さようなら、柳澤愼一さん

 

 

 三谷幸喜朝日新聞の連載コラム「ありふれた生活」(7月20日夕刊)で、彼が監督した『ザ・マジックアワー』が、昨年、中国でリメイクされて大ヒットしたと書いていた。日本円にして530億以上の興収で、これは中国映画全体の年間第3位の興収だという。日本では約40億円だったというから10数倍になる。ま、桁が違いますからね、人民の。中国版『ザ・マジックアワー』は『トゥ・クール・トゥ・キル――殺せない殺し屋』というタイトルでこのたび日本でも公開(7月8日~)されたというから、機会があれば見比べてみたいと思う。

 この映画『ザ・マジックアワー』に、往年の映画スター役で出演した柳澤愼一さんが亡くなられた。先月28日、去年の3月24日に亡くなったと日本歌手協会から発表された。死因は「骨髄異形成症候群」だという。死後15ヶ月経ってからの発表は、おそらく御本人の遺志なのだろう。柳澤さんらしい、と思う(血液のがんなので余命は御存知だったろう)。追悼記事は目にしなかった。一世を風靡した(といっていいだろう*1)エンターテイナーを遇するすべをこの国のジャーナリズムは知らない。三谷幸喜の連載コラムにも名前は出てこなかった(和田誠さんの題字・カットなのに)。


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 柳澤さんには著書が1冊ある。『明治・大正スクラッチノイズ』という。この本については以前ここで書いたことがある。単行本・文庫版とあり、いずれもわたしが編集を担当した。

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 編集作業はたのしかった。元版のときは、すでに出来上がった原稿をそのまま本にするだけで、あっけなく終わってしまった。お会いしたのも両三度ぐらいだったろうか。自費出版だったので、書店に並ぶこともなくあまり評判にもならなかったと思う(ある大新聞の記者から聞いたことだが、自費出版の本は書評欄では取り上げないという内規があるそうだ)。その後、別の出版社に入り、文庫のレーベルを立ち上げたとき、この本を埋もれさせておくのはもったいないと思い文庫化を企てた。

 オッペケペー節からセントルイス・ブルース、立小便禁止令から歌舞伎の歴史まで、明治~大正の社会・風俗・政治・教育・文化そして大衆芸能の出来事を、ヒット曲にのせて縦横無尽に語り倒したジャズ講談。

 一冊に百冊分の情報が詰まっていると永六輔氏も吃驚仰天。西郷隆盛からフレッド・アステアエノケンキートンサッチモと、登場人物は無慮数千人。語るはジャズ歌手、声優、俳優にして、稀代の雑学王・柳澤愼一

 これは文庫版の裏表紙にわたしが書いた内容紹介。永六輔さんには解説代わりの前書き「愉しい《ひとりジャムセッション》」を書いてもらった。もう文章を書くのも覚束なくなられており、談話をわたしが文字に起こした。かつての立て板に水の弁舌は跡形もなく、口から先に生まれてきたようなあの永さんが、と思うと寂しかった。永さんは、柳澤さんの「文体と洒落ッ気」は江戸末期から明治にかけての戯作者、鶯亭金升平山蘆江、さらに野坂昭如井上ひさしらの系譜に連なると喝破されて、わが意を得たりの思いがした。

 柳澤さんも文庫化には気合が入っている様子で、このときとばかり加筆に次ぐ加筆で、元版よりおそらく2割ぐらいは増量されているはずだ。元版・文庫版ともに、古書でよければいまでも手に入るが(元版は新品がまだ入手できるようだ)、文庫版のほうが断然お得。「定本」と銘打っておけばよかった。

 大正8年(1919)の項で、明治の演歌師・添田唖蝉坊の息子の添田さつき(知道)が『東京節』を作詩、『ジョージア・マーチ』のメロディを借用してレコードに吹き込んだら大ヒットしたとあり、歌詞が引用されていた。柳澤さんとゲラをやり取りする際に、『東京節』をネットか何かでしらべて歌詞の異同を鉛筆書きで質したら、ゲラに以下のような書き込みがされて戻ってきた。

 一九五九年NHKの海外放送(現国際放送)で筆者が「懐かしのメロディ」を担当しておりました際、歌詞の流れにギクシャクしたところを修整しましたところ、原作者が快く御容認下さってますので、改変した歌詞を載せます。――又『東京節』に限らず、この読み物に登場する曲名や歌詞に、他の年表や資料と異なる箇処があるやも知れませんが、タイトルは「通り名」、歌詞も原作者・演者と面談の上、ご諒承戴いたものを載せさせていただきました。

