坪内祐三の『四百字十一枚』を拾い読みしていたら到頭全部読んでしまった


 坪内祐三の『四百字十一枚』(みすず書房)をあちこち拾い読みしていたら到頭全部読んでしまった。「ちょっと長めの書評」と帯には書いてあるけれど書評というよりはむしろ読書エッセイというべきであって、というのは一冊の本を紹介したり評価したりということよりもその本が自分にとってどういう意味を持つかということや、その本のコンテキストについてより多く筆が費やされているからである。著者はそれを「余談好き」とあとがきで書いているけれどもむろんそれは書物にとって本質的なことであって、一冊の本はそれ自体独立して存在しているわけではなく読み手である読者やその他の多くの本やいろいろな出来事と密接に関わっている。一冊の本を評するということは本来そうしたあれやこれやを語るということであってそのためにはそれだけの教養が必要なのであるが、著者はその資格を十分に備えている当今では稀なひとりである。
 さて、本書を読み終えてさまざまの感想を抱いたがその一々を書くことはしない。とりわけ興を覚えた二三のエピソードについてのみ記しておきたい。
 神保町の書肆アクセス(惜しまれながら先頃閉店となった)の新刊コーナーで坪内は前田陽一の『含羞のエンドマーク』という本を見つける。そして、刊行されてからすでに二年近くが経っていたが、「こんな新刊が去年の初めに出ていたことを私はまったく知らなかった(書評や紹介記事も目にした覚えがない)」と書く。この件りを読んで私はおやおやと思った。というのは、「週刊朝日」の書評欄で山田稔がこの前田陽一の遺稿集の書評を書いていて、それを読んで私はこの本の存在を知り入手したのだったからだ。坪内祐三としたことがとんだ手抜かりをと思いつつ読み進めていると、その十数頁先で(つまり月刊誌の連載では三ヵ月後ということになるが)前文への訂正が出てくる。書評を目にした覚えがないというのは間違いで、実は刊行当時に山田稔が、そして朝日新聞種村季弘が書評をしていたのであり、いずれも「大好きな筆者」なのできっと読んでいたはずなのに、という釈明がおよそ二頁に亙って述べられる。そしてその事実を知ったのは、前田陽一の小学校時代からの友人で同人誌の文学仲間であった前之園明良という人から届いた手紙によってであったと明かされるのだが、「実はこのお名前には見覚えがあった。ちょっと珍しい名字だから、手紙を頂いた時に、あっ、あの人だ、と思った。そして不思議な因縁を感じた」と話は意外な展開になる。未読の方のためにその意外な展開については触れないけれども、この展開を誘ったのは一つの失錯によってであり、その失錯行為がなければその手紙も届かず「去年の暮れに早稲田の古本屋で偶然見つけた一冊の新刊本」というこの回の原稿も書かれなかったわけであるけれども、かれが読んだはずの書評の記憶を失ったのは「ちょっと言いわけめくが」と留保しつつ書くように「種村さんや山田さんの書評は、単なる紹介文を超えて、一個の散文(作品)として素晴らしい。だからかえって肝心の紹介されている本のことを忘れてしまったりする」からではなく、おそらくは何らかの無意識的欲望によるものであって、失錯行為によってその欲望が結果的に達成されているのである。その欲望が何であるかはむろんかれは知る由もないのだけれども。
 

 本書が読書エッセイであるというのは必ずしも時々の新刊本を取り上げるわけではないということもその理由のひとつであるけれども、時には単行本でなく雑誌が対象になることもあって、古本屋で購入した創刊号から五百数十号分の「銀座百点」について触れた「銀座が銀座らしかった時代の『銀座百点』を読みふけっている」では、昭和三十三年に書かれた江藤淳のエッセイを紹介している(些細なことかもしれないが正しくは「『銀座百点』に読みふけっている」ではあるまいか)。江藤が銀座の事務所で文学仲間たちと「三田文学」を編集していた頃を回想した文で、事務所の正面にある文藝春秋のビルを見ながら、「あんなビルがたてたいな、と漂白したアザラシみたいなYがいった。なに、「三田文学」のほうがずっと仕事熱心じゃい、とテンポののびた広島弁でKがいった」という件りを引用したのち、坪内はこう注釈を附す。


 <ここに登場する「Y」はもちろん山川方夫、そして「K」は桂芳久であり、さらに「仕出し屋に電話をかけるのはきまっていつも腹のへっているSの役で」の「S」は坂上弘、「今度事務所ができるときは、バアの二階かなんかににしようよ。銀行の三階じゃ色気がないよ。とカクテルにくわしいTがいった」の「T」は田久保英夫である。>


と、事情通らしいところを見せる。江藤淳は本書の随処に登場しており、『東京味覚地図』(奥野信太郎編)というこれも昭和三十三年に出た本を取り上げた「少し昔の東京食べ物屋ガイドを、文字通り「雑読」している」でも「この一文は江藤淳のどのような単行本にも収められていない」と江藤のエッセイを紹介している。その頃吉祥寺のアパートに住んでいた江藤はかつて暮していた鎌倉を嫌っていたが、「五十代に入る頃、その鎌倉に移り住み、「鎌倉文士」の仲間入りをした。それは一つの転向かもしれない。しかしその転向は、イデオロギーや単なる文壇処世術の問題には還元できない本質的なものであったと思う」と坪内は書く。江藤はのちにエッセイ集のタイトルを『西御門雑記』と名づけるように鎌倉に自足することになるのだが、坪内は「その本質について江藤淳自身の手で何か書き残しておいてもらいたかった」と書くのみで、その「本質」の如何なるものであるかについては書こうとしない。江藤は鎌倉嫌いの理由の第一に「文士とか文化人とかいう得体の知れない人種がこれほどはばをきかせている場所はめったにない」を挙げているけれども、のちに新聞に寄稿した「鎌倉文士」(平成二年*1)という文章では、当時鎌倉で見かけた中村光夫小林秀雄や同級生の父親であった林房雄や吉野秀雄の名を挙げて懐かしそうに回想している。「文壇処世術」というのは、上で引用した箇所の直前に埴谷雄高大岡昇平との対談集『二つの同時代史』から埴谷の発言――当時、吉祥寺の埴谷の家を江藤がしょっちゅう訪ねてきたのは「近代文学」派が日本文学の中心だと江藤が思っていたからで、文壇の状況がわかってくると鎌倉組が中心で埴谷たちは傍流だと気がついた――を引用しているからで、そうした「文壇処世術」もないとはいえないが、より本質的な何かが江藤をうながしたと坪内は考えているようである。もうひとつの「イデオロギー」は六〇年安保の際の「若い日本の会」を分岐として以降保守化してゆく江藤の思想的軌跡を指すのだろうが、仮にいずれにも「還元できない本質的なもの」があるとすれば江頭家の長男として生れ育った環境と関わりがあるといいたいのかもしれない。


 ここで連想は坪内祐三が今月の「本の雑誌」で無茶苦茶面白いと書いている山崎忠昭、通称ヤマチューさんの遺稿集『日活アクション無頼帖』(ワイズ出版)へとはたらくのだけれども、その話は次回に。
                                  (この項つづく)

*1:江藤淳『人と心と言葉』文藝春秋、1995