To the happy few ――『柳田泉の文学遺産』
村上春樹さんの新作『1Q84』が書店に文字通り山積みになっていた。発売日に上下巻あわせて六十八万部(四刷)という数字は純文学の小説としては前代未聞じゃないだろうか。純文学じゃなくても近年では記憶にない(ハリポタぐらいか)。わたしもその売上げに貢献した一人であるわけだが、ここではちょうど同じ頃ひっそりと刊行された一冊の本について書いておきたい。いずれが真に「文学的事件」と呼ぶに値するかはわたしの判断のおよぶところではない。
『柳田泉の文学遺産』第三巻。近代文学研究の泰山北斗柳田泉の業績を全三巻に収めた文藝論集だが、驚くべきはそのすべてが単行本未収録の文章によって構成されていることである。余滴というには膨大な量の文章が各紙誌に発表されたまま柳田没後四十年の今日まで埋もれていたことは出版界の怠慢というべきだが、漸くここにハンディな形で輯成されたことを言祝ぐとともに、編集に当られた川村伸秀氏の労を多としたい。実際この第三巻の氏の手になる解題を一瞥するだけでも、「明治大正文学研究」「明治文学研究」「文学」といった専門誌はもとより、「サンデー毎日」「別冊宝石」各種新聞それに全集の月報やら矢野峰人還暦記念論文集に到るまで、多岐に亙る発表媒体に博捜の触手は及んでいる。
本巻解説で坪内祐三氏が「柳田泉の明治文学研究に関する随筆や雑文はあら方読み尽したかと思っていたら、『柳田泉の文学遺産』のゲラのコピーが送られてきたから驚いた(これが第三巻ということは他にもまだ二巻分あるわけだ)」と仰天しているように、三巻分もの量の逸文を蒐集するなど気の遠くなるような作業である。だがその作業も編集者川村氏にとってはなんら苦にならなかった、というよりおそらくは嬉々として為されたであろうことは目次を見れば一目瞭然である。こころみにその一部を抜書きしてみよう。
逍遥・八一両先生書翰集「こぼれ話」
桃水と一葉女史のこと
若き不知庵の恋
未完成の批評家・福島静斎
随筆家春城翁のおもかげ
吉野作造先生と宮武外骨翁
研堂翁をいたむ
追悼斎藤昌三
乱歩氏へのお願ひ
「素白随筆」と岩本素白先生
まだまだあるぞ。これで凡そ五分の一だ。柳田が生前これらの文章を本に纏めなかったのは、坪内さんも解説で書いているように「それなりに理由があったのだろう」が、本筋の明治文学研究書に見られない「雑文的魅力に満ちている」こうした文章には「火鉢に手をあて、センベイを食べながら、柳田の明治文学談義を聴いている」楽しさが横溢している。逍遥と松井須磨子の艶聞を語って「(須磨子が)ある機会に、逍遥先生に対して、極めて大胆な、思ひきつたbodyのofferをしたといふのである」というような「昔話は、一読されたら、なるべく早くわすれていただきたい」と柳田先生は懇願されているけれども、どっこい、この種の「昔話」はゴシップ好きのわたしも坪内さんもけっして忘れはしない。
岩本素白についての一文は『素白随筆』の書評として書かれたものだが、早稲田の同僚である素白の「風狂」を論じてみごとな人物スケッチになっている。
「先生の風狂は孤高なものであったとはいっても、それは浮世の動きにわが生の本音を曲げないという手づよさから来ているので、浮世に求めたものが与えられない不平から来ているのではない。それで孤高は孤高でも、先生はミザンスロピストではなかった。先生の孤高の遊脚の趣くところは、多く浮世の囂々とは離れた廃駅荒村であるが、そこに住む不幸な人々、不遇な人々の悲愁は、いつも先生の心をつよくうっている。先生は深い同情でそれを受けて、しばしばその同情だけをインスピレーションとして、読むものを三歎させる名文を書いてもいるのである。」
『東海道品川宿』(ウェッジ文庫)や『素白随筆集』(平凡社ライブラリー)を読まれた方は思わず膝を打たれるにちがいない。全文を書き写したくなるけれども、もう一か所のみ掲げておこう。
「先生の随筆が人を動かすのは、一度よむと忘れられないその練りに練った表現の力と、この生きがたい世(と先生の見た)に生きかねて、亡んでいくものの哀れさ、美しさ、こうして亡んでいく自然人間への同情、田里山村、古寺古社、弱者小者、平凡人、そこに見られる限りの風情を見つめて後に残してみようという同情にあろう。その内容だけからいえば、いかにもセンチメンタルな、なよらかな文章であるらしく感じられるが、そうではない。先生の稜々とした風骨を一と節も二た節も移し得た凛とした独造戛々の文章である。」
幼少時に父から切腹の作法を伝授されたという武士の子でありながら、市井の人々の哀歓へのセンチメントを失わなかった素白の「独造戛々(戛戛独造)」の文の特質をとらえて余すところがない。
『柳田泉の文学遺産』は、素白の教え子であった伊藤正雄の『新版 忘れ得ぬ国文学者たち』の版元、右文書院よりの刊行である。こちらは五百部限定、the happy fewへの嬉しい贈り物である。
- 作者: 柳田泉
- 出版社/メーカー: 右文書院
- 発売日: 2009/05
- メディア: 単行本
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