それはそれ、これはこれ――『目白雑録4 日々のあれこれ』とその他のあれこれ
引越して、ほぼ、ひと月が経った。日々の暮しはおおむね旧に復したが、部屋のそこかしこに荷解きの済んでいない段ボール箱が積み上げられたままだ。50〜60箱ぐらいはあるだろうか。中身はすべて本や雑誌だ。
三月頃から引越しのための本の整理をはじめ、毎週末、古本屋さんにお越しいただき、三ヶ月かけて段ボール箱にしておよそ100箱ほどを引き取ってもらった。持って行っていただくのが気の毒な雑本の類およそ千冊ぐらいは資源芥として処分した。
そうして残った120〜130箱ほどを引越し先に運び込んだ。傷んで使い物にならなくなった書棚を処分し、あらたに三架ほどを買い足して、すべての書棚にとりあえず本を乱雑に詰め終ったのが引越してひと月経った先月末のこと。で、まだ段ボール箱に詰まったまま行き場のない本がおよそ50余りはあるわけだ。これも早晩古本屋さんに引き取ってもらうしかあるまい。
これからまだ相当数の本を処分しなければならないのだが、だからといってあらたに本を買わないわけではない。河野裕子さんの遺歌集『蝉声』*1も、やたらとかさ張る『パラドクシア・エピデミカ』*2も、ジェイ・ルービンさんの『風俗壊乱』*3も、草森紳一の『記憶のちぎれ雲 我が半自伝』*4も、文庫本の『根津権現裏』*5も、買う。それはそれ、これはこれ、である。
ずっと本になるのを待ちかねていた、というほどではないのだけれど、連載が一冊に纏まった本を手にすると、ああ、あれからもうそんなに時間が経ったのか、という感慨もひとしおの金井美恵子『目白雑録4 日々のあれこれ』も、当然買う。挿画の金井久美子のコラージュ作品がモノクロで印刷されているのが残念といえば残念な(多少定価が高くなってもこれはカラー印刷で収載してほしかった)今回の「あれこれ」のページをおもむろにひらくと、冒頭にこんなことが書かれている。
「ほとんどの本は、余程の愛着か必要がないかぎり、捨てるなり古本屋に売るなりして処分してしまうので、70年代はじめに買って今でも手もとにある何冊かの本の値段をなんとなく調べてみる。純文学の小説が箱入り布製で千円以下の値段におさえられているのに、’73年初版発行のアイルランドの作家フラン・オブライエンの『第三の警官』(筑摩書房)は、ロレンス・ダレルの『トゥンク』、ミュリエル・スパークの『ミス・ブロウディの青春』と共に一二〇〇円で断然高く、新潮社のル・クレジオ『愛する大地』七五〇円、ソレルス『公園』五五〇円(まあ、薄い本ではあるけれど)で、ナボコフの『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』(講談社)は六五〇円、」
と列挙してゆくのだが、次のくだりを目にして、つい「おおっ」と声をあげてしまった。
「日本文学では、私はなんとなく新潮社の値段が安いと思い込んでいたのだったが、芥川賞受賞作で安め多売系の定価設定とはいえ、文藝春秋の丸谷才一『年の残り』が、短篇四つで五〇〇円を切って四九〇円で、相当に安いのである。」
金井美恵子は丸谷才一の『年の残り』に「余程の愛着か必要」があったというわけである。ふ〜ん、これは意外だ。ちなみにわたしが丸谷才一の小説で愛着のあるのは『エホバの顔を避けて』と『たった一人の反乱』(むかし一度見たきりのTVドラマ版をもう一度見たいものだ、たしか伊丹十三が出演していたような記憶があるのだが)である。
本の定価はおおむね発行部数と反比例するので、フラン・オブライエンだのロレンス・ダレルだのミュリエル・スパークだのが「断然高」いのはむろん部数が少なかったからで、この三冊は函入りだったからそれだけコストも嵩んだにちがいない。ル・クレジオやソレルスは、いずれもハードカバーだが函には入っていない。当時、ヌーヴォーロマンが流行っていて、ビュトールやロブ=グリエ、ナタリー・サロートらの小説も次々と翻訳されて、部数も比較的多かったのだろう。ナボコフの『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』は富士川義之先生の最初の翻訳で、のちに講談社の文学全集に収録され、いまは講談社文芸文庫で読むことができる。単行本版は、ル・クレジオの『愛する大地』より部数は少なかっただろうが、〈海外秀作シリーズ〉の一冊で幾分、定価を下げられたのかもしれない(仮フランス装・ビニールカバーと、装本には手がかかっている。栃折久美子の装丁)。丸谷才一の『年の残り』(1968年刊)が安いのは金井美恵子が推測するとおり、芥川賞受賞作だったせいだろう。単行本の小説で四九〇円というのは、当時としては部数の多い流行作家のハードカバーの平均定価である。わたしは金井美恵子よりいくつか年下だが、当時の出版(読書)状況は手に取るようにわかる。ここに挙がった本で(今でも)持っていないのは『ミス・ブロウディの青春』だけである。
