憧憬と嫉妬と、少しばかりの軽蔑と――『トニオ・クレーガー』の新訳を読む



 トーマス・マンの『トニオ・クレーガー』の新訳が出た。浅井晶子訳、光文社古典新訳文庫大西巨人の『神聖喜劇』の関連で『トニオ』を再読したのが4年前だった*1。久しぶりに新訳で読んでみたが、行き届いた清新な訳文のせいもあずかってか、前回読んだときよりもこの小説をより理解できたような気がしないでもない。あらたに気づいたことも少なからずあった。
 小説の冒頭近く、トニオが友人のハンスにシラーの戯曲『ドン・カルロス』を「君にも読んでほしい」と勧める場面がある。ハンスは戯曲には興味を示さず、逆に馬の本で見た写真のことを昂奮気味に話す。「すごい図解が入ってるんだ。今度うちに来たら、見せてやるよ。瞬間撮影っていうやつで、速足や駆足や跳躍のときの馬の姿勢が全部見られるんだ」。以前読んだときには読み過ごしていたが、これはエドワード・マイブリッジの連続写真のことだろう。マイブリッジの連続写真にインスパイアされたエジソンはキネトスコープを発明し、映画が誕生する。マンが『トニオ・クレーガー』を発表する十年ほど前のことである。
 この連続写真は、小説の中ほどでもう一度出てくる。没落したクレーガー家をあとに故郷を出奔し、放埓な日々を過ごしたのち小説家として世に出たトニオが、女友達で画家のリザヴェータに長広舌をふるう場面である。芸術家と俗人、もしくは、芸術と人生との対立についてトニオが延々と自説を述べるくだり。「瞬間撮影の載った馬の本を読むほうがずっといいなんていう人たちを、詩のほうへ誘い込んだりしちゃだめなんだ!」とトニオはいう。夢見る少年だった十四歳のトニオは、すでに三十歳を過ぎている。だがトニオのこころのなかには、まだハンスのおもかげが生々しく息づいているのだ。かつて「ハンスには、僕のようにはなってほしくない。いまのままでいてほしい。明るく、強く、誰もが愛する、そして誰よりも僕が一番愛するハンスのままで!」と祈ったハンスのおもかげが。小説の語り手は十四歳のトニオをさして「この当時、トニオの心は生きていた」という。「そこには憧憬があり、憂鬱な嫉妬と、少しばかりの軽蔑と、純真そのものの幸福があった」と。
 リザヴェータは、長広舌をふるうトニオにむかってこう言い放つ。あなたはただの俗人なのよ(浅井晶子訳では俗人は「一般人」と訳されている)。「あなたはね、道を誤った一般人なのよ」。本来は俗人なのに、道を誤って芸術家になってしまったのだとリザヴェータはいう。この言葉は、トニオをしたたかに打つ。リザヴェータにいとまを告げて故郷へと向かい、さらに北の国デンマークを訪れたトニオは、そこである出来事に遭遇して一種の回心を得る。
 その出来事のあと、小説の最後で、トニオは北の国から「南の楽園で暮らす」リザヴェータに手紙をしたためる。「あの言葉がどれほど的を射ていたか、君にはわかっていたでしょうか。僕の一般人気質と「人生」への愛とが、どれほど分かちがたいものであるかを」と。
「平凡なもののもたらす喜びへの憧憬以上に甘く、価値のある憧憬などない――そう感じてしまうほどに深い、運命によって否応なく定められた芸術家としてのあり方も存在するのだということを」
 平凡なものへの憧憬を抱きつつ、芸術家としての道を歩む、そういう人間もいるのだ。俗人でない芸術家、「誇り高く冷徹な」芸術家に感嘆の念を抱きはするけれど、けっして僕は羨みはしない、とトニオはいう。「人間的なもの、生き生きとしたもの、平凡なもの」に対する俗物的な愛情こそが、自分を自分(という芸術家)たらしめているものにほかならないのだ、と。
 リザヴェータへの手紙の結びの部分は、みごとな訳文とあいまって美しく感動的だ。


「僕が成し遂げたことなど、なにもありません。ほとんど無に等しいわずかなものです。リザヴェータ、これからはもっと善きものを創り出します。――これは約束です。これを書いているいまも、海の轟きがここまで響いてきます。僕は目を閉じます。すると、いまだ生まれぬ茫洋とした世界が、秩序と形式を与えられるのを待っているのが見えます。うごめく人間たちの影が、呪縛を解いて救いだしてほしいと僕に手を振るのが見えます。悲劇的な人物、滑稽な人物、または悲劇的かつ滑稽な人物たち。彼らに、僕は大きな愛情を抱いています。けれど、僕の最も深く、最もひそやかな愛は、金髪で青い目の人間たちに向けられているのです。明るく生き生きとした、幸せで、愛すべき、凡庸な人たちに。
 リザヴェータ、どうかこの愛を非難しないでください。これは善き愛、実り多き愛です。そこには憧憬があり、憂鬱な嫉妬と、少しばかりの軽蔑と、純真そのものの幸福があるのです」


