上司小剣コラム集出づ!



 週刊文春の連載コラム「文庫本を狙え!」で、坪内祐三が『新編 燈火頬杖』について書いている(1月15日号)。坪内は、《「あさみふかし」の名前を知る人が何人ぐらいいるだろう――そういえばこの本の「忘れられた作家たち」という一文で紹介されている藤沢清造の名を芥川賞の詮衡委員たちは皆ごぞんじなかったからな》と書いていて、ちょっと考え込んでしまった。
 芥川賞の詮衡委員は、以下の面々である。池澤夏樹石原慎太郎小川洋子川上弘美黒井千次高樹のぶ子宮本輝村上龍山田詠美。坪内は「皆」と書いているけれども、石原慎太郎黒井千次藤沢清造を知らなかったのだろうか。今東光の『東光金蘭帖』も読んだことがないのかね。今東光は『東光金蘭帖』で「藤沢清造などといっても今時の人は知らないだろう」と書いていて、藤沢清造はその頃からずっと「忘れられた作家」であり続けているわけである。もっとも夫子自身すらいまでは「忘れられた作家」の側におさまっているのかもしれない。上掲の詮衡委員のうち一人か二人はきっと今東光を知らないにちがいない。だれとは言わないけれども。
 芥川賞の詮衡委員といえば、かつては文藝評論家が名をつらねていたこともあるのだがいまはみんな小説家である。それについて、だれかがどこかで書いていたのだけれど思いだせないので(思いだせたとしても当の本がどこにあるかわからない)うろ覚えで書く。詮衡委員のなかには候補作品を読まないで詮衡会に出てくる人やら、議論になってもまったく発言しないで一通り議論が出尽して授賞作品が絞られると徐ろにひと言「異存ありません」とだけ述べるツワモノやらもいたという(たしか中村光夫だったと思う)。それで主催の文藝春秋が文藝評論家を外し、ために江藤淳も詮衡委員になったことがないと書かれていた(ような気がする)。


 坪内は『新編 燈火頬杖』の「梶井基次郎君の印象」や「川崎長太郎会見記」を取り上げて、浅見が「キャッチーな人」だったと指摘している。浅見がはじめて梶井基次郎に会ったとき、梶井はレモン・ティーを飲んでいて、のちに親しくなって「梶井君が新鮮な果物と、一片のレモンを浮かばせたプレン・ソーダを熱愛することを発見した」というのである。むろん梶井基次郎出世作かつ代表作である「檸檬」の来歴を浅見はさりげなく披露しているわけで、坪内は紙幅の都合で引用していないが続けて「同時に僕は、梶井君の小説にいささかも肉食者流の媚態(コケットリイ)が無く、何処か菜食者的な匂が――淡々たる中の妙味と澄んだ静けさとがあるのを、偶然で無いことを知ったのである」と浅見は書いている。このあたりが浅見をして「人間通」の批評家と呼ばしめる所以でもあるのだが、少ないスペースのなかでそこを過たず紹介する坪内の批評眼もたたえられてしかるべきだろう。
 先日、『新編 燈火頬杖』の話をしていて、今では梶井基次郎すら知らない若者がいてと言おうとして、梶井の名が思いだせずにうろたえた。ほらあの丸善にレモンを置いた……みっともない。話相手もわたしの度忘れが感染して、あああの小説家……だれだっけと言いだす始末。歳は取りたくないものです、とは中村光夫が廣津和郎に投げかけた言葉だったか。その博識無類の話相手が言うには、昨今の若者は松本清張すら知らないそうだ。わたしの言う梶井基次郎を知らない若者は井伏鱒二の名もどこかで聞いたような気がするそうで、そういう人間の目に『新編 燈火頬杖』の世界はどのように見えるのか、読ませて感想を聞いてみたい気がしないでもない。