金井美恵子は、荒川洋治が新聞のインタビューに答えた談話の次のようなくだりに対して疑問を投げかける。
「70年代初めは、文学といえば純をつけなくても純文学の書き下ろし、本は箱入りハードカバー。文芸欄で定評を知り、意識をして本を読む。そんな熱心な読者によって書物や文学が支えられていたのです」(荒川)
金井美恵子は「’61年に新潮社の〈純文学書下ろし特別作品〉が、新潮社副社長の命名(ネイミング)で発足した」と『新潮社百年』という社史の記述を引用しつつ、「高校生だった姉と私は〈純文学書下ろし特別作品〉の『聖少女』(倉橋由美子)、『砂の女』(安部公房)を買ったけれど、現国の教師は『沈黙』」(遠藤周作)を買ったと言っていた」と当時を振り返りながら、こう書く。
「そして「現代詩作家」は70年代のはじめという時代が、「文学」といえば「純文学の書下ろし」と、記者に語るのだが、70年代はじめの文学的事件(2字傍点)といえば、ボルヘスにはじまり、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』(鼓直訳)で頂点に達したラテン・アメリカ文学の紹介によるショック(!)だったはずである。マルケスの影響は中上健次や大江健三郎のみならず、宮崎県の若い三代目の酒造家にも及び、「百年の孤独」という名の焼酎が造られて、今でも売っているほどである。」
だが、金井美恵子の断言にもかかわらず、「70年代はじめの文学的事件」が「ラテン・アメリカ文学の紹介によるショック」だったというのは、金井と同時代の文学的環境を生きていたわたしには聊か首肯しがたいといわねばならない。
いわゆる「ラテンアメリカ文学」の世界的な流行を牽引したのは、いうまでもなくボルヘスである。ボルヘスの『伝奇集』(1944)を皮切りに、ルルフォ、カルペンティエールらが50年代に秀作を発表し、60年代になって傑作が陸続と登場し、ラテンアメリカ文学は一挙に花開いた。日本では、篠田一士がボルヘスを「発見」して『邯鄲にて――現代ヨーロッパ文学論』で紹介したのが最初である*6。『邯鄲にて』は1959年の刊行、弘文堂の現代芸術論叢書の一冊。小野二郎の編集者としての仕事である。
集英社版世界文学全集の第34巻『ボルヘス/フェルロシオ/デュ・モーリア』に篠田訳の『伝奇集』が収録され、土岐恒二訳『不死の人』が白水社の「新しい世界の短編」シリーズの一冊として刊行されたのが1968年。日本でボルヘスに注目が集まった最初期がこのあたりだろうか。ひと口に「「ラテンアメリカ文学」といっても、当時、持て囃されていたのはひとりボルヘスのみで、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』の鼓直による翻訳が新潮社から刊行されたのが1972年、マジックリアリズムという言葉はまだ人口に膾炙してはいなかった*7。ラテンアメリカ文学に影響を受けたとおぼしい大江健三郎の『ピンチランナー調書』が1976年、中上健次が『岬』『枯木灘』と紀州を舞台にした一族のサーガを発表しはじめるのが同じく1976年のことである。
翌る1977年、国書刊行会から「ラテンアメリカ文学叢書」(全15巻)の刊行が始まり、集英社から「ラテンアメリカの文学」(全18巻)の刊行が始まったのが1983年のことだから、日本でのラテンアメリカ文学ブームのピークは1980年前後とするのが妥当だろう(集英社のシリーズは60年代の傑作群の遅ればせの翻訳紹介である。およそ20年のタイムラグがあったわけだ)。
ボルヘスの影響は金井美恵子自身の初期の短篇小説に明らかで、大江・中上に大きな影響を与えたガルシア=マルケスとボルヘス、この二人の作品の紹介が金井にとっては「文学的事件」であって、その記憶の強度が「ラテン・アメリカ文学の紹介によるショック」といわしめたにちがいない。
