このところ週末ごとに本の整理に忙殺されている。ひと月あまりかけて五千冊ほどを処分したが、目標に達するにはもうしばらくかかりそうだ。以前、「ハルビンの大庭柯公」(id:qfwfq:20100829)で、持っているはずだがどこに埋もれたかわからないと書いた中公文庫『江戸団扇』がひょっこり出て来た。昭和63(1988)年刊のいわゆる“肌色文庫”だが、ぱらぱら眺めてみると、もうすでに大きい活字になっていて「おやおや」と思った。もっとずっと古い本のような気がしていたが、そうでもないんだな(とはいっても四半世紀近く前ではあるけれど)。
纏まっていっしょに出て来た井筒月翁『維新侠艶録』(1988)も同年刊行で大きな活字。鹿島萬兵衛『江戸の夕栄』(1977)、山本笑月『明治世相百話』(1983)、野村無名庵『本朝話人伝』(1983)などは小さい活字。どうやら87〜88年あたりが中公文庫のフォント変更の端境期らしい。ともあれ、『江戸団扇』で新たにわかったことを書いておこう。
柯公に『江戸団扇』なる著書があったわけではなく、本書は大正七年に春陽堂から刊行された『其日の話』の復刻版で、文庫での復刊のさいに冒頭の「江戸団扇」を書名にしたらしい。妥当な判断である。広重・豊国合作の「東都三十六景 両国ばし」の団扇絵をあしらったカバーが艶っぽくて美しい。
尾崎秀樹の解説によれば、本書の半分ほどを占める三十二篇の随筆は、1918年の7月1日から8月3日にかけて東京朝日新聞に日録風に連載されたコラムである。連載を始めるにあたって柯公が書いた序文を尾崎が引用しているので、ここでも引いておこう(『柯公全集』第一巻には収められていない)。
「『其日の話』は其の日其の日の主客の話とそれから起る感想を随録したもので、主客の何人(なんひと)かを語る時もあり、語らぬ時もあり、読んで可く、読まぬでも可き閑文字である」
尾崎は、柯公のいうこの「閑文字」を「時世や風俗を語りながら、その歴史や故事におよび、東西の文明や習俗を比較し、広い視野に立って事柄をとらえている」と評し、さらに「自在に語り来り、語り去りながらも、俗に流れず、一本シンを通しているのが、いかにも大庭柯公らしい」と称揚している。ただの風俗考証のディレッタントではないぞ、というわけである。というのも、このコラムが執筆された1918年夏は、まさにシベリア出兵、さらに米騒動の真直中であり、政府はそれを報道する新聞に弾圧を加え、前々回の「消えた新聞記者・大庭柯公」(id:qfwfq:20110306)でも書いた白虹事件によって柯公は社を去ることになるからだ。尾崎はその経緯を記したのちに、この解説を次のような文章で結んでいる。
「『江戸団扇』は、ちょうどそこに到る時期に執筆した日録だ。閑文字といいながらも、柯公の視線は世情の裏にとどいている。そのことを考えに入れて読むと、柯公の閑文字が立ってくるのである。」
柯公の随筆も尾崎の解説もすばらしい。一読をおすすめする。
**
さて、「本の雑誌」五月号の連載コラムで坪内祐三さんが高崎俊夫さんについて触れていた。高崎さんの編集する清流出版の「シリーズ」の素晴らしさについて。わたしもここで何度か触れたことがあるけれども、かれの手がけた本(まさに「シリーズ」と呼ぶにふさわしい)、とりわけ新たに編集されたアンソロジーは瞠目にあたいする。かつて吉行淳之介が自分の編んだアンソロジーのあとがきで、他人の編んだ好いアンソロジーを読むと一種の対抗心のようなものをソソられるといった意味のことを書いていて、それを「伎癢」という言葉で表現していたという記憶がある。わたしのいい加減な記憶なので、確かではないけれども。
わたしもまた高崎さんの編集するアンソロジーを読んで「伎癢」をそそられるのだけれども、三月に出た山川方夫エッセイ集『目的をもたない意志』、さらについ最近出たばかりの大島渚のエッセイ集『わが封殺せしリリシズム』を読んで、これはとうてい敵わないとシャッポを脱いだ。この二冊は若干の時を隔てて刊行されているけれども、そしてかたや小説家かたや映画監督とジャンルは異なるけれども、じつは一対のものとして読まれるべき本なのだと高崎さんは主張する。むろん、そんなことはどこにも書いていない。だが、こうして並べてみると、いかに鈍いわたしでもそのさりげない主張に気づかないわけにはゆかないのである。
なるほど二人には一見似たところはないように見える。かたや名うての戦闘的映画監督、かたや繊細でリリックな小説で知られるマイナーポエット。だが一方の京都府学連委員長を務めた闘士は「ポレミックな発言をする過激な論客としての貌とは別に、過敏なまでにセンチメンタルで抒情的な資質を隠し持」っているのだと高崎さんは言う。ほら、これらのエッセイがそのまぎれもない証拠ですよ、と蒐めてみせる。「わが封殺せしリリシズム」という短いエッセイを表題にしたのはその証しであろう(これは「リリシズム」というより「センチメンタリズム」が適切だろう*1)。つまり、大島渚の「封殺」したリリシズムが、山川方夫の作品においてみごとに表われているのだと。『目的をもたない意志』の解説で高崎さんが「山川の映画評論の最高傑作」と称揚する「増村保造氏の個性とエロティシズム」と、『わが封殺せしリリシズム』の「『近代主義』登場のころ――増村保造追悼」は、その意味でも併せ読まれるべきエッセイである。
そして、なによりも胸をうつ川喜多和子さんへの大島渚の弔辞。アンゲロプロスが『ユリシーズの瞳』の中で、登場人物に「カズコ」と哀悼を捧げさせた映画の申し子川喜多和子。わたしにも、和子さんにまつわるわたしだけの思い出のいくつかがあるけれども、ここで述べるのはよそう。斎藤龍鳳と、かつての盟友森川英太朗への弔辞、そしてこの川喜多和子への弔辞を収録したことだけで、この本は映画を愛する人たちに永遠に記憶されるだろう。
- 作者: 山川方夫
- 出版社/メーカー: 清流出版
- 発売日: 2011/02
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 44回
- この商品を含むブログ (7件) を見る
- 作者: 大島渚
- 出版社/メーカー: 清流出版
- 発売日: 2011/04
- メディア: 単行本
- クリック: 26回
- この商品を含むブログ (4件) を見る