去年の雪、いまいずこ



 そうか、虫明亜呂無も「バンビ」の常連だったのか。刊行されたばかりの虫明亜呂無のエッセイ集『女の足指と電話機――回想の女優たち』を読んでそのことを知った。「秋の出会い」と題されたエッセイは次のような書き出しで始まる。


 「阪神第一週を了えた翌日、僕はお初天神裏の「夕霧」に行った。日本酒をのみながら、そばをたべた。すだちのかおりが、秋のゆたかな歳月を連想させた。僕はお初天神の庭に、木の葉が舞っているような風景を脳裡に描いた。それから、行きつけの喫茶店「バンビ」で、ジャズを聞いた。日本酒の酔いが、強いコーヒーによって調和され、僕はかなりの時間、ジャズに耳をかたむけていた。十二音階をうまくとりいれたモダン・ジャズの魅力が僕をとらえた。その後、サウナに行った。競馬、日本酒、すだちのかおるそば、ジャズ、コーヒー、サウナとつづいて、僕は秋の阪神の楽しさを満喫した。」


 宝塚で阪神競馬を見た翌日、虫明亜呂無は曽根崎のお初天神横にある瓢亭へ顔を出す。瓢亭は柚子の皮を刻んで練り込んだ柚子切りそばで名高い老舗の蕎麦屋だ。近松の「廓文章」の傾城にちなみ「夕霧そば」と名づけられている。それから虫明亜呂無が行ったという「バンビ」は、おそらく梅田の店だろう。大阪に二軒、神戸にも一軒あるジャズ喫茶だ。もう四十年も昔のことだけれど、当時、神戸の予備校に通っていたわたしは高校時代の友人とよく三ノ宮近辺のジャズ喫茶に出入りしていた。三ノ宮駅北側にあった「バンビ」、そしてトアロード辺の「さりげなく」がたまり場だった。神戸高校時代の村上春樹灘高校高橋源一郎中島らも、鈴木創士らも常連だったという。どこかでかれらとすれ違っていたかもしれない。
 「秋の出会い」は競馬新聞(「競馬ニホン」)に連載されていたエッセイだが、競馬にかんしてはこの冒頭以外に出てこない。本書には「競馬ニホン」の連載から何本も収録されているけれども、いずれも競馬は話の枕にすぎず、おおむね映画の話題に終始している。本書の編者がそういったエッセイばかりを選んだのかもしれないが、いかにも虫明亜呂無らしいみごとなエッセイで、競馬新聞といえば赤鉛筆を耳に挟んだ(むろんブルゾンなどという「小洒落た」ものではない)ジャンパー姿のおっさんが丸めて手に持っているという偏見を抱いているわたしには、このほんとうの意味で洒落た連載エッセイが読者にどう受け取られていたか聊か気にならなくもない。わたしは競馬には縁がないが、当時この連載を知っていたなら「競馬ニホン」を購読していたにちがいない。
 たとえば、集中の一篇「オークスの思い出」は、オークスをフランス語では「プリ・ド・ディアーヌ」、月の女神=純潔の処女の賞といい、『クレーヴの奥方』ゆかりのシャンティイの競馬場でおこなわれるという枕から(虫明亜呂無は早稲田の仏文で山内義雄に学んだ学究である)、シャンティイの街の情景、ポール・レオトーの『性の領域』(『禁じられた領域』の題で邦訳がある)につなげ、甘粕正彦の話題に転じておやと思わせて、出獄後パリに渡った甘粕が逼塞の憂さ晴らしにロンシャン、オートイユ、シャンティイなどの競馬場に通っていたと語る、エッセイのお手本のような文章である。


 ところで、虫明亜呂無の著書や未刊行の厖大な量のスクラップブックからこのエッセイ集を編集したのは以前にもここでふれたことのある畏友高崎俊夫氏。この本とほぼ同時期に同じ版元から刊行されたアンソロジー『昭和モダニズムを牽引した男――菊池寛の文芸・演劇・映画エッセイ集』、『タデ食う虫と作家の眼――武田泰淳の映画バラエティ・ブック』は、いずれもかれの見識が隅々にまで窺われる見事な編集ぶりである。かつて、これもかれの編集した『日活アクション無頼帖』について書いた際に虫明亜呂無スポニチに連載していたエッセイのことにふれたが、連載タイトルは失念していた(id:qfwfq:20071215)。その連載は「うえんずでい・らぶ」であると教示してくれたのが高崎さんで、かれも当時そのエッセイを切り抜いて愛読していたという。「うえんずでい・らぶ」を中心に虫明さんの未刊行エッセイ集をまとめるつもりだと聞いてから一年余、オーソン・ウェルズの名作『上海から来た女』のスティル写真をカバーにあしらった本書がようやく刊行の運びとなった。慶賀の至りと申すべし。
 高崎さんは「編者あとがき」で大島渚のいかにも彼らしい調子の高い「虫明亜呂無・讃」を引用しているけれども、ここではスポーツ恋愛小説と銘打たれた『ロマンチック街道』(話の特集刊行)に寄せた井上ひさしの推薦の辞を掲げておこう。井上ひさしの評はこの本にとどまらず、虫明亜呂無のすべての文章に通じるからである。


 「スポーツと恋愛において、頭と性器はどのように協同するのか、心理と生理はどう反目し合うのか、こころとからだはどんなふうに反応し合うのか。もっとも重要でありながら、そのゆえに難しく、したがってこれまであまり書かれることのなかったこの主題を、明晰であると同時に香気溢れる、いま、ぼくらが持ち得る最良の日本語で、虫明さんはみごとに書き切った。ここにあるのはエッセイであり、伝記であり、ドキュメントであり、そして小気味のよい小説であり、つまるところはたしかな言語世界である。読み終わってあなたは、白井貴子とは自分のことであり、笠谷幸生もまた自分であったことにお気づきになるだろう。おそろしくなるような技である。」


 わたしは虫明亜呂無の文章によって、スポーツの神髄はエロスにあることを知った。ある対象にたいして男の抱く感覚と女の抱く感覚とがどのように異なっているのかを教えられた。そして、井上ひさしのいうように、明晰であると同時に香気溢れる文章というものが可能であるということに驚かせられた。
 三十年以上も前、虫明亜呂無の『クラナッハの絵』(北洋社)が刊行されたときに、わたしはもう一冊買いもとめて当時つきあっていた女性に贈ったことがある。あの本は、もう一冊の『クラナッハの絵』はどこへいったのだろう。贈った相手は、いまは一緒に住んでいるのだけれど。


女の足指と電話機―回想の女優たち

女の足指と電話機―回想の女優たち