「荒川洋治は私よりほぼ二歳年が下らしいのだが、たった二年の違いで、70年代初頭の「文学」に対する印象と記憶は、こんなにも違うものだろうか」と、金井美恵子は訝ってみせるのだが、荒川洋治よりほぼ二歳年が下(学齢では1年違い)のわたしも「70年代初頭の「文学」に対する印象と記憶」に関しては荒川洋治とほぼ同様の如くである。金井はこの本のちょうど真ん中あたりで「私としては自分の記憶に対して自信が持てない、とつくづく思いいたったのだった」と述懐することになるのだけれども、内田樹先生の仰るように「人間の精神の健康は「過去の出来事をはっきり記憶している」能力によってではなく、「そのつどの都合で絶えず過去を書き換えることができる」能力によって担保されている」*8のであるから、「自分の記憶に対して自信が持てない」のはむしろ「精神の健康」の証しであるというべきかもしれない。記憶というものはつねに捏造されるものであって、わたしもまた自分の記憶についてはそれが正しいと言い張るつもりなど毛頭ないといっておきたい。
『目白雑録 日々のあれこれ』はこれで連載が終了すると書かれていてがっかりしていたのだが、すでに同誌「一冊の本」で新しい連載が始まっているようだ。書店で立読みすると、なんだ、タイトルが変わっただけで中身はおんなじじゃん。また何年か経って一冊に纏まるのを気長に待つことにしよう。
- 作者: 金井美恵子
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
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*1:青磁社刊。「もう一度の生はあらねば託しおくことばはこの娘(こ)に 口述筆記続く」。もうこれで裕子さんの新しい歌を読むことができないのかと思うと切なく寂しい。新潮社の「波」で連載の始まった永田和宏「河野裕子と私 歌と闘病の十年」は、永田さんにとって「喪の仕事」となるだろう。
*2:ロザリー・コリー著・高山宏訳・白水社刊。カバーを見て一瞬国書刊行会かと思った。目の覚めるような見事な装丁は山田英春。刊行が予告されてから、ん十年。ようやく出ましたね。いつにもまして長文の解説と相変わらず憎らしいほど超絶技巧の訳文。
*3:今井泰子他訳・世織書房。副題が「明治国家と文芸の検閲」。ルービンさんは村上春樹の『ねじ巻き鳥クロニクル』の英訳者として知られるが、40年も前にシカゴ大学で国木田独歩の研究で学位を取得した日本文学研究者である。現在、ハーバード大学名誉教授。ルービンさんは1989年にはじめて『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』を読んで「度肝を抜かれた」という。「抑制された、灰色の日本のリアリズムの研究に長年専念していたため、日本人作家がこれほど大胆で奔放な想像力に富むことができるとは信じられないほどだった。(略)一人の作家にこれほど反応したのは、学生時代にドストエフスキーを読んで以来だった」と『ハルキ・ムラカミと言葉の音楽』(畔柳和代訳・新潮社)の「付録」に書く。この小論は、いや、この本すべてがプラクティカルな翻訳論として名著というに値する。『風俗壊乱』の原著は1Q84年にワシントン大学出版局から刊行されている。かつて「季刊芸術」(1974年夏号)に掲載された漱石の『三四郎』についての論文は原文も日本語だった。1973〜74年に東工大の江藤淳の研究室に客員研究員として在籍していたときに書かれたものだ。ルービンさんは『三四郎』の英訳もものしている。
*4:本の雑誌社刊。伊丹十三に関する文がほぼ半分を占める。伊丹さんの当時の妻、川喜多和子さんの20歳の頃のちょっと生意気でコケティッシュなポルトレも。
*5:この本が新潮文庫から出るとはオドロキ。出るとすれば、講談社文芸文庫かウ***文庫(?!)じゃないかね。「この刊行につき、はな私は他社に打診を図っていた。/一昨年辺りから、このての“埋もれた名作”を掘り起こして光を当てるのを建前とした或る文庫の責任者に、別部署の編輯者を間に入れて何度も面会方を頼んでいたが、しかしこれは全くもって無視し去られる塩梅であった」と西村賢太が新潮社の「波」に書く「或る文庫」とはウ***文庫ではありません。しかし、西村も藤澤清造の復刊を云々するのなら龜鳴屋の『藤澤清造貧困小説集』にひと言あって然るべきじゃないのかね。
*6:ロジェ・カイヨワの仏訳「不死の人」からの重訳およびエッセイを収録。
*7:『現代ラテン・アメリカ短編選集』(白水社・1972)/『大使閣下 現代キューバ短編小説集』(時事通信社・1973)は初期のアンソロジーとして貴重。ほかに当時は、カルペンティエル『この世の王国』(神代修訳、創土社・1974)ぐらいしか翻訳がなかった。
*8:「トラウマというのは記憶が「書き換えを拒否する」病態のことである」と続く。http://blog.tatsuru.com/2009/06/04_1313.php