫」も子どもの頃に見ている。むろん、向田邦子の脚本であるなどと意識せずに。
 今夏、「胡桃の部屋」がNHKでドラマになった。連続六回のうち、第一回目を見た。主演が松下奈緒で、母親役が竹下景子。かつてドラマ化された際に主演を務めたのが竹下景子で、そのことも話題になっている。それが三十年という時の流れだ。このドラマは、向田邦子の小説を原作としたもので、脚本は向田ではない。そのせいか、あるいは演出のせいもあってか、第一回目を見たかぎりでは、向田邦子の作品とは肌合いが違っていると思った。物語と人物配置は向田邦子お得意のパターンで、その点では向田作品以外のなにものでもないのだが、見ていてどうにも違和感がつきまとった。久世光彦演出の「向田邦子新春シリーズ」が別人の脚本であっても、さらに原作すらないオリジナルのストーリーであっても、人物配置・キャスティング・演出によって向田作品のテイストを強く醸しているのと対照的である。あるいは、最近NHK‐BSで放送された「おまえなしでは生きていけない――猫を愛した芸術家の物語」(全4回)の向田邦子の回は、猫の視線で見た向田邦子の伝記的ドラマ+インタビューで構成した番組だが、そのテイストにおいてまぎれもなく向田ドラマになっていた。ミムラの演じる向田邦子は、ときにハッとするほど向田邦子に似ていた(本人よりすこし美人すぎるのだけれども)。テレビマンユニオンの製作で、プロデューサーが合津直枝、演出が斉藤久剛。「胡桃の部屋」もこのスタッフにつくってほしかったと思った。


 向田邦子の脚本を数多く演出し信頼の厚かった鴨下信一さんが『名文探偵、向田邦子の謎を解く』という書下ろしを出版された。恵投されたから言うのではなく、これは向田邦子を論じて、高島俊男さんの『メルヘン誕生――向田邦子をさがして』と双璧をなす向田邦子論である。「名文探偵」というのは、鴨下さんの著書『忘れられた名文たち』(これも素晴らしい)をもじって編集者がつけたのだろう。向田邦子の脚本、小説、随筆の片言隻語をとらえて作品の本質、向田邦子の人物を解き明かす作品論・作家論として出色の本である。
 作品論としては、「サイレント・ストーン(沈黙の石)」をキイワードに向田作品の構造を論じた着眼点に瞠目した。サイレント・ストーンとは内臓にできる結石で、「沈黙」の時期にはなんの痛みもないが、できて何年もたってから突然激痛をもたらす。向田邦子の脚本や小説に登場する或る人物あるいはモノが物語のなかで「サイレント・ストーン」の役割をはたしているという指摘である。物言わぬ人物が、あるとき口をひらいて主人公を告発する。あるいは、物語を一挙にべつの局面へと展開させる。そう言われればそのとおりである。作品の具体的な分析については本書にあたってもらうとして、作家論としては、昭和三十年、向田邦子が二十六歳の頃「一年間ほど、帽子作りの個人レッスンに週一回、通う。二週に一個、帽子が完成していた」という年譜の記述についてふれたくだりに虚を衝かれた。


 「いまの人は“なるほど、あの向田さんだからお洒落なもんだ”と思うかもしれない。昭和三十年頃の生活を実際に体験しているぼく(大学在学中だった)は違う。あれは何かあった時に〈食べられるように〉〈手に職をつけて〉いたのだと思う。」


 『誰も「戦後」を覚えていない』という新書シリーズの著者ならではの指摘である。「〈気に入った手袋が見つからないからという理由で、ひと冬を手袋なしですごす(昭和26年22歳)〉とか〈アメリカの雑誌でみた、何の飾りもない競泳用のエラスチック製の黒いワンピースの水着を買う。給料三ヵ月分の価格だった(昭和27年23歳)〉といった記述がすぐ隣りにあるから、そう考えるのも無理はないが、この時代の〈趣味と実益の両立〉の気分はなかなか説明がいる」とあるように、わたしもうっかりそう思っていた。


 「目はしのきく彼女のことだから、洋裁はもう競争相手が多くていけない。万が一の時があっても、もうそれでは食べられない。もしいけるとしたら帽子、これならまだ誰もやってない。まさに趣味と実益、ということで始めたにきまっている。
 ぼくは向田邦子の観察、その作品と生き方を見る時に、こうしたこまかな(ケチくさいほどこまかな)生活感覚の考察がひどく欠けているように思えてならない。」


