しめこのうさうさ――武藤康史『文学鶴亀』を読む(その2)



 先週の図書新聞(3月15日号)に掲載された東京堂書店の売上げトップテンの第四位に『文学鶴亀』が入っていた。東京堂書店ならでは、というか、こういう本は東京堂で買いたいという読者もきっといるのだろう。ちなみに、トップテンを掲げると、


 東京堂書店(2・23〜2・29)
(1)川上未映子『乳と卵』(2)石田千『しろい虹』(3)鹿島茂『パリのパサージュ』(4)武藤康史『文学鶴亀』(5)姜尚中中島岳志『日本 根拠地からの問い』(6)角田光代『福袋』(7)T・カポーティティファニーで朝食を』(8)川本三郎『東京暮らし』(9)中野翠『小津ごのみ』(10)岡崎武志『ベストセラーだって面白い』


第七位はもちろん村上春樹の新訳版である。図書新聞に同時掲載された他店トップテンと重なっているのは『乳と卵』のみ。他店上位の『女性の品格』だの『大人の見識』だのは東京堂には影も形もない。見事な偏向ぶりである。神田界隈で文藝・人文書の新刊をチェックするなら東京堂にかぎる。詩歌コーナーの充実ぶりは随一。昔は洋書の品揃えでも随一だったが残念ながら洋書コーナーはなくなった。ちなみに図書新聞のこの号には『東海道品川宿』の無署名書評も掲載されている。


 さて、『文学鶴亀』だが、いまさら内容紹介でもないし、その素晴しさはいふもさらなりなので、ここでは若干の註釈をこころみたい。


 「急増する旧字旧かな(二)」(p.36)について。
 近年「目立って増えて来た」旧字旧かなを墨守した全集が列挙されている。そのなかの『定本横光利一全集』(河出書房新社、81〜88年)に関して。
 川端康成責任編集の河出書房版『横光利一全集』(全十二巻)が出たのが1955〜56年、『定本横光利一全集』はそれを全面的に改訂した形だが、その間に講談社横光利一全集が企画されている。編集委員は、小島信夫佐伯彰一、秋山駿、五木寛之。編纂の実質的な作業に携わったのは保昌正夫、井上謙、栗坪良樹。河出書房新社版の『定本横光利一全集』は、この講談社の企画を引き継いで完成されたもので、その間の経緯を保昌正夫が書いている。


 「この全集は当初、講談社で発案、企画されたもので、そのときから数えると十幾年になる。二、三年まえにも講談社での作業のころの資料の残部を紙袋に入れて届けてくれたが、おおよそ、講談社の時期に五、六分どおりは発刊準備を完了していたのか、と思う。編集委員も取りきめて顔合わせもやった憶えがある。ただ一つ、私などがこだわって譲れなかったのは、全集である以上、旧字で旧仮名でということだった。横光という作家がいた時の字体、文体でということで妥協できなかった。」*1


 若い読者向けに新字新仮名でと主張する五木寛之に対して、保昌正夫は旧字旧仮名を主張し一歩も譲らなかった、と藤田三男さんがどこかで書いていられた(『榛地和装本』(id:qfwfq:20060219)だったろうか)。「心激して眠られぬ夜があり、いくつかの忘れえぬことに出会っての十幾年であった」*2との述懐もそのあたりの事情を指したものかもしれない。旧字旧仮名の全集も、それが成るにはこうした一個人の献身あってのことである。銘記しておきたい。


 「都立高校文学概説―(一)戸山―」(p.49)について。
 戸山高校教諭だった中石孝の小説「学校ぎらい」(「新潮」74年4月号)が取り上げられているが、これはのちに『学校ぎらい・硝子の少女』(芸立出版、85年)として刊行された。第一小説集『夢を紡ぐ』(審美社、64年)の附録の栞に、稲垣達郎、安岡章太郎庄野潤三、林富士馬ほかの人々が寄稿しており、安岡は母校の九段高校へ行ったら偶然中石に会ったと書いている。


 「彼は戸山高校で国語の先生をしてゐるといふ。戸山といへば、むかしの府立四中で、これは日本一のガリ勉学校といふ評判が高い学校だったから、また私は意外な感じがした。中石さんの文章は、およそ「ガリ勉」の固さはないのである。かういふ人が四中の先生になってゐるときいて、時代は変ったな、と思った。もっともこれは或ひは私が四中に対して偏見を持ってゐただけのことかもしれない。」(促音表記は原文まま)


 都立高校文学史に逸することのできない文献の一と思う。中石には『平家れくいえむ紀行』(新潮社、1999年)ほかの著作がある。同1999年11月14日没。翌年刊行された『華ある老後を求めて』(出版者・中石喜代子)は私家版の遺稿集だろう。