 わたしはこの文面に畏れ入って、以降、ゲラへの「さかしら」な疑問出しは慎むようにした。ちなみに『東京節』とは「♪ラメちゃんたらギッチョンチョンでパイのパイのパイ パリコとパナナでフライフライフライ」と意味不明な歌詞が軽快なメロディにのせて歌われる楽しい歌で、わたしなどは小学生のころ、森山加代子の「パイのパイのパイ」でおぼえて、登下校の際に大声でがなっていたものだ。


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 ひとつ、柳澤さんから聞いた話を書きとめておこう。芸能史にはたぶんいまだ書かれざる秘話だろう。大正13年(1924)の項で「気の進まない儘吹き込んでビッグ・ヒットしてしまった例」として昭和歌謡が挙げられる。

 岡晴夫が巡業先から戻れないので『お富さん』を代りに吹き込んだ春日八郎、トラックの運転手より稼ぎがいいョとジャズから無理矢理ムード歌謡に転向させられた『有楽町で逢いましょう』のフランク永井、流行歌は無理かもと尻込みしたが結局『南国土佐をあとにして』を吹き込んだところ素晴らしい表現力と見事な売れ行きで名誉県民の栄に浴したペギー葉山、「小節がくにゃくにゃ廻ってジャズ歌手の俺には無理だ」と突っぱねたけど吹き込んだ『人生の並木道』が終生の持ち歌になったディック・ミネなどなど。

 この『有楽町で逢いましょう』、じつは最初にオファーがきたのは柳澤さんへだったそうで、柳澤さんが断ると次は旗照夫(柳澤さんと同年代のジャズシンガー)に行き、こちらも断られて、お鉢が回ってきたのがフランク永井だったという。そんなこともあるんですね。人生の岐路というわけだ。ウィキペディアには「企画当初は三浦洸一が歌唱する予定であったが、作曲者・吉田正の強い推薦によってフランク永井がレコーディングすることとなった」と書かれている。伝説とはそういうものだ。

 あるとき、「スクラッチノイズ」の続編、「スクラッチノイズ 昭和残響伝」をお書きになるつもりはありませんか、と聞いたことがある。柳澤さんはにやっと笑って「じつは原稿はもう出来上がってるんです」と宣うた。「じゃあそれ出版しましょうよ」というわたしに、「まだ生きてる方がいらっしゃるので、ちょっと差し障りがあって」とおっしゃった。それ以上、口を挟ませないといったきっぱりとした口調だった。昭和芸能史の生き字引のような方だから、「明治・大正」篇にまして飛び切り面白い内容だったろうと思う。

 2011年、「昭和篇は没にしたけれど、10年にも及ぶお誘い、一生忘れる事は出来ません」というお手紙とともに、「形見分け」を会社に持ってこられた。エノケンの色紙、志村立美が色紙に描いた絵(残念ながら美人画ではなかった)、山野一郎の「活動から映画へ」というガリ版刷の台本数冊、NHKFM『青春アドベンチャー』(柳澤さんの語り)のエアチェック・カセットテープ、アル・(お楽しみはこれからだ!)・ジョルソンの輸入盤3枚組CD等々が手提げ袋いっぱいに詰め込まれていた。

 おそろしく筆まめな方で、文庫刊行後も何通もお手紙を頂戴した。数十通はあるかと思う。浅草のパブで定期的に行なわれていた柳澤愼一とスイング・オールスターズのライブは見に行けなかったけれど、舞台で歌われるのは何度か見たことがある。ふだんは杖をついて歩かれていたが、背をしゃきっと伸ばして壇上に立たれた姿にはスターのオーラが漂っていた。さすが、と感嘆した。

 永さんは柳澤さんの人となりについて「人に迷惑をかけるのが何よりもいやで、こんなに気をつかう人っていません」と語っている。たしかにこの人の「腰の低さ」は折り紙付きで、他人への気遣いは尋常ではなかった。壁の中に消え入らんばかりにシャイで、そのくせ自己顕示欲もそれなりにあって、そのアマルガム(融合)が独特のキャラクターを形作っていた。永さんは「長い付き合いだけど一緒に食事をしたこともないんだから」というけれど、一度、「蕎麦でもたぐりに行きましょう」と、会社の近くにあった神田やぶそばで、お昼を御馳走になったことがあった。会社の営業部の面々といっしょに近くの焼き鳥屋で御馳走になったこともあったな。

 訃報を知っていろいろ思い出すと、懐かしさで胸がいっぱいになる。もう一度会いたかったな、と思う。

 

*1:ウィキペディアに「戦後の学生歌手第一号として人気を集め、1953年から1955年にかけて日劇に500日間出演という記録はその後も破られていない。当時は押しかけた客で日劇のドアが閉まらず、外を走る都電から舞台が見えたといわれる。」と書かれている。