 向田邦子をよく知る人の言であるとともに、作品をそれが書かれた時代とのかかわりにおいて読むという読解法に通じる指摘だろう。帽子作りを向田邦子らしい「洒落」た趣味と見るだけでは物事の一面をしか見ていない。もう一面に、「目はしのきく」「ケチくさいほどこまかな」向田邦子の性格から発した「実益」を読みとらなければ、その行為の意味は見えてこない。「作品を読む」という場合においてもむろん同断である。一気に読んで多くの教示を賜った。
 さて、先にちょっとふれた高島俊男さんの『メルヘン誕生』という本について、単行本が出たときに書評を書いたことがある。古証文のたぐいだが、ここに掲げておこう。


       向田邦子の孤独を共感をこめて描き出す


 あの高島俊男向田邦子について本を書いた。しかも書き下ろしで、となると、いやでも興味をそそられずにはいない。タイトルがなんと『メルヘン誕生』というのだから、読む前から期待は高まるいっぽうだ。一気に通読して、結論を先に言えば、これは「買い」です。いますぐショッピングバッグに入れなさい。お金は後でいいから。
 「わたしが向田邦子を知ったのは、彼女が飛行機事故で死んで、四年ちかくもたってからであった」と著者はあとがきに記している。中国現代文学の研究会の仲間に薦められて読み始めたのだという。著者は向田邦子のどこに惹かれたのか。どこに惹かれて一冊の本を書こうと思いたったのか(そういえば、著者は週刊文春の連載に「戦後の小説家の新カナ作品で(……)ちゃんと読んだのは向田邦子くらいのものである」と書いていた)。
 むろん向田邦子の書きものの魅力ということもあるだろう。だがそれ以上に、向田邦子のなかにひそんでいる「あるもの」への共感が大きな牽引力となっている。それを著者はこう書いている、「ひとことでいえば、向田邦子がわたしをひきよせたのは、そのひけめであった」と。
 「昭和三十年代のころには(……)人とちがう道を歩く者は、いつも周囲の無言の圧力を感じて、ひけめをいだき、うつむいて歩かねばならなかった。それまで一流のコースをあゆんできた者ほどそうであった」。それは「ほとんどやくざな道」であり、「さびしい、孤独な道」だった。同じ脇道を「自分よりすこし前に」(著者は七学年下だそうだ)歩いた向田邦子に著者が心惹かれるのは当然のことだろう。「向田邦子のことを書いているのか自分のことを書いているのか、わからなくなることがあった」とまで書く著者の、「自分のこと」とは何か。それについて著者は多くを語らない。おそらくは、東大の大学院を出て中国文学の研究者として将来を嘱望されながら「途中で走るのをやめてしまった」、そこから生じた「ひけめ」を指すのだろう。その経緯を縷述し、「自分のこと」を得得と述べたてるほど著者は厚顔ではない。そうする代わりに著者は向田邦子にことよせて自らを語った、「これは『わたしの向田邦子』」だと書く所以である。
 だから、というべきか。向田邦子が「家庭」をもたず(著者もそうであるらしい)、栄光と裏腹の挫折を、ボードレールの詩にいう「愛しき悔恨」を、身に沁みて感じていたといささか強調しすぎる嫌いがなくもない。多くの向田邦子について書かれたもののなかに本書を置いてみれば、その異様さは際だつはずだ。だが(それ故に)、そこにこそ本書の存在価値があることはいくら強調してもしすぎることはあるまい。
 向田邦子の書きものについての評は、公平無私、情に溺れることはない。批判すべきところは「愚劣」「粗雑」「ズサン」と容赦ない。一方、称賛すべきは「傑作」「心の底から感歎した」と手放しだ。私は本書から多くを学んだ(それについて書くべきだったろうか)。しかしそれは著者の他の書物にずいぶん多くのことを教わったのと同断である。
 本書の頁を閉じたとき、誰もが向田邦子の作品を読み返したくなるにちがいない。そして、著者のフィルターをとおして立ち現れた向田さんに、それまで以上の、たまらない親近感を感じるにちがいあるまい。当然のこととはいえ一企業の社史まで参看して、邦子の父向田敏雄の人物像をくきやかに浮び上がらせた著者の功績を特筆しておきたい。
                                    (bk1 2000.07.29)

名文探偵、向田邦子の謎を解く

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