「金髪で青い目の人間たち」とトニオが書くとき、トニオの脳裡にあったのは、少年のころに愛したハンスとインゲだった。トニオは、北の国デンマークの滞在先で、成長したハンスとインゲに思いがけず遭遇する。この出来事がトニオに回心をもたらし、トニオはいわば「再生」の道を歩みだす。リザヴェータへの手紙はその決意をしたためたものである。
 小説の語り手は、トニオの出遭いの衝撃を読者もまた分かち合えるようにと、この男女を「ハンスとインゲ」の名で呼ぶ。だが、出遭いからしばらくあとのダンスパーティの場面では、このふたりが「ハンスとインゲ」であるのは、特徴や服装が似ているからというより、同じタイプに属する人間であるからであり、「インゲはハンスの妹なのかもしれない」という。目の前でカドリーユを踊るインゲに、トニオは十六歳のころ、おなじくカドリーユを踊るインゲを目にして想起したシュトルムの詩の一節「僕は眠りたい、けれど君は踊らずにいられない」(「ヒヤシンス」)をまたなつかしく思い出す。君は踊ればいい、だが僕のいる場所はそこではないのだ、と孤独に思った日のことを。憧憬と、憂鬱な嫉妬と、少しばかりの軽蔑と――あの日の感情がよみがえる。「あのときと同じように、トニオは幸せだった。なぜなら、トニオの心は生きていたからだ」。
 浅井晶子の訳文は、従来の翻訳よりも、ここで一歩踏み込んだものになっている(「この文章には私の解釈が多分に入っている」)。ダンスパーティの場面で、トニオはかつて恋い焦がれたふたりに熱いまなざしを送る。
「いま目の前にいるふたりがハンスとインゲボルクそのものに見えるのは、個々の特徴や、服装が似ているからというよりは、むしろ彼らが人間として同じタイプ、いわば同じ人種に属するせいだった」
 従来の翻訳、たとえば実吉捷郎訳(岩波文庫)では「その二人がハンスとインゲボルグだというのは」であり、高橋義孝訳(新潮文庫)では「この二人がともに彼を悩ませたのは」であり、比較的新しい平野卿子訳(河出文庫)では「このふたりがインゲボルクとハンスだというのは」となっている。
 浅井晶子は「訳者あとがき」で、この箇所の原文を直訳すると「彼らがそれ(es)なのは……個々の特徴や服装の類似のためというよりは……」であり、esをどう解釈するかによって訳文は変ってくるけれども、論理的にいえば目の前のふたりがハンスとインゲに似ているのはと解釈すべきだろうと述べている。平野卿子も「訳者あとがき」で、「実際にハンスとインゲに再会すると思っていた人が多いことにあらためて気づいた」と書いている。ドイツ人に尋ねても再会したと思っていたという返事がいくつか返ってきたそうだから、必ずしも翻訳のせいとはいえないが、高橋義孝訳は実際に再会したと解しており、「このふたりはたぶん兄妹なのだろう」(平野卿子訳)という箇所を、「ハンスは自分の妹らしい若い女の横に腰を下ろしていた」というふうに、インゲのほかに「若い女」を登場させて辻褄を合わせている。新潮文庫で読んだ読者は、トニオはハンスとインゲに再会したと思ったにちがいない(ちなみに、浅井晶子も平野卿子も「兄妹なのかもしれない」という箇所をトニオの内心の声としていわゆる「自由間接話法(体験話法)」と解しているが、実吉捷郎、高橋義孝はともに語り手の声としている)。


 ここで、訳文を離れて小説のプロットとして考えてみるとどうだろう。ハンスとインゲが恋人同士、あるいは夫婦としてトニオの前に現れたとしたら……。おそらく、ふたりを見るトニオの目もまた違ってきただろう。かつて愛したふたりが目の前で仲睦まじくしている。かつての「憂鬱な嫉妬」は、別種の嫉妬にとってかわり、「あのときと同じような幸せ」は感じられなかったかもしれない。小説の構成、力点のバランスも微妙にかわってきただろう。「ハンスとインゲ」に思いがけず遭遇したトニオは、おそらくすぐにかれらが別人だとわかったにちがいない。きわめて似ているけれど、別人であるからこそかつて愛したハンスとインゲのおもかげを重ね合わせて、当時の真情――「憧憬があり、憂鬱な嫉妬と、少しばかりの軽蔑と、純真そのものの幸福があった」――がありありとよみがえるのだ。 
「言葉によるソナタともいわれるこの作品には、ライトモチーフ(ある人物や状況について一定の表現をくり返す手法)や対句的な表現が数多く使われているが、それはごく細かなところにまで及んでいる」と平野卿子が指摘する反復はいたるところで目についた。インゲに思いを寄せるトニオを遠くから見つめる女の子マクダレーナは、のちのダンスパーティの場面で、トニオに視線をそそぐ少女として反復される。ふたりはともに黒い瞳をもち、ダンスの最中に転ぶのである。

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はてなダイアリー」が来年終了するそうなので、いずれ「はてなブログ」へ移転しようかと思う。このところ更新が間遠になっているけれども、いましばらくは気がむいた時に雑文を書く場所を確保しておくつもり。「はてなブログ」へは「はてなダイアリー」からリダイレクトされるようなので、新居へは迷わずお越しいただけると思う。


トニオ・クレーガー (光文社古典新訳文庫)

トニオ・クレーガー (光文社古典新訳文庫)

トーニオ・クレーガー 他一篇 (河出文庫)

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