黄金の釘一つ打つ――『岩本素白 人と作品』

 以前ここで来嶋靖生さんの評伝『岩本素白』が河出書房新社より刊行されると書いた*1。それは予定どおり無事刊行され、大方の好評を博したようである。微力ながら同書の編集に関わったものとして欣懐を禁じ得ない。「槻の木」八月号に掲載された小文を以下に再録する。


  黄金の釘一つ打つ


 以下に記すのは書評ではない。『岩本素白 人と作品』の制作に忝くも関与せさせられた者として、ふつつかな感想を述べるにすぎない。
 素白が「槻の木」に初めて書いた文章「早春」、四百字三枚強・全文が本書に引用せられている。以下に「早春」のあらましを記す。


 素白は、書き物か読書かに倦んで、縁側でなにともなく老梅を眺めている。ふと、先に近所であった失火と、そのさいに詠んだ句「昼火事をうしろに白し梅の花」を思い出し、堪らなく嫌な気持になる。
 「それは此の句が月並を通り越して、嫌みをさへ有つてゐる為ばかりでは無い。もう毛の擦り切れた安価な古い趣味の衣、それを気まぐれに時折引つ掛けて見る私の悪い癖にむかむかしたのである。」
 素白は句の「うしろに白し」という箇所や、時折りつくる「句の様な格好をした文字」やに、頭のなかでぐいぐいと線を引く。おそらくたっぷりと墨をつけた筆で勢いよく抹消するのだろう。素白はすこし晴れ晴れとした気持になる。
 そして書斎に戻ると、机上に開いた山東京伝の集の「窓の紙風を啜り」という箇所に引いた傍線に目がとまる。先だって友人とした会話で、上田秋成浅茅が宿」(『雨月物語』巻之二)中の「窓の紙松風を啜りて夜もすがら涼しきに」という一節に嘆称し、その言葉はのちに京伝も使った、と素白は「うろ覚え」に述べたのだった。
 今しがた素白は京伝の集にあたり、該当する箇所を見つけ出して赤い傍線を引いたのであったが、その朱線をあらためて目にすると、また嫌な気持にとらわれる。「頭の中へ「穿鑿」といふ文字が活動の大写しの様に浮び出す」。そこでまた頭のなかで線を引いて抹消する。「趣味」「邪道」「小味」といった文字にぐいぐいと何本も線を引いてゆく。そして、「すこし疲れて眼を障子硝子の外へやると、そこには早春の空が青く澄んでゐる」――。 


 素白の随筆はどれをとっても味わい深いが、この「早春」は短いながら(あるいは短いがゆえに)ことに味わい深い名品である。素白という人の人柄――謙抑、潔癖、狷介、不羈、等々――が文章におのずと表れている。「文は人なり」という格言をわたしは頭に思い浮べる。
 秋成「浅茅が宿」の一節を京伝が使ったのは、斎藤茂吉流にいえば「御蔭をこうむった」ということになろう。茂吉は『童馬漫語』や土岐哀果との論争文やにおいて、自分の詠んだ歌が先人の詠んだ歌ないし文芸作品の表現にいかに「御蔭をかうむつてゐる」かについて事細かに述べている。
 一例を挙げれば、茂吉作「竹林に近づき来ればうつつなり我が出づる息いる息を忝けなむ」の由って来たるところを自ら吟味すれば、行誡上人の作「み仏のみ名かぞへつついづる息いる息またぬ世を過さばや」に行き当った。茂吉はさらに探索を進め、『歎異抄』の「人のいのちは出づる息いる息を待たずしてをはるものなれば」という文に逢着したという。行誡上人は『歎異抄』の御蔭をこうむり、茂吉はさらにその御蔭をこうむって一首をなした。しかしそれは作歌当時には意識せず、あらためて吟味して気づくことである、と茂吉はいう。土岐哀果の難ずる「自己の表現を他の表現に待つの態度」や「内から湧きでるのでなく外からくつ附く」やのような作歌とはついに無縁である事訳を茂吉は縷説したのであった。
 「穿鑿」という言葉に往々つきまとう否定的なニュアンスを取り払えば、茂吉のこの「詞の由来吟味」を「穿鑿」といっても大過あるまい。素白の「穿鑿」に感じる疎ましさは、わたしにわからないでもない。好むと好まざるとに関わらず否応なく身についた習い、それを顧みて賢しらと感じる心の動きをわたしが「穿鑿」すれば、あるいは兼好法師の美意識などに通じるものなのかもしれない。
 編集者わたしも、本の制作過程において「穿鑿」という文字がたまさか頭を過ぎらないではない。さるにても、編集者とは「穿鑿」を旨としなければならぬ因果な稼業ではある。「穿鑿」という文字にぐいぐいと墨で線を引くわけにゆかないのである。
 本書においても、著者来嶋靖生は「穿鑿」に傾注し、素白随筆の大半の初出紙誌を明らかにせられ、またその過程で、素白全集に未収録の随筆をも発掘せられた。地道な「穿鑿」によって素白研究を一歩進められたのであり、その労を多とせられねばならない。
 素白研究は、しかし、いまだ百尺竿頭に達しているとはいえまい。それはたとえば、素白の生涯の友である窪田空穂の研究に比してまったく不十分であり、本書によって本格的な素白研究の端緒が開かれたというべきであるのかもしれない。
 わたしはいま「素白研究」と書いた。だが本書は、いわゆる研究書の多くがそうであるような無味乾燥の弊に陥ってはいない。その大きな理由として、著者の岩本素白への敬意を挙げなければならない。
 本書の元となった「槻の木」連載の「岩本素白覚書」を、著者は「わが師窪田空穂、都筑省吾両先生への報告のつもりで書き始めた」と述懐する(「岩本素白と私――あとがきにかえて」)。


 「学生だった私に、岩本素白の人を、文章を、その魅力を私に教えて下さった「槻の木」や「早稲田」の諸先輩、とりわけ保昌正夫先生への感謝の心をもって綴り続けた。大正十五年から九十年続いてきた「槻の木」、岩本素白先生がこよなき親しみをもって接して下さった「槻の木」、その現在を預かるものとして、何らかのまとめをする、それは私の責務ではないか、そんなことを思い思い、拙い筆を続けてきた。」


 その素白への(そして「諸先輩」たちへの)敬意が本書に一貫して底流し、そのことが本書をして研究書にしては稀な、血の通ったあたたかい書物にしているのである。「お蔭を蒙つた本源を明らめて愛し尊敬しよう」という茂吉の態度に通ずる著者の姿に、わたしは打たれる。ここでもわたしは(「早春」と同じく)、「文は人なり」という格言を頭に思い浮べる。
 わたしは素白の随筆をこよなく愛するものであるが、むろんその謦咳に接していない。来嶋さんや藤田三男さんが(「素白」でなく)「岩本先生」と口に上せられるとき、その敬愛のこもった声調に接して、わたしは素白をほんの少し身近に感じることができるのである。わたしら後進は、素白の魅力・真髄を後世に伝えるべく、今後いっそう精励しなければならない。
 冒頭に述べたように、どうやらこの小文はふつつかな感想に終始したようである。さはさりながら、本書は「素白研究」に打たれた、一本の「黄金の釘」でなければならない。


岩本素白 人と作品

岩本素白 人と作品

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