「わかりやすさ」への配慮



 「渡り鳥は、南へ向かふときでも北へ向かふときでも、秋でも春でも、なるべく町なかを避けたルートを選ぶものだ。鳥の群れは、空の高みから縞模様を描くこんもりとした田畑を横切り、森の縁伝ひに飛んでゐたかと思ふと、今度は川の彎曲や谷間に沿つて飛んでみたり目に見えぬ風の道を通り抜けたりする。だが、町の鎖状に連なつてゐる家々の屋根が見えてくると、途端に大きく旋回して避けてゆくのである。」


 上に掲げた文章を薄田泣菫の随筆の一節である、といっても訝しむひとはいないだろう。ちなみに以下の文章と読みくらべていただきたい。


 「空の高みから小石でも投げたやうに、だしぬけに二羽の小鳥が下りて来た。そしてそこらの立樹の枝にはとまらうともしないで、いきなり地面に飛下りざま、互に後になり先になりして、樹陰の湿地をあさり歩いてゐる。薄黄色の羽をして、急ぎ脚に歩く度に、小刻みに長い尻尾を振つてゐるのを見ると、疑ひもなく黄鶺鴒だ。」


 これは薄田泣菫の「早春の一日」。随筆集『独楽園』の冒頭の一篇よりとった。泣菫の随筆は、人事をテーマにしたものもむろん好いけれども、艸木虫魚をえがいたときに余人の追随を許さぬ精彩をはなつ。みごとな観察眼と対象を精緻に写し取る的確で無駄のない文章。天下の名文というべきである。
 さて、最初に掲げた文章は、以下のようにつづく。


 「ある日、町の通りから見える空の切れはしに、秋の渡りの山鷸の群れが現はれた。だがそれに気づいたのは、いつも鼻を上向き加減にして歩いてゐるマルコヴァルドただひとりだつた。」


 そう、これはイタロ・カルヴィーノの『マルコヴァルドさんの四季』の一節である。六月に関口英子による新訳が出たばかり(岩波少年文庫)。集中の一篇「町の鳩」の訳語に若干修正を加え、敬体を常体になおして旧仮名遣いにしたものだ。カルヴィーノは本書に附した解説――訳者によるとモンダドーリ版原著では「まえがき」――で、次のように書いている。ここは訳文通りに引用しよう。


 「それぞれのお話のすじ書きは、幼稚といえるほどシンプルなものですが、文体はそれとは対照的に、考えぬかれた、詩のように洗練された描写(とくに自然現象をえがくときに、そのような文章が使われています)と、現代の都会での生活や人生の悲喜こもごもを語るときに用いられている、飾り気のない、皮肉たっぷりの描写が交互に使われています。むしろ、この本の真骨頂は、ほかでもなくこのような文体のコントラストにあるといえるでしょう。」


 季節の描写にとりわけ意をそそいだとカルヴィーノのいう、その文体のコントラストの妙は、残念ながら訳文からそれほど伺うことができない。旧仮名遣いとはいわぬまでも常体で訳されていたら幾分感じも異なったろうと思う。昨年、福音館文庫から出たディーノ・ブッツァーティの『シチリアを征服したクマ王国の物語』は小学生向けの読み物だが常体で訳されていた(天沢退二郎、増山暁子訳)。敬体を一概に否定するものではないけれども、子供向けの読み物というと判で押したように「ですますでした」となるのは如何なものか。と思っていた矢先、たまたまケストナーの『飛ぶ教室』を手にしてわが意を得た思いがした。すでに三年前、二〇〇六年九月に光文社古典新訳文庫から丘沢静也訳で出ていたものだ。丘沢さんは「訳者あとがき――さらば、猫なで声」で、こう書いている。


 「『飛ぶ教室』は、これまで児童文学として翻訳されてきた。日本の児童書には、「わかりやすさ」に配慮した独特の慣習がある。たとえば、漢字が少ない(と、スピードを出して読めない)。少ない漢字にルビがふってある(たくさんルビがあると、ゴミのように目障りだ)。たどたどしいデスマス調(最近は減りつつあるが)。会話のたびに改行してしまう(のは、児童物に限らず、日本の文芸物の悪しき慣習だ)。
 (略)「わかりやすさ」への配慮は、過剰なビブラートに似ている。ビブラートは、即物的ケストナーに似合わない。今回の『飛ぶ教室』の翻訳では、よけいなビブラートをはずしてみた。すると、ピリオド楽器での演奏のように、スピード感がもどり、細部の声が聞きとりやすくなる。」


 丘沢さんは、「わかりやすさ」への配慮が「子どもを小さな枠のなかに囲いこみ、子どもと大人の垣根を必要以上に高くしてしまったのではないか」という。そして翻訳に限らず「もしも、わからないことがあれば、「わからなさ」をかかえて暮らしていけばいい」という。「どうしても知りたくなったら、自分で調べればいい」と。
 耳の痛い話だ。わたしも本を編集していてたまさか難読字にルビをふることがある。先頃もおそろしく読みにくい字ががんがん出てくる本にルビをふりまくったばかりだ。「恁う」とか「怎う」とか「迚も」とか「有繋に」とか、まあ馴れれば何うということはないのだけれども、有繋にルビがなければ那様な字や這般な字は初心者には鳥渡読みにくかろう。大きなお世話かもしれないが。
 ノン・ビブラートの常体で翻訳された『飛ぶ教室』の本文と、それにもまして丘沢さんの解説がすばらしい。


 「(ケストナーは)「すなおな感情、はっきりした思考、かんたんな言葉」にこだわった。言葉の綱渡りや、ものごとの神秘化を嫌った。深さよりは浅さを、鋭さよりは平凡を、曖昧さよりは明快さを大切にした。軽いジャブをくりだした。カフカのように日常のなかに非日常を見ることはなく、日常的なものを日常的に見た。
 (略)人生は綱渡り。だがケストナーは悲壮ぶらずに、ユーモアというバランス棒をもって、軽快に綱渡りしてみせた。「人生を重く考えることは、かんたんだ。しかし人生を軽く考えることは、むずかしい」
 (略)腰は軽かったが、腰がくだけることはなかった。腰がきまっていなければ、軽快なフットワークは生まれない。小気味いいパンチがねらったのは、浅いインパクトだ。ケストナーはダンディなスタイリストだった。
 (略)感動より、月並みであることを選び、大きな言葉より、小さな言葉を選んだ。生徒全員の前で語る禁煙さんのセリフが印象的だ。「すまない、私はちょっと感動してしまった」。ケストナーは「ちょっと」の達人である。」


 「そういうケストナーの魅力に私が気づいたのは」と丘沢さんはこの解説を結んでいる。「大人になってドイツ語でケストナーを読んだとき。校長グリューンケルン先生ほどではないが、すでにハゲ始めていた」。
 この解説を読んで、すまない、わたしはちょっと感動してしまった。