 藤沢清造といえば龜鳴屋の『藤沢清造貧困小説集』は完売したらしく御同慶の至りである。藤沢の随筆集『根津権現前より』が近刊予告されているけれども、それより先に『上司小剣コラム集』がこのたび上木された*1。短篇小説「鱧の皮」一作のみによって辛うじていまにその名が知られる上司小剣だが、二冊の既刊コラム集に加え三百余篇の単行本未収録コラムを収録した文庫版五百頁に垂んとする合本で、発表当時そのままの正字正仮名で印刷されているのが素晴らしい。さぞや編集が大変だったろう。
 読売新聞の記者であった小剣は、記事の埋め草としてそれらのコラムを書いたそうで、一行から数十行に到るまで長さは区々ながら、拾い読みをしているとじつに興趣が尽きない。


 《東京では、跣足で歩くと罰金を取られる。大阪では、手拭をかぶつて歩くと叱られる。足と頭と、妙な感じがする。(明治38年3月21日)》
  これはこれは。
 《詩人が小説家になる。仮令(たと)へば、義太夫語りが藝者になるやうなもの。(明治38年6月4日)》
  ふーむ。
 《俳優や落語家の仮声(こはいろ)もよいが、宗教家や政治家の演説の仮声を寄席でやつたら、青年学生は喜んで聴くであらう。植村正久君の仮声など、頗る妙であらうと思ふ。(明治38年12月7日)》
  やりましたよ、小剣先生。浅沼稲次郎やら田中角栄やら、小泉純一郎の顔真似まで。


 小剣がもっとも親しかった文学者は読売新聞の後輩・正宗白鳥で(小剣の入社は明治三十年、白鳥は同三十六年)、ふたりは生涯にわたって交遊したが、この五つ年上の知友の死をきっかけに白鳥は『自然主義文学盛衰史』を書き始める。ちなみに十八歳の白鳥正宗忠夫に基督教の洗礼を施したのが「植村正久君」である。
 小剣が新聞記者の仕事の傍ら「ホトトギス」に「鱧の皮」を発表したのが大正三年三十九歳のときで、田山花袋近松秋江らに称賛され、文壇に地歩を築く。大正九年には四十五歳で読売新聞文藝部長の職を辞して作家に専念することになるのだけれども、小剣の仕事として後世に残るのは、あるいは、このたび纏められたようなコラムであるのかもしれない。文学史家の浦西和彦が本書に寄せたエッセイで《こういう小さなコラムの方が、新聞の論説よりも、現在読んでおもしろく、また、当時の社会や時代の匂いや響きが感じられるのである。『上司小剣コラム集』は時代史としてもすぐれた資料の一冊となっており、極めて貴重であろう》と書いているように。
 宇野浩二は、短篇小説集『鱧の皮』(岩波文庫)の解説で、小剣は待合せの時間に遅れる者を蛇蠍のごとくに忌み嫌ったと書いている。それも「二分とか一分とか、時には何十秒とか、いふのである」と。小剣はだれにも愛想がよかった、と宇野浩二はいう。「秋聲や白鳥などは、それほど愛想はよくなかつたのに、私は、したしみが持てたけれど、小剣には、どういふわけか、したしみが持てなかつた」と。いいんですかそんなこと書いて、解説に。「私の知るかぎり、作家といはれる人は、多少とも、どこかに、藝術家らしいところがあるが、小剣にはそれが殆んどなかった」。「(処女作を書いてから)ずつと小説を書き続けてゐれば、小剣は、もつとちやんとした作家になつてゐたかもしれない」。もう、宇野先生ったら。
 むろん小剣はずっと小説を書き続けていたわけだが、むしろ小説などに手を染めずにずっとコラムを書きつづけていたなら、明治大正昭和にわたる風俗文化史の活きいきとした資料が遺されたのにと残念な気がしないでもない。コラム集に着目した書肆龜鳴屋の慧眼をたたえたい。
 ところで、上掲の芥川賞詮衡委員のお歴々は、はてさて、上司小剣を御存知だろうか。