なつかしさについて



 いまとなっては定かでないけれども、おそらく永井龍男の『石版東京圖繪』*1がきっかけだったのだろう。一九六七(昭和四十二)年に中央公論社から刊行されたこの長篇小説は、帯のコピーを引用すれば「ほろびゆく職人の生活をとおして東京人の哀歓を綴り、懐しい明治大正の風物と青春の鼓動をつたえる詩情ゆたかな力作長篇」である。ついでに、帯裏に掲げられた井伏鱒二のことばも書き添えると、


 「江戸の職人気質というものは、関東大震災であらかた無くなった。第二次大戦で完全に湮滅してしまった。多年にわたって磨きのかかった気質であった。失われたのは惜しい。だから明治末年頃に東京下町で育った人には、この職人気質は彼等のなつかしい「故郷」である筈だ。
 東京の神田に生れ神田に育ったこの小説の作者は、幼少年時代の周囲を追想しながらその「故郷」をここに書いている。自己の見聞と実記に即して書いている。失われた「故郷」をいとおしむ切ない気持が現われて、第三者もいわゆる一読断腸の感を覚えて来る。」


 この本が刊行されたころ、明治は百年を数えすでにじゅうぶん「遠く」はなっていたけれども、明治末年生れはまだ五十代なかばにすぎず、上に掲げたふたつの文章が異口同音に語るように明治大正の風物や江戸時代から連綿とつづく職人気質といったものは多くの日本人にとって郷愁の対象として感ぜられていた。それは昭和生れの子どもたちにとってもある種の実感をともなったノスタルジーの対象であり、永井龍男の描く豆腐屋の、「水から一丁、素手ですくい上げると、裏返しにした桶蓋の上で、チョンチョン、チョチョンと幅の広い真鍮の包丁を運び、その調子で横にも細かく刃を入れる」といったくだりなどは、かりに実際に目にしたことがなくとも生き生きと眼裏にたつ情景であった。
 その『石版東京圖繪』の冒頭で永井龍男が詳細に説明を加えているのが川上澄生の『明治少年懐古』で、「もうずいぶん長い間、「明治少年懐古」という本を机辺から離したことがない」と十数頁にわたって紹介している。川上澄生もまた同著で幼少時に親しかった職人たちのいる情景を活写していて、『石版東京圖繪』へのこれはみごとなプロローグとなっているのである。
 永井龍男が座右に置いた『明治少年懐古』は昭和十九年に明治美術研究所より刊行された二百部限定の本で、昭和五十年(1975)にそれを復刻した冬至書房版をわたしは古書店で手に入れ、一読して譬えようのない懐かしさにとらわれた。川上澄生の描く職人たち――雀さし、へっつい直し、でいでい屋――や鉄道馬車、勧工場などは疾うに姿を消し、ここに描かれている情景でわたしの記憶にあるのは、めんこや竹馬などほんの僅かにすぎないけれど、ほとんどが書物などで知るにすぎない明治の東京の情景がなぜかくも懐かしく感じられるのだろうと不思議でならなかった。


 鏑木清方川上澄生よりも一回り以上年上だが、かれが『随筆集 明治の東京』*2で描く情景は『明治少年懐古』と地続きの世界である。そしてそれは江戸時代の末期につながっていて、わたしたちが学校で教わった江戸・明治・大正・昭和といった時代区分がいかに観念的なものであるかをはからずも証しだてている。


 「(略)私には九十でなくなった天保生れの祖母がある、『田舎源氏』の新版を待った一人なので、姉が京伝の妹と寺子屋ともだちだったという。大昔から私の家は浅草代地に代を重ねていたので、祖母の曾祖父にあたる人は、赤穂浪士の仇討に、大川をわたってくる太鼓の音をきいたという話もたびたび聴かされた。」


 幼い鏑木清方の脳裡には雪のなかを吉良邸に向かう四十七士の姿がまざまざと浮び、山鹿の陣太鼓の遠い響きをありありと耳にしたことだろう。それを清方は「心のふるさと」と呼んでいる。生れ故郷のように、物心がつき始めたころに心のなかに形づくられた「その人なりの心の住家とでも名づけられるようなもの」であると。職人気質が「故郷」であるという井伏鱒二のことばも同じ意味合いだろう。そうしたものにふれて郷愁を呼び起されるのは当然であるけれども、先に書いたようにほとんど知らない世界に懐かしさを感じるのはなぜなのか。
 古語の「懐かし」は動詞「懐き」の形容詞形で、離れがたく親しいという意味をあらわす。国文学者の藤原克己は『源氏物語』に出てくる「なつかし」に着目してこう書いている。


 「『源氏物語』を読んでいますと、たんに親しみやすいというだけでなく、なにかこう、胸にしみ入るような感じを「なつかし」と言っているようなのです。また、「なつかしきほどの御衣」などと、衣が柔らかく肌にしっくりする感じをも表しますから、この言葉は、明らかに接触感覚的な官能性をも含意しているようです。」*3


 「なつかし」という言葉がかつて持っていた多義性をこの一文からわたしたちは知ることができる。必ずしも郷愁でなくとも「胸にしみ入るような感じ」と「接触感覚的な官能性」を指して「なつかし」と形容したのであれば、『明治少年懐古』の世界もまた古典的な意味での「なつかしい」本であると納得できるのである。現代の小学生たちが生れて初めて田植えをしたときに「なんか、なつかしい感じがする」と言ったそうであるが、それもまた同じ意味合いであろうと思う。
 『明治少年懐古』はいま文庫で読むことができる。



明治少年懐古 (ウェッジ文庫)

明治少年懐古 (ウェッジ文庫)

*1:中公文庫版も出ているが、貼函入の単行本には川上澄生の版画が別刷で数点収録されていて美しい。

*2:岩波文庫、1989

*3:藤原克己「匂い――生きることの深さへ」、『源氏物語 におう、よそおう、いのる』所収、ウェッジ、2008