蹉跌と韜晦――小島亮の徳永康元論



 『ブダペストの古本屋』が文庫になった。書店で見かけて好いカバーだなと思ったら、間村俊一のデザインだった。写真は著者徳永康元の撮影。解説は坪内祐三だろうと思って手に取ると違っていた。筆者は小島亮。解説タイトルに「韜晦のあり方――徳永康元を読み直すために」とある。二、三ページ立ち読みして、レジへ持っていった。原本の恒文社版の単行本は持っているが、この解説は腰を落ち着けてじっくり読まねばならないと思ったからだ。
 本書の原本が刊行されたのは1982年、その年には栗本慎一郎の『ブダペスト物語』『血と薔薇フォークロア』も出て、日本国内でのハンガリーへの関心のあり方を一変させた、と、小島は解説の冒頭で書いている。
 余談だが、わたしが栗本慎一郎の著作をわりあい熱心に読んでいたのはこの頃まで。デビュー時はポランニーの経済人類学を日本に紹介した新進の学者で、ポトラッチの再評価にも与って力があったように思う(いやそれは、かんべむさしか)。カルビーが出していた「はあべすたあ」という、当時気鋭の学者たちを招いて対談・鼎談をおこなった薄手の新書のような冊子を栗本が企画していた。エッソ石油の有名なPR誌「エナジー対話」に倣ったのだろうが、ジャーナリスティックな勘にも秀でた人だなと思った。すこし遅れてジャーナリズムに登場した上野千鶴子は「女栗本」と称されたりした。その頃、つかのま教壇に立ったわたしは授業で出たばかりのカッパブックス『セクシィ・ギャルの大研究』を名著であると学生に薦めたが、だれひとりとして関心を示すことはなかった。わたしは教師にはむいていないと思い知った。
 閑話休題。当時、1980年頃までのハンガリーに対する関心に「社会主義というプリズムを通過しなかったものは皆無に近かった」と小島は書いている。たしかにハンガリーといえばいわゆるハンガリー動乱チェコといえばプラハの春につづく軍事介入、と東欧は社会主義あるいはソ連との距離をつねに意識させずにおかない「問題圏」だった。こうした状況のなかで「ひとり屹立していたのは先駆的ルカーチ研究者であった池田浩士であった」と小島はいう。そしてつづけて「池田はルカーチを再発見する代償にハンガリーを忘却した。なぜならルカーチを、非西欧的な資本主義未成熟社会における労働者階級に代わる知的前衛として再読したからである」と。
 ここまで読んでレジへと急いだのであるけれども、小島は、日本のルカーチ論者は「遅れたハンガリー」の紋切型に終始し、ハンガリー社会や文化に関心を示さなかったと述べ、「池田こそハンガリー研究の新潮流を創造してよさそうな人物であった」と述べるにとどまっている。70年代後半、書評紙の編集者をしていたわたしが唯一信を置いていたドイツ文学者が池田浩士だった。小島のいうように「池田の一連の著作は、一九二〇年代に絶頂を迎えるモダニズム文化の再認、それを踏まえたナチズムの内在的理解にあった」わけで、「ハンガリー研究の新潮流」へと歩を進めることを期待するのはわからぬではないが、池田の関心がその方向にないのはそれ以降のかれの軌跡を見れば明らかである。


 「さてこうした状況の中、独自な低声で語られた本書は、日本版ポストモダニズムの騎手(原文ママ)として現れた栗本氏の甲高い超高音と不思議な共鳴をしながら、一服の清涼剤のように読書界に迎えられたのであった。」


 小島は本書および『ブダペスト回想』『黒い風呂敷』『ブダペスト日記』、徳永康元「四部作」におけるハンガリー関連のエッセイをクロノロジカルに抜き出して見せる。その意図は、これほど多量の文章(56本)にもかかわらず、「著者はハンガリー文化についてほとんど何も語っていないのではなかろうか」という「疑問」にある。「本書はもしかすれば、タイトルの「ブダペスト」を括弧に入れてこそ味読すべきではないか」と。
 ここで小島は坪内祐三徳永康元評を召喚する。「旧制高校の名物教師タイプ」で「知ることは多く、書くことの少ない」人。だがこれは徳永を評して必要条件であっても十分条件ではないと小島はいう。坪内こそ徳永のエッセイを「ブダペスト」を括弧に入れて味読した人物にほかならないが、小島の徳永論の弾着距離はもう少し遠くまで達している。小島はいう。「知を愉しみ多くを語らない、と評するには著者の筆法は己を語りすぎ、しかも叙情的でありすぎている」と。しかしその筆法も「若き日の残影に彩られ」、ハンガリーを語って「同時代のハンガリー文化についてまったく何も述べていないのである」と。
 それはなぜか。小島はこの長い解説の後半三分の一を費やして徳永の「人生」に踏み込み、ある「仮説」を立てる。それは昭和という激動の時代を生きたひとりの知識人の蹉跌の物語というべきだが、詳細は直接本書にあたられたい。著者がなにゆえに口を噤んだか、そのレティサンスが書かれたもの以上に雄弁に何事かを語っているというべきかもしれない。「本書の醍醐味は「書かれていない事実を読む」ことにこそ存在すると言ってもよいかもしれない」と小島が書いているように。そう思えば、『黒い風呂敷』で岩本素白にしめした徳永の親近感もじゅうぶんに納得がゆく。
 文庫本の解説ながら一篇の徳永康元論として、また知識人論として、重い、にも拘らず爽快な読後感をおぼえた。今週の週刊文春文庫本を狙え!」はおそらく『ブダペストの古本屋』だろう。坪内祐三は小島の徳永康元論をどう読むのだろうか。


ブダペストの古本屋 (ちくま文庫)

ブダペストの古本屋 (ちくま文庫)