がんぽんち、あるいは雨夜の品定め


 岩本素白に「がんぽんち」という随筆がある*1。遠国から江戸へ出てきた侍が国への土産話に流行りの小唄を書きとめて帰った。「成ると成らぬは眼もとで知れる、今朝の眼もとは成る眼もと」という俗謡で、くだんの侍はそれを「成与不成眼本知。今朝眼本成眼本」と書きつけておいたのだが、国もとへ帰りさてそれを披露しようと思ったところ生憎と思いだせない。しばらく書附けをながめたのち、こう読みあげた。「成(せい)と不成(ふせい)は眼本知(がんぽんち)。今朝がんぽん、せいがんぽん」。
 この笑話を枕にふって、素白は当節流行りの生硬蕪雑な漢語の横行を批判する。曰く、「成可く早く」で十分間に合うのに「可及的迅速に」とはどういう積りか。「睡りが足らない」「人かずが殖ゑる」を「睡眠不足」「人口増殖」、「鳥小屋」を「鶏舎」とは、と素白は歎ずる。昭和十三年に書かれた随筆だが、漢語をカタカナの外来語に置き換えれば昨今も事情はまったく変わらない。「ともかく、日本語をもつと大事にする事だ」という素白先生の言葉は拳拳服膺すべきであるけれども、そのことについて屋下に屋を架したいわけではない。この随筆を読み返していてふと思い出したことがある。『源氏物語』のあるエピソードである。


 先月、ナボコフの『ロリータ』にふれて、時折ひろい読みする或る滑稽な場面があると書いたが、『源氏物語』にもそういう場面があって、その一つに雨夜の品定めがある。有名な場面なのであえて説明するまでもあるまいが、宿直をしている光源氏のもとへ頭中将、左馬頭、藤式部丞がやってきて、あれこれと女の品定めをするというエピソードで、そのなかに藤式部の披露する才気煥発な女が出てくる話がある。漢学にかけてはそのへんの文章博士も真っ青、褥のなかでも学問の教えを受けたというほどの賢女で、しばらく無沙汰をしていた藤式部がふと立ち寄ったところ、彼女は殊勝げに、しかし理路整然とこう宣うた。「月ごろ風病重きに堪へかねて、極熱の草薬を服して、いと臭きによりなむ、え対面賜はらぬ。まのあたりならずとも、さるべからむ雑事等はうけたまはらむ」。
 風邪をひいて蒜(ひる=にんにく)を服んだので臭くてお目にかかれない。直接お会いしなくていい用事なら承ります、というわけである。漢語が頻出するのみならず、ごつごつとして女の言葉遣いではない。式部が「わかった」と言って帰ろうとしたら、彼女が「臭いがしなくなった頃にまた来てね」というので、にんにくの臭いに辟易としながら式部は「わたしが来ることがわかっているはずの夕暮れに、昼(=蒜の臭う間)は待てとはおかしなことだ」と歌を詠む。女はそれに「夜ごと逢う仲ならば昼(=蒜の臭う間)に逢ってもよいものを」と返す。式部が最近ごぶさたなのを皮肉っているのである。式部の歌には掛け詞のみならず古今集本歌取りもあって、即興で詠むだけでなくそれなりの趣向も凝らさなければならないのでたいへんだ。光源氏たちが笑いながら「作り話だろ。も少しまともな話をしろよ」と突っ込むと、式部はすましている。すると馬の頭が「男女に係らず半可通は困りものだね。女同士の手紙なのに達者な漢字で書いたりしてるのを見ると、才女ならもっとたおやかだったらいいのに、と思ってしまうよね」とコメントする。
 雨夜の品定めはごりごりのフェミニストなら眼をむいて怒りだしそうな場面だが、女の作者が男の口を借りて女たちを中だとか下だとか位づけするのだから、西郷信綱師のいうようにきわめてアイロニカルである*2。さらに詳述は避けるけれども、この場面は一種のコメディ・リリーフというだけではない。いわゆる箒木三帖だけでなく「その射程は全篇に及」び(西郷)、物語上の要の役割をもはたしているのである。


 さて先月、孤島へ携えていった本の一冊に『学海日録 第七巻』(岩波書店)がある。明治十九〜二十二年の依田学海翁の日記である。
 明治十九年十一月十一日の条に、こういう記述がある。


 「十一日。終日雨ふる。殉難記略を編す。堀織部正・橋本左内の伝をつゞる。源氏物語をよむ。萩原広道の評釈こそ世になきものなれ。注解のやうつまびらかにして、よく作者の用意を尽せりとおぼしきものなり。雨夜品定の条に、右馬の頭がひゝらぎゐたりといふを、橘守部は、ひゝらぎ辺開きにて、源氏のかたはらを去りてかたはらに開くよしにとけり。余も初はさもやあらんと思ひしに、今なほつまびらかに読みたるに、この解は大にあやまれり。広道が注釈にいふごとく、口たゝくといふものなり。しかせざれば後の意聞えがたし。」


 夫が浮気をしたからと言って事を荒立てると夫婦仲が壊れてしまう、妻は知ってるよとほのめかす程度で留めておけば可愛いのに、なんて馬の頭が手前勝手なことを言うと、頭中将は、まあどっちに原因があるにしても気長に辛抱してるのが一番だね、なんてあたりさわりのない相槌をうつ。「馬の頭、もの定めの博士になりて、ひひらきゐたり」。馬の頭はまるで弁論博士のように、口から泡を飛ばして弁じたてている。源氏はと言えば、寝てるんだか寝たふりをしてるんだか。つまんないの、と頭中将は思いながら、馬の頭の話をとことん聞いてやるか、と身を乗り出す、という場面。「ひひらき」はむろん、べらべら喋るの意で、「嘶(いなな)く」とか「囀(さえず)る」と同意で、漢字で書かれていれば『類聚名義抄』に出ていたはずで、橘守部も間違わなかったろうに。萩原広道の『源氏物語評釈』は、たしか岩本素白もどこかで第一に推していた注釈書である。
 ところで『学海日録』を徒然にひろい読みしていると、頻繁に「墨水にゆく」という記述が出てくる。一泊二泊して朝帰りというパターン。はて、なんだろうと不思議に思っていたところ、先頃、山口昌男の『「敗者」の精神史』(岩波書店)を読み返していて謎が解けた。お妾さんのところだった。「墨水というのは向島の別業のことで、ここには瑞香という学海のお妾がいた」という。学海翁には愛妾宅で綴った『墨水別墅雑録』という本もある。ちなみに依田学海の友人であった淡島椿岳も晩年向島に住み、すまいを梵雲庵と名づけた。息子の淡島寒月に『梵雲庵雑話』(岩波文庫)がある。山口昌男によれば、椿岳の妾の数はなんと百六十人であったという。マジすか。

*1:『素白随筆集』平凡社ライブラリー所収

*2:西郷信綱源氏物語を読むために』平凡社