bye-byeさようなら



 声のいい人だった。よくとおる口跡のいいバリトンで、啖呵売をすればさぞかし似合ったろう。浪花節河内音頭を論じたりもしていたから香具師にも通じていたにちがいない。大道芸をタイトルにした本もある。そもそもかれの文章じたいが講釈師や香具師の話芸に通じる一種のアジテーションだった。なによりその歯切れのいい文章が好きだった。
 一度だけ会ったことがある。もう三十年ほども昔、書評紙の編集者だった頃のことだ。たしか横浜の駅ビルの喫茶店だった。何の原稿を頼んだのか、もう覚えていない。原稿を受け取って少し話をし、ちょうどできたばかりだと手にしていた見本――『一番電車まで』だったと思う――をくれた。気風のいい人だった。ジャズから歌謡曲へと論を広げ、『山口百恵は菩薩である』で多くの読者を得る一、二年前のことだ。
 初めて読んだ本は『ジャズより他に神はなし』(71)だったろうか。翌年、『あらゆる犯罪は革命的である』が出て、73年には「あねさんまちまちルサンチマン」(『西郷隆盛における永久革命』)、『闇市水滸伝』など刊行点数は年に七冊を数える。貧乏学生だったので次々に出る新刊を買うために飯代を節約した。
 著書出版の二度目のピークが『山口百恵は菩薩である』の翌々年の81年、秀英書房(たしか白夜書房藤脇邦夫の縁戚の出版社だ)から続々と出て、この年も七冊。熱心に読んでいたのはその頃までで、復刊された『犯罪あるいは革命に関する諸章』も『韃靼人宣言』も買ったから、デビュー作(『赤い風船あるいは牝狼の夜』は別として)から80年代初頭あたりまでの四十冊ほどはすべて読んだことになる。
 どこの馬の骨が書いたのか、Wikipediaに<「ジャズ的なノリ」で書かれることが多く、あまり論理的な文章ではない>とある。論理的なインプロヴィゼーションなんてあるのかね。全学連活動家のヘーゲル風大風呂敷の論文調に辟易して編み出した文体だぜ。資本論マルクスじゃなく、ライン新聞のジャーナリスト・マルクスの同類だ(本人はブランキだというかもしれないが)。
 テックという会社が出していた「ことばの宇宙」という雑誌で、かれはいっとき編集者をやっていたことがある。谷川雁が取締役で、部長が定村忠士(書評紙の大先輩)、編集長が久保覚言語学の専門誌だというが現物は見たことがない。面白い雑誌だったろう。テックとの労働争議に関する話は今もウェブ上で読むことができる。
 先般、澁澤龍彦編集の雑誌「血と薔薇」が復刻(及び文庫化)されたが、「血と薔薇」は全三冊ではない。四号目の編集を請け負ったかれは北鎌倉の澁澤龍彦邸へ仁義を切りに出かける。澁澤は腕組みをして「きみが損するよ」とだけいった。澁澤版「血と薔薇」の執筆者のすべてに執筆を断られ、沼正三の「家畜人ヤプー」や唐十郎の小説などを掲載した四号目が刷り上がった段階で版元が倒産し、一部がゾッキ本として古本屋に流れた。
 「ユリイカ」の澁澤追悼特集に書かれた「澁澤龍彦の侠」*1という文章は、かれにしては珍しく感傷的で、しかも妙なところがある。澁澤龍彦に侠客の風格を感じた、と同じことを芸もなく二度繰り返している。幻の「血と薔薇」は「毒血と薔薇」と題されるはずだったが頓挫し、四十年後に自著の題名となった。
 かれ、平岡正明が九日に亡くなった。死ぬには早すぎると人はいうだろうが、平岡らしいという気がしないでもない*2。ちょうど十歳上だ。あと十年か。いい頃合かもしれない。それまでもつかどうかわからないが。
 「澁澤龍彦の侠」の結びの文句は「俺は澁澤さんが好きだった」だ。俺も平岡さんが好きだったよ。「血と薔薇」第四号は、たぶん、いまも生家の物置で眠っているはずだ。いつか帰郷することがあれば探してみよう。

*1:『平民芸術』三一書房所収、1993。

*2:おおそうだ、もうひとりの竜、太田ドラゴンも五月に亡くなったんだ。