 「映画監督・西村潔」(p.81)について。
 石原慎太郎は、西村潔といっしょに始めた同人誌「一橋文芸」に書いた処女作「灰色の教室」が「文学界」の同人誌評で認められ、それをきっかけに発表した第二作「太陽の季節」が芥川賞を受賞して小説家として華々しくデビューすることになるのだが、同人誌評で「灰色の教室」を取り上げて評価したのは文藝評論家の浅見淵。「浅見さんは同人雑誌評をとおして石原慎太郎を、中間小説時評をとおして五木寛之を見いだした新進才華発掘の名手でもあったが、それはすでにはやく昭和十年前後のころから太宰治に、仲町貞子に注いだ眼とひとつながりのものとしてあったのである」*3保昌正夫が書いている。
 早稲田大学で同級だった山崎剛平に請われて砂子屋書房の創業に参加した浅見淵は、新人作家の第一小説集叢書の刊行プランをたてる。外村繁の『鵜の物語』、仲町貞子の『梅の花』、尾崎一雄の『暢気眼鏡』などで、太宰治の『晩年』は檀一雄の強力な推輓によってラインナップに加わった。だがこの『晩年』は初版五百部が半分しか売れなかった、と浅見は書いている(太宰治全集の解題によれば、翌年、箱入の再版が出版された)。上野精養軒で行われた出版記念会で太宰は、常用していたパビナールの注射器を忘れて挨拶もしどろもどろだった。浅見によれば、太宰が芥川賞を欲しがったのはパビナールを買うための賞金が欲しかったからだそうである*4
 仲町貞子は九州の大地主の一人娘で、北川冬彦と駆け落ちをして上京し、北川に愛人ができて別れたのち、井上良雄(神学者・文藝評論家)と結婚した。いまでは忘れられた作家だが、当時(昭和十年頃)、三好十郎はこう書いた。「平林たい子もえらい。窪川いね子もえらい。松田解子もえらい。林芙美子もえらい。女作家でえらいのは、あと三、四人居る。その中で一番えらいのは仲町貞子である」*5。なにやら森の石松三十石船を思わせる科白だが、仲町貞子は再評価されてしかるべき作家である。


 「牧野伸顯」(p.119)について。
 武藤康史は、吉田健一の文体をつくったのは「大量の翻訳」と、牧野伸顯の『回顧録』をまとめた経験ではなかったか、と指摘している。これは「すばる」86年3月号に掲載されたものだが、この指摘を忘れずにおよそ二十年後に書きとめたのが坪内祐三。『考える人』(新潮社)所収の「吉田健一」で「武藤康史は、祖父牧野伸顕の『回顧録』の口述筆記の経験を指摘しています」と書いている。


 「旧刊十二番勝負」の「<その八>野口冨士男『風の系譜』」(p.228)について。
 野口冨士男のこの処女長篇小説、「『風の系譜』の四百枚ちかい原稿は岡田三郎が見てくれて、三回書き直した」と、これも保昌正夫が書き記している*6。「野口さんには、そのときの作法が身に着いたとみえて、煩を厭わず、原稿を書き改めることが始終だったらしい」とも。
 岡田三郎は大正末期から昭和初期にかけて活躍したいわゆる早稲田派の小説家。「徳田秋声門下で最後の自然主義作家」(野口冨士男)。フランス留学から帰朝して洒落た味わいのコントを発表するが、私小説や「飄々たるユーモアを湛えた」伸六ものと呼ばれる作品に本領があるとされる*7


 「旧刊十二番勝負」の「<その十二>岡田三郎『愛情の倫理』」(p.240)に、


 「『愛情の倫理』の前年、『岡田三郎小説選集』全三巻(三和書房)が出てゐるやうだが(国会図書館にも日本近代文学館にも第一巻しかないが)、その後、岡田三郎の著作はまとめられてゐない。」(「本の雑誌」93年12月号)


と書かれているが、その後、2002年11月に、EDI叢書の一冊として『岡田三郎 三篇』(エディトリアルデザイン研究所)が刊行された。野口冨士男の小説「流星抄」(作品社刊『流星抄』1979年の表題作)の主人公・湯谷鶴也は岡田三郎をモデルにしたもの。保昌正夫によれば、『風の系譜』が仕上がったときに岡田三郎は野口冨士男を吉原へ連れて行ってくれた、という。


 こんなふうに註釈をつらねていると、谷沢永一の『紙つぶて 自作自注最終版』のように膨大になってしまうので、このへんで。


文学鶴亀

文学鶴亀

*1:「『定本横光利一全集』一部始終はしがき」、『保昌正夫一巻本選集』河出書房新社、2004年

*2:「『定本横光利一全集』完結独白」、同上

*3:「各駅停車 浅見淵」、保昌正夫横光利一全集随伴記』武蔵野書房、1987年

*4:「昭和文壇側面史」、『浅見淵著作集』第二巻、河出書房新社、1974年

*5:田中俊廣『感性の絵巻・仲町貞子』長崎新聞新書、2004年。この本には「仲町貞子の生涯」のほかに、『梅の花』より小説七篇、その他随筆五篇を収める

*6:「「しあわせ」まで」、『保昌正夫一巻本選集』

*7:柳沢孝子「岡田三郎」、保昌正夫・栗坪良樹編『早稲田文学人物誌』青英舎、1981年